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2012年1月

2012年1月31日 (火)

般若寺 水仙花だより   1・31

◎水仙: ≪見ごろ・満開≫  花・12月~2

花数・2万本

*1月最後の今日はたいへん寒い朝でした。人間も動物のように冬ごもりできたらいいのになあと思いました。

あしたからは新しい月だし、寒さもあと少しの辛抱と、気を取り直して前進しましょう。

本ブログでは般若寺の鎌倉中興の上人達をよく取あげますが、何分古い時代のことで文字に書かれた資料も限りがあります。

中でもよく残っているのが叡尊さんのものです。直筆のものとしては「般若寺文殊菩薩像造立願文」(重要文化財)をはじめ西大寺には多くの古文書が残ります。

そして現在我々が目にすることのできる書物としては次のようなものがあります。

   『感身学正記―西大寺叡尊の自伝Ⅰ』細川涼一訳注・平凡社東洋文庫664

   『関東往還記』細川涼一訳注・平凡社東洋文庫803

   『鎌倉旧仏教』所収「興正菩薩御教誡聴聞集」田中久雄校注・岩波日本思想大系15

   『西大寺叡尊伝記集成』奈良国立文化財研究所編刊行・法蔵館再刊

このほかに西大寺刊行の書物も数点あります。上の4点の説明は次からといたします。

また最近、叡尊・忍性について書かれた本もよく出ています。追ってまたご紹介します。

〔短歌〕

「月をあび みちのべ冬木 立てる下(した) 

われ一人(いちにん)の とほりゆくかも」

木下利玄・紅玉

〔俳句〕

「斧入れて 香におどろくや 冬木立」与謝蕪村

「遅咲きの 水仙ひくく 香りけり」鎌倉喜久恵

〔和歌〕

「ふりけるも まさごのうへは みえわかで

落葉にしろき 庭のうす雪」

前中納言雅孝・風雅813

「降ったのも、まっ白な砂の上では見分けがつかないで、落葉の上に白く積っているのでそれと知られる、庭の薄雪のさまよ。」

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2012年1月30日 (月)

般若寺 水仙花だより   1・30

◎水仙: ≪見ごろ・満開≫ 花・12月~2

花数・2万本

*今朝の天気予報ではこれからこの冬一番の大寒波がやって来るそうです。奈良では最低気温が-5度と予想されています。

今年は冬らしい冬となっていますが、雪国では新記録の積雪量でみなさん御苦労なさっておられます。家からの雪下ろしで疲労困憊の様子がテレビでも見えてきます。

この寒波は23日の節分まで続き、翌日の立春からは寒さも緩み、気候にも変化があらわれるようですから、あと5日間寒さに耐えて行きましょう。持病のある方、とくに喘息の方は風邪をひかないように、高血圧の方は外出を控えるなど気を付けてください。

春は近くまで来ています。

〔短歌〕

「残る雪 青白みつつ 浮べるを

日くれわびしく うちまもるかな」

木下利玄・銀

〔俳句〕

「大仏の 御ンまなざしも 春隣」山田弘子

「水仙や 思ひ出の父 読書好き」鈴木多枝子

〔和歌〕

「ふりつもる 梢やけさは こほりぬる

風にもおちぬ 松のしら雪」

 

関白前太政大臣(鷹司冬平)・玉葉954

「降り積もった梢が、今朝はそのまま氷りついてしまったのだろうか。風が吹いても落ちない松の白雪よ。」

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2012年1月29日 (日)

般若寺 水仙花だより   1・29

◎水仙: ≪見ごろ・満開≫  花・12月~2

               花数・2万本

*最近東京直下型の大地震の話がマスコミで話題になっています。東京大学の地震研究所が45年以内に起こる可能性が高いと発表したからです。これまでは30年以内とされていたのを近くへと訂正した形です。そして昨日富士山の裾野で震度5を記録する地震がありました。これからはだれもが地震情報に敏感になっていくことでしょう。

以前からよく言われるのは、地震と同時に富士山の噴火があるのではないかということです。宝永4年(1707)大噴火の時には富士山の中腹に新火山ができました。そして「宝永大地震」とよばれる東海、南海の巨大地震が発生しました。これはM84クラスで東海地方、近畿地方で死者2万人という大被害があったのです。この噴火と地震はいつ来るのかは全く予測はできないのでしょうが、これからは富士山の動きも要注目ですね。日本列島を形作る個々の大陸プレートはそれぞれ別個ではあっても地下マグマのエネルギーは一つ、つながりがあるのでしょう。一つの動きが他の動きを誘発するのかもしれません。

富士山は日本一の山。昔の人は江戸の町にもたくさんの「富士山」を造り信仰していました。現代人も富士のお山をもっと大切にしなければいづれタタリがあるのでは。観光開発もひどいですが、米軍と自衛隊の「東富士射爆場」のようなものは富士の尊厳を汚す最たるものです。

〔短歌〕

「朝の雪 谷間の石に つもれるを

温泉(ゆ)のガラス戸に よりそひて見る」

木下利玄・銀

〔俳句〕

「寒椿 落ちたるほかに 塵もなし」篠田悌二郎

「ひたむきに 生きし歳月 白水仙」三浦澄江

〔和歌〕

「まきもくの ひばらの嵐 さえさえて

ゆつきがたけに 雪降りにけり」

鎌倉右大臣(源実朝)・風雅810

「巻向山の檜原に吹く風が、ますます冴え、吹きつのって、ああ、見れば弓月が嶽には、雪が降り積もったことだ。」

・ゆつきがたけ=大和の歌枕。弓月嶽。巻向から三輪にかけての連山の最高峰。

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2012年1月28日 (土)

般若寺 水仙花だより   1・28

◎水仙: ≪見ごろ・満開≫ 花・12月~2

花数・2万本

*今日は初不動であちこちのお不動さんでは護摩がたかれています。奈良では若草山の山焼きがあります。

先日久しぶりに宇治へ行きました。修理が終わりきれいになった平等院と塔の島(昔は浮島と言った)の十三重石塔を拝観してきました。

こちらの石塔は弘安9年(1286)に西大寺の興正菩薩叡尊さんが86歳の時、生涯最後の仕事として宇治橋の修築をされ、その完成記念として、それから宇治を仏の聖地とするため「殺生禁断の地」と定められたことも兼ねて建てられたものです。塔の下には漁具を埋めたそうです。そして漁民には曝(さらし・麻の布)製造と茶の栽培を奨めたと言います。

高さは般若寺の塔より1メートル高く15メートルあります。

造られた年代から言うと般若寺の塔より33年新しいです。作者は般若寺塔を造った宋人石工伊行末(いのゆきすえ)の孫にあたる伊末行(いのすえゆき)ではないかと推定されています。形姿から言えば、般若寺のは塔全体に少しふくらみを見せ初重の笠石を大きく作り、各層の笠の軒下に垂木型を造っているのに対して、宇治のは直線的な屋根の逓減を見せ、垂木型はなく、軸石が笠石と台石に比して細く見えます。それと般若寺の塔は初重の軸石に顕教四方仏(薬師・釈迦・阿弥陀・弥勒)の仏像を彫っているのに対し、こちらは密教の金剛界四仏(阿閦・宝生・阿弥陀・不空成就)の種字(梵字)を大きく彫っています。この違いはおそらく発願者の教学の違いでしょうが、宇治塔は密教を学んだ叡尊さんであるのに対し、般若寺塔は南都の法相教学に立つ僧が釈迦と弥勒の信仰を意識して仏塔を建てたのだろうと思われます。

宇治川の中洲にあることからたびたび洪水で流され150年間砂に埋もれていたのが明治35年に再建されたようです。

これがもしお寺の伽藍の一つであればもっと大切にされたのでしょうが、何分川の供養塔という性格からか、今は公園の一点景のようになっているのがちょっともったいない気がします。

〔短歌〕

「寝しづまる 街の遠くの 遠くより

下駄の音来も 地(つち)凍てたらむ」

木下利玄・紅玉

〔俳句〕

「芸妓らの 畏み詣る 初不動」荒川ともゑ

「水仙や 更に一句を 成さんとし」中村汀女

〔和歌〕

「雲井ゆく つばさもさえて とぶ鳥の

あすかみゆきの ふる郷の空」

土御門院御製・玉葉949

「空を行く翼も寒さに凍えて飛ぶ鳥の様子を見ても、明日は雪が降ることかと思われる、古い廃都、飛鳥の里の空よ。」

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2012年1月27日 (金)

般若寺 水仙花だより   1・27

◎水仙: ≪見ごろ・満開≫ 花・12月~

花数・2万本

  今の時季、庭の手入れ作業はあまりありません。草もじっとお休みです。

それでも山吹の青い軸の間から笹の葉が見えていますし、地面には「ヘクソ葛」のツルが張り巡らせています。合間を見て切ろうとしますが、朝は手がかじかんで作業ははかどりません。まあ、急ぐことでもないし時候に合わせてぼちぼちやります。

また、そろそろ早咲きコスモスの種まきの準備もしなければなりません。花は5月から7月まで咲かせる予定ですから、来月立春の頃から種をまきます。もちろん極寒の中ですからビニールで保温してやらなければなりません。去年は温かったからか、124日にはじめています。秋咲と違って温度が低いので発芽しても成長は遅いです。でも春から初夏にかけて咲くコスモスは珍重されます。

                                                                                                     

〔短歌〕

「何時を まどろみにけむ おぎろなき

深夜の底に ふっと覚めたり」

木下利玄・紅玉

〔俳句〕

「蒼天に 冬芽満ちつつ 山枯れたり」相馬遷子

「水仙に 風見えそめて 立たずめり」高野素十

〔和歌〕

「降りはるる 庭のあられは かたよりて

色なる雲に 空ぞくれ行く」

前大納言為兼・風雅804

「さっと降って晴れる霰は、庭の一方に片寄ってたまり、鈍色の雲がわだかまる中に、空は暮れて行く。」

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2012年1月26日 (木)

般若寺 水仙花だより   1・26

◎水仙: ≪見ごろ・満開≫ 花・12月~2

花数・2万本

*冬という季節は花が少なくなり、そのため余計に花が恋しくなります。寒空の下に咲く花を見れば、だれでも心が温かくなるのではないでしょうか。

きょうはいつもの〔俳句〕欄のほかに有名な俳人が詠まれた「冬の花」をいくつか鑑賞したいと思います。

「柊の 葉の間より 花こぼれ」高浜虚子

「臘梅の 光沢といふ 硬さかな」山上樹美雄

「山茶花や 金箔しづむ 輪島塗」水原秋桜子

「早梅や 日はありながら 風の中」原石鼎

「侘助の ひとつの花の 日数かな」阿波野青畝

「みづからの 光をたのみ 八ッ手咲く」飯田龍太

冬の花は庭の隅や路傍に咲いていて見過ごしてしまいそうな素朴な花ばかりです。でもこうして俳句になると光を受けたように輝いています。

〔短歌〕

「日にてらふ 冬木の枝を 小禽(ことり)らの

なきうつりゐる 動きのするどさ」

木下利玄・紅玉

〔俳句〕

「冬の梅 きのふやちりぬ 石の上」与謝蕪村

「優しくも 冷たくもあり 水仙花」斉藤裕子

〔和歌〕

「朝あけの こほる波まに たちゐする

羽をともさむき 池の村鳥」

広義門院・玉葉942

「早朝の、半ば氷っている波間に、立ったり居たり羽づくろいをしている、その羽音もいかにも寒そうな、池の水鳥どもよ。」

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2012年1月25日 (水)

般若寺 水仙花だより   1・25

◎水仙: ≪見ごろ・満開≫ 花・12月~2

花数・12月~2

*今日は当寺御本尊文殊菩薩様の初縁日です。いつも通り午後一時半より法要を勤めます。年の初めのご縁日を初・・と言いますが、初文殊と言うのでしょうか。同じく今日は天神さんのご縁日で初天神と言います。どちらも知恵の仏と神です。

でも今日は特別に寒いです。北国は奈良では想像がつかないくらい大雪になっています。気温も北海道ではマイナス20度と言います。近年つづいた暖冬はどこへ行ったのかと思うくらいに今年は寒い冬です。

しかし地球温暖化は進んでいます。世界各地でその現象が現れています。高山の氷河が消えるとか南極北極の氷が減っているとか。それでも温暖化は直線的に進むのではなく、行きつ戻りついろんな変化を見せながら確実に気温上昇をとげています。そして寒と暖、雨と乾燥、両極端な現象が地球環境の変化を起こしています。

日本は今年も地震と異常気象に悩まされる一年になりそうです。平穏になるはずの「平成」は皮肉な符号となってしまうのでしょうか。

「風なき 昼まを冬木の 枝にとべる

小禽らの羽音 和にしきこゆ」

木下利玄・紅玉

〔俳句〕

「寒椿 つひに一日の 懐手」石田波郷

「水仙や 柳生に残る 武家屋敷」白石とも子

〔和歌〕

「風のをとも さむき夕日は みえながら

雲一むらに あられおつなり」

前中納言重資・風雅801

「風の音も寒く聞え、寒々とした夕日はそれでも見えていながら、雲の一群の流れる下だけは、霰が落ちているようだ。」

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2012年1月24日 (火)

般若寺 水仙花だより   1・24

◎水仙: ≪見ごろ・満開≫ 花・12月~2

花数・2万本

*今朝はどんよりと曇り空、薄日がさして来たなと思う間もなく、小雪が舞い始めました。奈良では初雪なのかもしれません。まあ積ることはないでしょうが、写真を撮られる方は雪景色を待っておられるようです。

梅と雪そして石仏、石塔、当寺ではどれも絵になります。

しかし、水仙の花にとっては雪は大敵です。せっかく咲いた花も雪の重みで倒されてしまいますから。

こちらでは冬の終わり、春の始まり、を告げる雪なのかもしれませんね。

「日没後 時経てくらき 中空に

山門の屋根の 反り猶見えをり 」

木下利玄・一路

〔俳句〕

「過ぎて行く 日を惜しみつつ 春を待つ」高浜虚子

「水仙に 涙目となる 風の音」荒井和昭

〔和歌〕

「山河の みわたによどむ うたかたの

あわにむすべる うす氷かな」

前大納言為家・玉葉936

「山河の流れの曲り目に淀んでいる水の泡の、そのあたりにはかなげに張った薄氷よ。」

・みわた=川の流れが曲がって水の淀んでいる所。

・あわに=「泡に」と「淡く、ほのかに」の意をかける。

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2012年1月23日 (月)

般若寺 水仙花だより   1・23

◎水仙: ≪見ごろ・満開≫ 花・12月~2

花数・2万本

*きょうは鎌倉極楽寺を紹介します。正式には霊鷲山感応院極楽律寺といい、真言律宗の名刹です。極楽寺は鎌倉幕府の重鎮、北条重時(ほうじょうしげとき・執権義時の子息)公を本願として忍性菩薩が開基されました。城郭都市鎌倉の西の固めである「極楽寺坂切通し」に接して「地獄谷」と呼ばれた「やと」全体に四十九ヶ院の堂塔伽藍を構える大寺院であったが、戦火のためほとんどを失っています。しかし本尊清凉寺式釈迦如来と十大弟子など数々の文化財を伝え、いまだ地下には金堂をはじめ中心伽藍の遺跡が残ります。現在鎌倉は「世界遺産登録」の準備を進めていますが、極楽寺もその有力な候補地となっています。

忍性さんは奈良での活動につづいて、この極楽寺では「施薬院「療病院」「薬湯寮」などの医療・福祉施設を設け、中には牛馬まで療養したそうです。さらに行基さんにならって道、橋、池、港などの土木工事も盛んに起こされ人々の利便を図られました。生前には時の人々からは「医王如来」と崇められ、没後は「忍性菩薩」と諡されました。いま境内の本堂前には当時の薬をひく臼と石鉢が残ります。

そして奥の院には忍性さんの墓塔である大五輪塔が立っています。高357㎝あり関東随一の石塔です。この塔から「舎利瓶」(骨蔵器)が発見されこの地で荼毘にふされ塔を建てられたことが判っています。

先日紹介した「額安寺」と「竹林寺」の御遺骨はここから分骨されたものです。そのほか奥の院には善願上人塔や重時公の墓塔もあります。

極楽寺界隈は近代化されていく鎌倉にあっても、自然と歴史文化が豊かな閑静な地として大きな人気を集めています。

*なお、お寺では奥の院を大切に守っておられ、一般公開は48日のみとなっています。

最寄りの駅はJR鎌倉駅から江ノ電で「極楽寺駅」が寺のすぐ前にあります。

余談になりますが、歌舞伎の「白波五人男」で有名な、弁天小僧菊之助が門の楼上で立腹を切るのはこの極楽寺山門です。

「西山の 上日をかくしゐる 雲うごかず

夕方空気の つべたさするど」

木下利玄・一路

〔俳句〕

「臘梅の 落とす雫に 香りあり」川上朴史

「水仙の 花震へをり 雨の日に」鎌倉喜久恵

〔和歌〕

「むれてたつ 空も雪気に さえ暮れて

氷のとこに をしぞ鳴くなる」

式子内親王・風雅799

「群れて飛び立つべきはずの空も、雪の気配に冷え切り、暮れ果てて、氷った池の面を床と定めて、おしどりが鳴いているようだ。」

・をし=鴛鴦。オシドリ。

・氷のとこ=オシドリが雌雄寄り添って氷上に仮眠する姿から、池の面を床と見立てた。

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2012年1月22日 (日)

般若寺 水仙花だより   1・22

◎水仙: ≪見ごろ・満開≫ 花・12月~2

花数・2万本

3日続いた雨もようやく上がりました。雨のおかげで氷るほどの寒さはきえて地上のものすべてに潤いが与えられたように思います。春先は一雨ごとに季節が前へ進むと言います。草や木は雨が降るごとに新芽、花芽が膨らみ開花をうながされています。小鳥たちのさえずりも日ごとに大きくなってきました。

しかし季節はそれほどたやすく前進するわけではないようです。週が変われば再び寒波がやってきます。こんどはこの冬一番といいますからよほど気を付けないと風邪、インフルエンザにやられます。今一度気を引き締めて乗り切りたいですね。立春まではあと2週間、冬を楽しむ心の余裕を持ちたいものです。

「築山裏 淡紅いろ山茶花 咲きてをり

静けさまとまる このひとくまに」

木下利玄・一路

〔俳句〕

「梅椿 早咲ほめむ 保美の里」松尾芭蕉

「水仙の ありあまるほど 香りけり」久永つう

〔和歌〕

「つららゐる かりたのおもの 夕暮に

山もととをく さぎわたるみゆ」

前参議雅有・玉葉933

「薄氷の張った、苅田の表面も夕暮て来る頃、山の麓をはるかにまっ白な鷺が渡って行くのが見える。」

・つらら=水面に張りつめた氷。薄氷。

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2012年1月21日 (土)

般若寺 水仙花だより   1・21

◎すいせん: ≪見ごろ・満開≫ 花・12月~2

花数・2万本

*洞泉寺の「垢かき地蔵」と「石船」のつづきです。

先ずは「石船」から。外見の形状は船に似ています。南側はきれいに箱状に加工され、北側は上部は四角く加工され下部は自然石の表面のままで船の舳先のように斜めになっている。上部と内側はきれいに加工されつるつるしていて下部は荒仕上げで少しふくらんでいる。

外形実寸は、南北の長さ227㎝、東西の幅103㎝、高さは97㎝。水槽部は南北200㎝東西96㎝深さ50㎝、南側底部に排水穴あり。北側の出っ張り部分は一段高く、長さ103㎝、幅35㎝、深さ14㎝の溝状の窪みがあり底部に排水穴がある。さらにその北の幅23㎝の台状部分には10㎝の逆円錐形の穴が二つあり、それから両外側へ幅2㎝の浅い溝が掘られている。これも排水用でしょう。

きれいに仕上げられた水槽の内壁には梵字で金剛界四方仏が彫られる。北方不空成就如来「アク」字、東方阿閦如来「ウン」字、南方宝生如来「タラーク」字、西方阿弥陀如来「キリーク」字。この水槽の中は曼荼羅世界、水は仏の水となります。

最初、『大和の伝説』の挿絵の通り、ほぞ穴に地蔵石仏がすっぽり嵌まるかと思ったのですが、次に石仏を実測してみて両者のサイズが合わないことが判明しました。この問題はのちほど地蔵さんのところでふれます。

石船の石材は「カナンボ石」と呼ばれる「三笠山安山岩」で黒っぽい堅い石です。春日山に産出し、奈良では柱石、石段、石畳、石垣によく使われています。でもこの石船のような大きなものは見たことがありません。きっと最大級のカナンボ石でしょう。なお「奈良石」すなわち花崗岩の石船は岩船寺門前や上狛小学校校庭などに立派なものがあります。いずれも風呂の設備だと考えられています。

だいたい昔の風呂は蒸し風呂形式で、湯上りにお湯か水を被ったのです。今のサウナと似ています。決して湯船につかるのではありませんでした。今も東大寺や興福寺には中世の大湯屋が残っています。だからこの石船は浴槽ではなく湯上り用の水船だったと思われます。当時は一般には風呂はなく、寺院の法要で、もしくは病院施設に設けられ、「布施湯」「供養風呂」と呼ばれました。

「垢かき地蔵」はまた「閼伽かけ地蔵」と言われることもあります。閼伽(あか)は水、仏様に供える水のことです。地蔵堂の額には「光明皇后勅願 垢かき(手ヘンに爪と書かれる)湯船地蔵尊」と二段に書かれています。

お堂は古材を残しきれいに修理をされていました。そしてお堂の真ん中に不思議な石があります。長100㎝×幅73㎝×高53㎝の長方体で上部に直径56㎝深さ36センチの逆円錐形の穴があり、穴から幅10㎝の浅い溝が彫られています。これは一体何でしょうか。五輪塔の地輪部としたら長方形ではおかしいし、石材は不明ですが、黄色がかった凝灰岩のようです。一つ考えられるのは石臼、それも米搗き用ではなく薬草用ではないでしょうか。上部の溝から薬汁が流れるようにしてあるのではないかと思います。

さてお地蔵さんですが、お堂の奥、正面の壇上におまつりされます。

145㎝幅90㎝奥行51㎝の箱状の石龕に浮き彫りされ、法量高116㎝幅37㎝、左手に宝珠、右手に錫杖を執る普通のお姿です。時代は推定で鎌倉後期とされます。石材は不明ですが、花崗岩のような色合いでもっとキメの細かい石です。

このお地蔵さんがあの石船に立っておられたするとずいぶん背が高いです。240㎝ほど、さらに屋根や宝珠があったとすれば300㎝位になって見上げる高さでしょう。はたしてどのように立っておられたのでしょうか。

船のほぞ穴は奥行35㎝ですから51㎝の石龕は嵌まりません。幅は103㎝ですから90㎝の石龕には余裕があります。ほぞ穴に石龕をはめ込むことは無理です。そこでもう一度お地蔵さんをよく調べると石龕の上面は見えませんが、両側面は綺麗に加工されているのに、下部は荒く削って隙間を漆喰で詰めてあります。

私の推測では、この石龕の下部は出っ張りがあってL字形をしていて、石船に腰かけ状に据えられたのではないか。そしてお堂にまつる時、石龕が立つように出っ張りを削り取って平面にしたのではないか。石船の北端上部に二つの穴があるのは位置がずれないようにホゾを差し込む穴で、下の大きな窪みに足を下ろすように前半分を据えたのではないか。

そして蒸し風呂から上がった人が水槽の水を柄杓か何かでお地蔵さんにかけその水が下の溝の穴から水槽に返るという仕掛けになっており、その水を自らの身にかけると仏の御利益を頂け無事息災がかなう、病気が治るという信仰を身体的に体験できるということではなかったのでしょうか。上部の細い溝は横へこぼれた水の排水溝だと思われます。信仰によるとはいえ大変合理的な構造になっています。

水槽の梵字やお地蔵様の様式から鎌倉時代の作だとすれば、奈良北山の救癩施設に付属する湯屋の貴重な遺物です。北山十八間戸にも湯屋があったそうですが、現在無くなっています。風呂を立てるには建物も必要ですし、水源の井戸、湯を沸かす鉄釜、薪も要ります。相当の財政を用意しないとできません。これほどの立派な大石船とお地蔵様をもつ湯屋が北山にあったとは驚きです。

造った石工はおそらく伊派の人でしょう

この石造物についての研究はあまり進んでおらず、存在も世に知られていないようで、洞泉寺を訪れる人も少ないです。いまだ文化財の指定もなされていません。もっと多くの人に知っていただきたいですね。長々の冗舌御容赦を

「草枯るる この冬堤(どて)に 青みたる

冬青草は 何(なに何(な)にならむ」木下利玄

〔俳句〕

「高野槇 買うて帰るも 初大師」森白象

「水仙や 美人かうべを いたむらし」与謝蕪村

〔和歌〕

「さむき雨は かれのの原に ふりしめて

山まつ風の 音だにもせず」

永福門院・風雅797

「寒い雨は、枯野の原一面を領して降りしきり、(いつもは聞える)山松風の音一つしない。」

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2012年1月20日 (金)

般若寺 水仙花だより   1・20

  ◎水仙: ≪見ごろ・満開≫ 花・12月~2

花数・2万本

  大和郡山市の洞泉寺を訪れました。洞泉寺(とうせんじ)は浄土宗の大きなお寺です。新築された本堂には重要文化財の阿弥陀如来がまつられます。

訪問の目的は本堂の前にある小堂にまつられる地蔵石仏と本堂と庫裏の間の庭にある石船です。この石造物2点が昭和45年(1970)発行の仲川明著『子供ための大和の伝説』中に、「洞泉寺のあかかけ地蔵」という話で紹介されています。挿絵では石船の縁にお地蔵さんが立つという大変ユニークな姿です。私はこの本により過去何度も見学に来ていたのですが、何年か前に来たとき地蔵堂の近くにあった石船が移転されたのか見当たりませんでした。勿論堂内の仏様も暗かったのでよく見えませんでした。今回、洞泉寺さんと同じ浄土宗の吉田寺さんの口添えでお参りさせていただいたので、中庭の石船と堂内のお地蔵さまも間近に拝見でき、大きさも実測させていただきました。両寺の御住職さま、ご好意有難うございました。

先ず伝説によれば、この地蔵さんと石船はもと郡山城にあったのだが、天正のころ(157392)郡山城主の大納言豊臣秀長と、洞泉寺の御開山宝誓上人が同夜に「郡山城内の大書院の西庭のくつぬぎ石を洞泉寺へ移すように」という夢を見、その石をひっくり返してみると、地蔵菩薩であったので洞泉寺へ移し丁重におまつりされたということです。石船も一緒にお寺へ移されています。

この地蔵と石船にまつわる話は、寛永元年(1624)浄土宗の袋中上人(たいちゅうしょうにん・15521639)が書かれた『南北二京霊地集巻上』の「阿閦寺」(あしゅくじ)の項に出ています。もし天正の出来事であれば上人と同時代のことですから信ぴょう性は高いです。

それによると奈良時代、光明皇后が千人の人々を風呂に入れ垢を落とそうと誓いを立て999人まで垢かきを済まされて、最後の千人目の人は体中に「悪瘡」あり「臭気室に満つ」という状態でなおかつ口で膿を吸ってほしいと言ったそうです。皇后は誰もが嫌がるところを実行すると、病人は「阿閦如来」という仏様であり、仏様が皇后の慈悲の心を試されたのだった、ということです。光明皇后は大いに感じてその地に伽藍を建て「阿閦寺」と号したと伝えています。これがハンセン病者の救済伝説となって後々まで伝えられました。

その文章の最後に「その沐浴の具をば、般若寺の後口へ移したまう。近代(天正年中)郡山の城主、石垣のために皆その石を取り、大石槽(ふね)をも曳かせけるとなん、本末俱に迹なし。ただその名のみ。」

この記述から石地蔵と石船は郡山へ運ばれる前は般若寺の後口、すなはち北側にあったことを伝えています。

これは現「北山十八間戸」が般若寺北から移転したという言い伝えとも関連します。また西大寺の叡尊さんの記録に般若寺の北に「疥癩(かいらい)の屋舎あり」ということとも関係あるようです。

長くなりましたので、続きは明日にさせていただきます。

「おくつきは 並びたれども うつし世に

相ひ逢はざりし 吾子三人(あこみたり)はや」

木下利玄

〔俳句〕

「大寒の 火の気を断ちし 写経かな」藤岡あき

「初雪や 水仙の葉の たわむまで」松尾芭蕉

〔和歌〕

「たび枕 ふしみの里の 朝ぼらけ

かりたのしもに たづぞなくなる」

式子内親王・玉葉932

「旅の仮寝をする、伏見の里の夜明け方の景色よ。稲の刈り株の並ぶ田にまっ白に霜が置き、鶴の鳴く声が聞こえて来るようだよ。」

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2012年1月19日 (木)

般若寺 水仙花だより   1・19

◎水仙: ≪見ごろ・満開≫ 花・12月~2

花数・2万本

  今日のお天気は曇りから雨にかわるようです。去年の12月から2カ月近く雨らしい雨がなくカラカラに乾き、毎日乾燥注意報が出されていました。時々は潤いの雨も降ってほしいですね。雨が降るごとに季節は変化を見せます。寒い冬にも少し移ろいが見え始めたのかもしれません。

いま水仙、ロウバイ、山茶花、侘助といった冬の花が咲いています。しかし春を告げる梅はまだ蕾です。月が替われば各地の梅の名所から花の便りが届くでしょう。当寺でも白梅から始まって、紅梅、桃色の豊後梅へと咲き継いでいきます。そのほかネコヤナギや山茱萸も早春の花です。立春が待遠しいです。

「わが妻は 吾子の手握り 死にてはいや

死にてはいやと 泣きくるひけり」木下利玄

〔俳句〕

「人間を やめるとすれば 冬の鵙」加藤楸邨

「水仙へ 俯き並ぶ 石仏」小阪律子

〔和歌〕

「冬ふかき 谷のした水 をとたえて

氷のうへを はらふ木がらし」

恵助法親王・風雅794

「冬が深まった、谷陰を流れる水は氷結して流れの音が絶え、氷の張りつめた川面の上を払うように木枯しの風が吹く。」

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2012年1月18日 (水)

般若寺 水仙花だより   1・18

◎水仙: ≪見ごろ・満開≫ 花・12月~2

花数・2万本

*室町時代の有名な日記に般若寺のちょっと変わった話が出ています。

中世から近世への移行期、文明10年(1478)~元和4(1618)まで興福寺子院の多聞院院主英俊らが記した『多聞院日記』です。その永禄8年(156688日の記事に「瘧病ヲトス歌」と言うのが記されています。

瘧病(おこりやまい)と言うのは隔日にまたは毎日一定時間、間欠的に発熱する病気でマラリヤ熱と考えられます。今の日本ではほぼ消えましたが、かつては蔓延していた病気だそうです。ハマダラ蚊を介して病原菌が体内に入り40度の高熱を出して苦しめられる熱帯・亜熱帯の病気です。「わらわやみ」ともいい子供がかかりやすいそうです。また「瘧が落ちる」と言えば「何かに夢中になっていた状態から急にさめること」のたとえです。

『多聞院日記』にのる瘧を落とすマジナイの歌をご紹介します。

「瘧病ヲトス歌、弘法大師般若寺三角ノ石塔ニ五筆ニテ書付ケテ之アリ、」

「ツユ落チテ 松ノハカロク ナリヌレハ

          雲ノヲコリヲ ハラウ秋風」

「此歌ヲ南向テ病者ニ三返唱サセヨ、速ニヲツル也、現勝利アリト彼寺ノ妙光院口伝也、掛字ニ」

「落ちる」、「軽く」、「起こりを払う」と言う言葉が詠みこまれた歌を刻んだ三角の石塔とは火輪が三角形の三角五輪塔(東大寺重源上人墓塔などの作例あり)であったと思われます。今当寺に現存しないのは石を削ってマジナイに飲ませたので消滅したのだろうという研究者もおられます。

病人を南向かせこの歌を3回唱えさせればたちまちに治ると伝えています。現に効き目があった人がいるとも。それから妙光院は般若寺寺内にあった子院です(明治元年に廃絶)。

その際二つの歌を書いた軸を掛けるのでしょうか。

「南無 上宮法皇

シナテルヤ 片岡山ニ 飯ニウヘテ 

フセル其ノ旅人アワレ 太子

イカルカヤ 富ノ小川ノ 絶ヘハコソ 

ワカオオキミノ 御名ハ忘レメ 達磨 」

掛け軸の歌は聖徳太子と達磨大師の歌で、南無上宮法皇は聖徳太子を拝む言葉です。

「久しくて この子によれるに 病みたれば

面もちまじめに われを見ており」木下利玄

〔俳句〕

「礎石見て 初観音へ こころざし」泉刺花

「水仙の 群がり咲きて なほ静か」内藤呈念

〔和歌〕

「とこさえて ねられぬ冬の よをながみ

またるるかねの をとぞつれなき」

章義門院・玉葉931

「床の中まで冷えこんで、寝られない冬の夜は特別に長くて、早く明けないかと待たれる暁の鐘の音は、無情にも一向に聞えて来ない。」

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2012年1月17日 (火)

般若寺 水仙花だより   1・17

◎水仙: ≪見ごろ・満開≫ 花・12月~2

花数・2万本

*今日は阪神大震災のあった日。もう17年たちました。6000を超える人の命が失われ、家屋の被害は25万軒にもなりました。いまも年配者の方はよく覚えておられるでしょうが、若い人たちにはあの恐ろしい揺れはご存じない方もおられます。奈良では去年の東北の大地震と同じ震度4でした。でも揺れ方は違っていたように思えます。去年のは横揺れが長く舟に乗っているようでした。それに対して、17年前のはまず最初にドカンと縦に大きな衝撃がありそれから大きく横揺れがあったように覚えています。揺れがおさまって寝床から飛び起き境内へ走り、十三重石塔など被害がないか確かめました。おかげで堂塔には被害はなく、ただ鐘楼の梵鐘が横から誰かが押したように大きく揺れていたのがいまも目に焼きついています。被害は皆無であったかと言うと、後日コンクリートの家屋土台が割れていたり、コンクリート塀にひびが見つかっています。地震直接の影響なのか、老朽化なのか原因は定かではありません。しかしあと少し震度が大きければ、石造物だけではなく本堂など木造古建築に大きな被害が生じたでしょう。過去に数度の大地震が石塔などに記録され、直近では安政大地震が大被害をもたらしています。この地震は最近警戒されている南海、東南海、東海地震が連動して一年に何度も繰り返し起こったようです。歴史的には幕府政治を行き詰らせ、江戸時代の終わりを告げるきっかけになっています。

東北の大震災はいまだ復興していません。ここに新たな大地震が襲いかかれば「何か」が終わりを迎えるのではないでしょうか。私たちは、まずは用心を怠らず命第一に生きることです。そして大震災の犠牲者の尊霊にご冥福の祈りを捧げましょう。

「子を失ふ 親の悲み そは遠き

ことと思ひしを 今日われに来(こ)し」木下利玄

〔俳句〕

「寒木瓜を 花より赤き 卓に置く」水原秋桜子

「折れてなほ 水仙花を 開きけり」中原敏雄

〔和歌〕

「吹きさゆる あらしのつての 二こゑに

またはきこえぬ あかつきのかね」

前大納言為兼・風雅786

「冷たく吹きつのる嵐にのって来た、ただ二声ののち、もうそれ以上は聞えない、暁の鐘の音よ。」

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2012年1月16日 (月)

般若寺 水仙花だより   1・16

◎水仙: ≪見ごろ・満開≫ 花・12月~2

              花数・2万本

*忍性さんの墓塔のある竹林寺を訪ねました。

竹林寺は生駒市有里町にある律宗の寺です。奈良時代に行基(668749)さんが始めた「生馬仙房」の後身で、文殊菩薩の聖地である中国の五台山大聖竹林寺に因んでつけられた寺名です。行基さんは当時禁じられていた一般民衆への仏教布教により人々から篤く崇敬を受けられました。橋を架けたり池を掘ったり水路を造ったりしたほか、「布施屋」を作り行き倒れ人を救済したりと衆生利益の活動を盛んにされました。それで日本で初めて「菩薩号」を贈られ「行基菩薩」と呼ばれています。のちの叡尊さん忍性さん達がお手本とされた菩薩さんでした。一方、行基さんは東大寺大仏の造営にも多大な功績があったこともよく知られています。生涯に五十数ヶ寺と多くの寺を建てられ、最後は奈良の菅原寺(喜光寺)で亡くなられ、生駒の輿山(往生院)の地で火葬され、近くの竹林寺にお墓が営まれました。輿山は中世以来地域の惣墓となり、お堂の前には重要文化財の宝篋印塔(日本最古)、堂裏には鎌倉時代の五輪塔があり行基さんの供養塔と伝わります。

忍性さんは少年時代から竹林寺の御本尊文殊菩薩を信仰され、寺の復興にも大いに協力されたようで、分骨を遺言されました。私が何十年か前に参詣した時には五輪塔の残骸のような石が数個積まれていたのですが、1986年、発掘調査で地下から六角形の石製容器に収められた青銅製の骨蔵器が発見され、その後新たに五輪塔が造立されました。同時に竹林寺は本堂と庫裏が復興され寺観は整っています。しかしいまだ本山の唐招提寺管理となっていて住職がおられないのは残念です。

「やわらかく をさなきものの をごそかに

眼つぶりて 我より遠し」木下利玄

〔俳句〕

「樹のうろの 藪柑子にも 実の一つ」飯田蛇笏

「水仙の 凛乎と立てる 心意気」大橋敦子

〔和歌〕

「かはちどり 月よをさむみ いねずあれや

ねざむるごとに 声のきこゆる」

永福門院・玉葉924

「河の千鳥は、月夜を寒がって寝ずにいるのだろうか、寝覚する度に、その声が聞こえるよ。」

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2012年1月15日 (日)

般若寺 水仙花だより   1・15

◎水仙: ≪見ごろ・満開≫ 花・12月~2

花数・2万本

*今日は小正月。元日を大正月と言うのに対しての称です。正月の門松やしめ飾りなどを焼く「どんど焼き」「左義長」が行われるのも今日です。以前奈良では若草山の山焼きが行われていましたが、最近は毎年日が変わり、今年は28日にあるそうです。日にちを動かすことにより山焼き本来の意味が失われてしまい、単なる観光行事になってしまっているようです。

今日でお正月も終わり、これから春が来るまで奈良の観光地は静かな冬籠りに入っていきます。今の木々の葉が落ちてお寺の堂塔がよく見える季節もいいのではないでしょうか。

「堂の後 日あたることなく 本尊の

そびら間ぢかみ 寒さに浄めり」木下利玄

・そびら間ぢかみ=本尊の背中が近いので

〔俳句〕

「暖かく 暮れて月夜や 小正月」岡本圭岳

「水仙を 活けてその香を 纏ひけり」稲畑汀子

〔和歌〕

「ながき夜の 霜のまくらは 夢たえて

あらしの窓に こほる月影」

二品法親王覚助・風雅780

「冬の長い夜の、霜を置く程の枕もとの冷えこみに夢もとぎれて、見れば嵐の吹く窓に、氷るような月の姿がかかる。」

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2012年1月14日 (土)

般若寺 水仙花だより   1・14

◎水仙: ≪見ごろ・満開≫ 花・12月~2

花数・2万本

*忍性さんが子供の頃からお母さんに連れられてよく参詣され、母の死を目前にして16歳で出家したのは額安寺でした。額安寺は屏風の里から北へ2キロ余り、大和川を渡ってすぐのところにあります。大和郡山市額田部の里にある古い寺で、元は真言律宗でしたが、近年宗派を離れ単立寺院となっています。寺伝では聖徳太子が建てた「熊凝精舎」の後身と言います。古くは「額田寺」と呼ばれ、古代の豪族、額田部氏の氏寺でした。

鎌倉時代、衰退していたのを西大寺の叡尊さん忍性さんらが復興したのです。その後戦火で焼かれ衰微しましたが、今も奈良時代の虚空蔵菩薩などいくつかの古文化財を残す郡山では数少ない古刹寺院です。

門前の明星池の中島に立っていた宝篋印塔は鎌倉時代の石工、大蔵安清(伊行末と同じ宋人)の作で大変姿の美しい塔です。近年修復され境内に移されているので間近に見られます。

そして現境内の北300メートルのところに「鎌倉坂」「鎌倉墓」と呼ばれる奥の院墓所があります。そこには忍性菩薩塔、善願上人塔など8基の五輪塔が整然と並び、さらに近世の歴代住持のお墓もあります。そのうち一番大きい五輪塔が忍性さんの墓塔です。昭和57年(1982)の修理の時、金銅製の骨蔵基が見つかり、忍性菩薩の墓塔であることが判明しました。なお骨蔵器は鎌倉極楽寺、生駒竹林寺からも見つかっており遺言どおり三ヶ寺に分骨されたことが証明されました。

忍性さんは良観上人と言ったり忍性菩薩と言ったりしますが、「上人」は律宗のほか浄土宗や日蓮宗でも使用される尊称です。本来は「官僧」(かんそう)に対して「遁世僧」(とんぜそう)をさす普通の名称でした。官僧は朝廷から天皇の名において僧位・僧階(僧正、僧都、律師など)を与えられ国家の安泰を祈る国家公務員的な僧のことで、遁世僧は官僧から離脱(再出家)して民衆を教化した無位無官の僧を指します。そして房名に上人を付けるのが妥当です。たとえば有名な法然房源空さんを法然上人とお呼びするように。忍性さんは生前は良観上人と呼ばれていました。

一方、「忍性菩薩」は没後、後醍醐天皇から諡された菩薩号です。法名に菩薩号が付けられています。私たち真言律の末徒は「南無忍性菩薩」(なむにんしょうぼーさー)とお唱えします。

「内陣の くらきしじまの 奥処(おくが)にして

厨子の扉の 左右(さう)ゆ閉ぢたり」木下利玄

〔俳句〕

「赤よりも 白に華やぎ 葉牡丹は」蔵本はるの女

「水仙の うつむいてゐる 自己主張」伊勢きみこ

〔和歌〕

「さほがはに あそぶちどりの さよふけて

その声きけば いねられなくに」

よみ人しらず・玉葉923

「佐保川に群れ遊んでいる千鳥よ。夜が更けて、その可憐な声を聞けば、私は眠れなくなってしまうものを。」

・万葉集1124

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2012年1月13日 (金)

般若寺 水仙花だより   1・13

◎水仙: ≪見ごろ・満開≫ 花・12月~2

花数;2万本

*いまロウバイも咲いています。黄色い小さな花でいい香りがします。当寺には一本あるだけですが、本堂の前にあるのですぐ見つけられます。

ロウバイは蝋細工のような感じのする梅に似た花なので「蝋梅」と書いたり、陰暦12月(臘月)に咲くので「臘梅」と書く場合もあります。

128日はお釈迦様がさとりを開かれた「成道会」(じょうどうえ)といい、また別名「臘八」(ろうはち)ともいい各宗でいろんな行事があります。

原産は中国、ロウバイ科に属す落葉低木。

「堂あゆむ わが下駄の音 止まればやみ

内陣のしじまへ 瞳を凝らす」木下利玄

〔俳句〕

「山の日は 鏡のごとし 寒桜」高浜虚子

「初雪を 払ひ水仙 匂ひ立つ」君島栄子

〔和歌〕

「ふりはつる 我をもすつな 春日野や

をどろがみちの 霜の下草」

前大納言実教・風雅770

「全く老人になってしまった私をも、どうか捨てて下さいますな、春日の神よ。春日野の草木の生い茂った道の、霜に打ちひしがれた下草のようなこの身を。(どうか下積みの私に、官途を開いて下さい。)」

・をどろがみち=「棘路」(きょくろ)の訓読語。中国の政庁で左右に各九株の棘(ナツメの一種でとげのある小灌木)を植えて諸卿の位置を示した所から、公卿の異称。一方、「おどろ」には「とげのある木の生い茂っている所」の意があり、実景をしてはこれをかける。

・露の下草=下積みで不遇の身をたとえる。

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2012年1月12日 (木)

般若寺 水仙花だより   1・12

◎水仙: ≪見ごろ・満開≫ 花・12月~2

              花数・2万本

*今日から鎌倉極楽寺御開山の良観房忍性さん(12171303)を紹介します。五回ほど予定していますが、第一回目は誕生地です。忍性さんは日本の仏教福祉活動の元祖ともいわれる方で、般若寺の近くに現存する「北山十八間戸」(きたやまじゅうはっけんど・こ)を創められたと伝わり、鎌倉時代、世間から疎外されていたハンセン病患者をはじめ諸の病人の救済事業を盛んに行われました。般若寺とは直接の関わりは不明なところが多いですが、関東鎌倉へ行かれてからも般若寺復興には大きな支援をされていたようです。

忍性さんは建保5年(1217)、現在の奈良県磯城郡三宅町屏風(びょうぶ)の里で伴貞行(とものさだゆき)の子息として生まれました。男子は一人であったようで信心のあつい母に文殊信仰を教えられ、16歳の折、母の死に際し仏門に入ることを決心、額安寺で剃髪されます。以後額安寺、信貴山、安倍文殊院、生駒山竹林寺へ参詣修行し、延応元年(1239)23歳で思円上人叡尊に出会い、西大寺において受戒しその弟子となられました。

いま屏風の里には誕生地の石碑が立っています。これは2002年の700年御遠忌に地元の浄土寺(浄土宗)、斑鳩吉田寺(浄土宗)、鎌倉極楽寺(真言律宗)、奈良般若寺(真言律宗)の四か寺と三宅町の忍性菩薩顕彰会の皆さんの同心合力によって建てられたものです。

石碑のすぐ横の道は古来太子道と呼ばれ、聖徳太子が飛鳥と法隆寺の間を通われた由緒ある道です。路傍には「聖徳太子腰かけ石」があり、地名の由来は聖徳太子が休憩を取られたとき村人が屏風を立てかけたことによるそうです。

又父の姓、伴は古来の大伴氏の名をついだもので、屏風の里のすぐ近くに「伴堂」(ともんどう)いう名が残ります。屏風の里は室町時代に築かれた環濠がよく残る歴史深い土地です。

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「神武天皇の 御腰かけ岩は 道ゆきて

われ等も休む ただの岩なり」木下利玄

〔俳句〕

「口紅や 四十の顔も 松の内」正岡子規

「水仙に 屈み香りを 確かむる」堀田恵美子

〔和歌〕

「けふくれて あすかの川の かは千鳥

日にいくせをか なきわたるらん」

躬恒・玉葉914

「今日が暮れて明日になるという名の、明日香川の千鳥よ。お前は一日にどれ程多くの川瀬を、鳴きながら渡るのだろう。今日も明日も。」

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2012年1月11日 (水)

般若寺 水仙花だより   1・11

◎水仙: ≪見ごろ・満開≫ 花・12月~2

              花数・2万本

*今日も晴れ、風もなく寒い中にも日ざしがあり、日だまりでは温いです。

いま水仙は満開です。それからワビスケ(侘助)も咲き出しています。侘助は椿の一種で、葉も花も椿にくらべて小さくかわいいです。口をすぼめたような花の形をしてます。名前の由来は文禄・慶長の役のとき「侘助」という人が持ち帰ったそうです。だから朝鮮半島原産の花です。日本ではそのつつましさから茶花に好まれます。

「月あかるく 草木まざまざ てらさるる

道のゆくてに 歩みをはこぶ」木下利玄

〔俳句〕

「とび下りて 弾みやまずよ 寒雀」川崎茅舎

「水仙の 香に筆止めて 筆進め」稲畑汀子

〔和歌〕

「草葉こそ をきそふ霜に たへざらめ

なににかれゆく やどの人めぞ」

三条西入道前太政大臣(三条実重)・風雅769

「草葉こそは、置き加わる霜に堪えかねて枯れて行きもしようが、一体何が原因で離(か)れ、疎くなって行く、私の宿の訪問者達なのだろうか。」

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2012年1月10日 (火)

般若寺 水仙花だより   1・10

◎水仙: ≪見ごろ・満開≫ 花・12月~2

              花数・2万本

*般若寺中興の第一世長老、慈道房信空(12311316)さんをご紹介します。慈道上人は現大和郡山市額田部の額安寺、寺僧学春の子として生まれ、幼名は松石童子といいました。12歳の時叡尊の弟子として西大寺で出家。般若寺が復興された文永4年(1267)、復興願主観良上人の願いにより般若寺が西大寺末寺に加えられ、師叡尊の命により般若寺長老となられました(36歳)。上人は般若寺の丈六本尊の脇侍像を造り、大雨で流れた木津川の泉大橋をかけ替えたりと活動した後、叡尊さんの後を継ぎ西大寺第二世長老となりました。そして後宇多上皇の帰依をうけその戒師となり、諸国の国分寺を末寺とすることを認められその復興を行われました。また奈良の南市に銭湯を建て人々に入浴を進めたとも言われます。叡尊さんにならって旺盛な活動を西国に広げ、真言律の教団を大きくしたのは慈道上人の功績でした。正和5年(1316)遷化、のち朝廷より「慈真和尚」を諡(おくりな)されました。墓塔(五輪塔)は西大寺奥の院、興正菩薩塔の西側に造られています。

「さむざむと 暮れゆく道を 猶あゆみ

光りそめたる 月を見るかな」木下利玄

〔俳句〕

「福笹を かつぎ淋しき 顔なりし」高浜年尾

「香を風に 託し揺れゐる 野水仙」柴田毅

〔和歌〕

「すみのぼる 空にはくもる 影もなし

こかげしぐるる 冬のよの月」

前大納言為家・玉葉910

「澄みきってさし昇る空には、曇るような様子もない。それでいて、近い木陰には気まぐれな時雨のそそぐ、冬の月の面白さよ。」

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2012年1月 9日 (月)

般若寺 水仙花だより   1・9

◎水仙: ≪見ごろ・満開≫ 花・12月~2

              花数・2万本

*毎日カラカラの晴天が続きあちこちで火事が起こっています。一度雨があればいいのですが、今日も空は曇っていても雨は降らないようです。

水仙は今が盛りと咲き競い、芳香を発してあたり一帯を清めています。ここ三日は連休とあって参詣の方は多いです。そして先日紹介した「本性房の力石」が大変人気を集めています。石の周りはいつも人だかりで、男性も女性も大人も子供も石を持ち上げておられ、つねに笑いが絶えません。「もてる女石」「もてる男石」「もてない石」と順番にチャレンジして自分の体力を確認しておられるようです。どうぞくれぐれも足腰に注意して「もてる女」「もてる男」になってください。

「暮れてゆく 道の底びえ 目あぐれば 

月はみ空に あかるみゐたり」木下利玄

〔俳句〕

「丹頂の 相寄らずして 凍てにけり」阿波野青畝

「竹垣に そうて咲きをり 水仙花」鈴木幾子

〔和歌〕

「空たかく すみとおる月は 影さえて

しばふにしろき 霜の明けがた」

前大納言実明女・風雅767

「空高く、あくまでも澄んだ月は光が氷るように冷たく、芝原に置いた霜に白々と反映している、明方の景色よ。」

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2012年1月 8日 (日)

般若寺 水仙花だより   1・8

◎水仙: ≪見ごろ・満開≫ 花・12月~2

              花数・2万本

*真言律宗宗祖、興正菩薩叡尊(こうしょうぼさつえいそん12011290)の誕生地を訪ねました。場所は大和郡山市白土(しらつち)です。菩薩の自伝、『金剛仏子叡尊感身学正記』によれば、「建仁元年(1201)五月、大和国添上郡箕田里(近年敬田院と号す)において託生す。父興福寺の学侶慶玄(源氏より出ず)。母藤原氏なり。」とあります。今国道24号線から東へ500メートルほど東へ入った白土集落の道路端に誕生地を示す石碑と説明板があります。道路敷きですぐ後ろに運送会社の倉庫があるので見落としてしまいそうです。

そして集落内の浄土宗浄福寺境内に小さなお堂があってその中にブロンズの興正菩薩像がまつられています。これは1990年の七百年御遠忌に西大寺から奉納されたもので、宗派が違うのに祖師像をまつっていただいたのは浄福寺さまの御住職をはじめ檀家さんの御厚情・郷土愛のたまもので、私たち真言律の末流のものは深く感謝せねばなりません。

そして現在も菩薩の一族末裔のおうち(木曽義仲の子孫なので仲家と言います)が存続していることには驚きます。古記録では鎌倉時代には誕生地に敬田院という西大寺末寺があったそうです。また菩薩の実の兄は出家して禅心といい、又甥は菩薩のもとに入門し、惣持という名の高弟で大阪の西琳寺の長老となっておられます。一族こぞって興正菩薩に帰依しその活動を支えられました。白土は奈良盆地の真ん中で、周りに青垣の山々が望まれる大和国中(くんなか)のいい場所です。

「太陽は 山の厚みの 彼方(あなた)なれば

この面(も)の草の 色の寒さよ」木下利玄

〔俳句〕

「願かけの 母の手を曳き 初薬師」新井桜邨

「水仙に 日のあたるこそ さむげなれ」安井大江丸

〔和歌〕

「しぐれふる 山のはつかの 雲まより

あまりて出づる ありあけの月」

前大納言為家・玉葉910

「時雨の降る山の端の、僅かな雲の間から、隠れきらずに顔を出す、二十日の有明月よ。」

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2012年1月 7日 (土)

般若寺 水仙花だより   1・7

◎水仙: ≪見ごろ・満開≫  花・12月~2

               花数・2万本

*今日は人日(じんじつ)、七草粥を食べると万病を除き、一年を無病息災に過ごせると言います。七草はせり、なずな、ごぎょう、はこべ、ほとけのざ、すずな、すずしろ、を言います。七草がそろわなくとも新春の若い青菜であれば何でもいいと思います。少し味噌を入れて粥を炊けば胃にやさしい食事となります。現代人は肉食が過ぎているように思いますから、たまには菜っ葉のおかゆを食べるのがいいです。また芋粥もおいしいですね。

「冬の日は 壁と地面の 直角に

来りたまれり それがよろしき」木下利玄

〔俳句〕

「田ほとりに ありあふものの 七日粥」黒坂紫陽子

「水仙の 花の高さの 日影哉」河合智月

〔和歌〕

「のこりつる 峯の日影も 暮れはてて

夕霜さむし をかのべの里」

紀淑文朝臣・風雅765

「残っていた峯の上の日影も消え、あたりはすっかり暮れて、夕霜の置く様子がしみじみと寒い、岡のほとりの里よ。」

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2012年1月 6日 (金)

般若寺 水仙花だより   1・6

◎水仙: ≪見ごろ・満開≫  花・12月~2

               花数・2万本

*「木津惣墓五輪塔」に続いては「西大寺奥の院興正菩薩叡尊五輪塔」を紹介します。

叡尊(えいそん・えいぞん)さんは仮名(けみょう、字、房名ともいう)は「思円房」(しえんぼう)といったので存命中は「思円上人」と呼ばれ、没後朝廷から「興正菩薩」(こうしょうぼさつ)という「菩薩号」をおくられました。これは奈良時代の行基菩薩にならう、「菩薩行」に生涯をかけられたことに対する称号です。

      

 上人は真言律宗の宗祖、西大寺の中興開山として世に知られますが、般若寺にとっても鎌倉復興の功労者です。ちなみに般若寺の中興の祖は「観良上人」という方ですが。しかし本尊丈六文殊造立や文殊供養の無遮大会(大布施行)などで歴史上著名な業績を残された思円上人は、般若寺中興の祖師といってもよいでしょう。事実、文永四年復興の暁には般若寺は西大寺の末寺となり、叡尊高弟の「慈道房信空」が中興第一世長老に迎えられました。(叡尊没後西大寺第二世長老となり西大寺へ帰られます)

上人は大和国(現郡山市白土)に生まれ、醍醐寺、高野山などで真言密教を、興福寺で戒律学を学び、東大寺で戒律復興を成就され、西大寺へ入られました。

そして90歳(12011290)の生涯を正法興隆(釈迦の教えを世に広め)と衆生済度(物心両面の救済)につくされた菩薩行の僧でした。没後西大寺西方の野で荼毘に付されその場所に建てられたのがこの五輪塔です。

塔には銘文は記されませんが記録によると正応3年(1290)の造立。石工の名は記録されませんが、おそらく伊派3代目の末行(すえゆき)あたりの作ではないかと思われます。その姿の整美なことと規模の大きさから以後の五輪塔の模範となります。先日紹介の「木津五輪塔」の2年前の作です。

「旅に来て はじめての夜の さびしきに

明くれば降れる 山里の雪」木下利玄

〔俳句〕

「寒念仏 さては貴殿で ありしよな」小林一茶

「雪が来て 水仙の揺れ 止みにけり」大石芳三

〔和歌〕

「風のをとの はげしくわたる 梢より

むら雲さむき 三日月のかげ」

永福門院・玉葉909

「風の音がはげしく通り過ぎて行く梢の間から、むら雲の中にいかにも寒々と鋭く光る三日月の姿が、見えかくれするよ。」

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2012年1月 5日 (木)

般若寺 水仙花だより   1・5

◎水仙: ≪見ごろ・満開≫  花・12月~2

花数・2万本

*毎日寒い日がつづきます。今日も薄氷がはっていました。いま晴れているかと思えば風の中に小雪が舞ってきたりしますから、外へ出るときは防寒着は欠かせません。

それでも庭には春の気配がします。真竹や常緑樹は青々と目にやさしく、カナメ・ナンテンの赤い実やピンクの真弓の実は、色彩のとぼしい冬の庭に彩りをそえています。そしてネコヤナギと梅の蕾がふくらみ春が近いことを教えています。

冬の花、水仙・山茶花は今が盛り、ワビスケも咲き出しました。

「酒を飲みて 気がほぐれたれば 夜目に見る

人も灯(あかり)も 我によきかな」 木下利玄

〔俳句〕

「せりあげの なりもののいま 初芝居」 久保田万太郎

「風ふくれ かげが翳生む 水仙花」 沼田巴字

〔和歌〕

「吹きとをす 梢のかぜは 身にしみて 

さゆる霜夜の 星清き空」

権大納言公蔭・風雅763

「梢を吹き通して来る風は、冷たく身にしみて、見上げれば冴え氷る霜夜に、星の光の清らかな空が仰がれる。」

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2012年1月 4日 (水)

般若寺 水仙花だより   1・4

◎水仙: ≪見ごろ・満開≫ 花・12月~2

花数・2万本

*晴れましたが見るからに寒そうな空です。今日ことし初めて寺から外へ出ました。写真撮影の取材調査です。その成果をまた本ブログでご紹介します。

*「法泉寺十三重石塔」に続いて「木津惣墓五輪塔」を紹介します。所在は京都府木津川市木津清水の集落内、国道24号線から少し西へ入ったところ、奈良から宇治京都へ通じる旧京街道沿いにあります。かつては大きな惣墓(そうばか・中世の共同墓地)があって、その総供養塔であったのですが、都市開発の区画整理で墓は東山の大谷墓地へ移転し、古い石仏や墓石3000基もそちらへ移されました。五輪塔は国の重要文化財に指定されていて元の場所に残されています。

この五輪塔は花崗岩製で高さが37メートルもあって西大寺叡尊塔(1290造)や極楽寺忍性塔とほぼ同じ大きさ、惣墓の供養塔としては日本最大の規模です。そして貴重な刻銘が記されている点からも有名かつ重要な文化遺産です。その銘によれば、鎌倉後期の正応5年(1292)に「木津の僧衆22人」が「同心合力」して(木津)五郷の甲乙諸人(一般庶民)に「勧進」して造立した。そして毎年春秋の彼岸には『光明真言1万遍』と『阿弥陀経48巻』を誦して法界衆生に回向すべし、と記されます。この造立銘は地輪の東面に刻まれ、さらに北面には永仁4年(1296)、南面には永禄5年(1562)の追刻銘もある。残念ながら造立の趣旨は「法界衆生を廻向すべし」とあるのみで詳しいことはわかりません。願主の僧名と石工名も書かれていません。しかし文中の「同心合力」「勧進」の語は西大寺系律僧のよく使う用語です。また『光明真言』は西大寺真言律の専門ですし、『阿弥陀経』も西大寺では読誦しますから歴史的経緯や地理的環境から見て「木津の僧衆」とは木津大仏(1295)を造った真円上人に率いられた般若寺の律僧衆と考えられます。南都(奈良)においては般若寺が「般若野五三昧」(南都・興福寺の総墓所)の運営を任されていたことからも類推できます。中世において一般の人々に火葬と葬送を普及したのは律僧でした。この律僧衆が木津の民衆(といっても富裕な人が大勢いたと思われる)に勧進(寄付を募る)して作ったのがこの五輪塔です。またこのような大石塔を造れる石工集団は西大寺系律僧の下にいた伊派以外いないでしょう。決して研究者一般に言われているような念仏僧衆の仕事ではないとおもいます。特に専修念仏の浄土系では「造塔作善」を重んじていませんから。鎌倉時代はまだ南都北嶺の仏教が主流であり、その先端で社会活動したのは律僧であったことからもそう言えます。

「雑木山 裸木の枝 もつれあひ

日を受けてをり 冬山これは」木下利玄

〔俳句〕

「何もなき 床に置きけり 福寿草」高浜虚子

「なほ清く 咲くや葉がちの 水仙花」松本氷固

〔和歌〕

「草のうへは 猶冬がれの 色見えて

道のみしろき 野べの朝霜」

平宗宣朝臣・玉葉907

「草原の上は、まだ冬枯れの朽葉色が見えて、その中に通る道だけが、びっしりと置いた霜に白々と眺められる、野辺の朝景色よ。」

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2012年1月 3日 (火)

般若寺 水仙花だより   1・3

◎水仙: ≪見ごろ・満開≫ 花・12月~2

              花数・2万本

*今朝は珍しく氷が張っていません。霜や氷が普通の季節になってきました。でもこの三が日はさしたる寒波もなくおだやかなお正月でした。奈良ではまだ雪が降っていません。お正月最後の日となりました。明日からは仕事再開で世間は普通の生活にもどります。しかし寺というところの生活リズムはみなさんとは逆で、年末から正月にかけては何かと忙しく過ごしましたので、これから少しのんびりできるかなと期待しています。でもお休みはありません。年中無休です。

「冬丘の 桃畑ぬけるに 肩に押す

あかみもつ枝 はねかへりなほる」木下利玄

〔俳句〕

「一人居や 思ふ事なき 三ヶ日」夏目漱石

「水仙や 梅まつ人を うつむかせ」横井也有

〔和歌〕

「霜さむき あさけの山は うすぎりて

こほれる雲に もる日影哉」

祝子内親王・風雅761

「霜が降りて寒々とした早朝の山は、薄く霧がかかって、凍りついたように動かない雲から、一筋二筋、日光が洩れる。」

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2012年1月 2日 (月)

般若寺 水仙花だより   1・2

◎水仙: ≪見ごろ・満開≫ 花・12月~2

花数・2万本

* 今日は久しぶりの雨。恵みの雨に潤いを得て、水仙は今が盛りとよく咲いています。お正月に満開を迎えるのは久しぶりです。しばらくは純白の花と香りを楽しめます。

*「木津大仏」に続いては「法泉寺十三重石塔」を紹介します。法泉寺は京都府京田辺市草内の集落内にあり、木津川から数百メートル西です。近くには「山城国一揆」に登場する中世の城館、「草路城」址があります。長方形の敷地の周囲を土塁と堀をめぐらしていて今もその痕跡がよく残ります。 

法泉寺の由来はよく判りませんが、石塔は西大寺長老の叡尊思円上人が治水工事の際建てた記念碑的な塔の一つと考えられます。そして基壇に記録銘が大きく刻まれています。それによれば鎌倉時代、弘安元年(1278)伊派石工の猪末行(いのすえゆき)の作です。この石工は伊行末の孫にあたると考えられ、般若寺石塔から25年後に作られています。山城における般若寺、西大寺律僧の活動がここにも残っています。塔は花崗岩製で相輪以外ほぼ完全に残り、美しい姿を見せています。高さは6メートル、塔身の四方仏は顕教四仏(般若寺と同じ)で半肉彫り。法泉寺境内には他に「三宝荒神笠塔婆」という珍しい石塔もあります。 

「冬丘の ゆるき斜面の 桃畑

交れる枝みな あかみをもてり」木下利玄

〔俳句〕

「閼伽桶に 若水満たし ありにけり」西澤信生

「水仙や 古鏡の如く 花をかかぐ」松本たかし

〔和歌〕

「おきてみれば 明けがたさむき 庭の面の

霜にしらめる 冬の月かげ」

前参議家親・玉葉906

「起きてみると、明け方、冷え込んだ庭の面に置いた霜の白さに映えて、白々と暁の光に色を変えて行く、冬の月影よ。」

・おきて=「起きて」に「霜」の縁語「置きて」を響かせる。

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2012年1月 1日 (日)

般若寺 水仙花だより   1・1

  ◎水仙: ≪見ごろ・満開≫ 花・12月~2

花数・2万本

*元旦。明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

今年はいい年になるでしょうか。また去年に続いて地震、経済不況、異常気象の不安をかかえる年となりそうですから、気を引き締めて日々精進に努めていきたいですね。

私は「工夫」「努力」を年頭に当たっての戒めの言葉としています。「工夫」は小なりとも精一杯知恵を働かせること。「努力」は目標に向かってたゆまず歩むことです。

背伸びをせず自分の背丈にあった生き方、活動をモットーとしていきます。無理はいけません。

皆様のご多幸をお祈り申し上げます。

「道ばたの 枯れかや草に おく霜の

旭をはじき 光るきらきら」木下利玄

〔俳句〕

「元日や 晴れて雀の ものがたり」服部嵐雪

「水仙白く 古道顔色を 照らしけり」夏目漱石

〔和歌〕

「いつのまに こけさへ色の かはるらむ

今朝はつ霜の ふる里の庭」

後一条入道前関白左大臣・風雅758

「一体いつの間に、(常緑のはずの)苔さえも白く色が変わ

ったのだろう。今朝初霜の降り置いた、この故郷の庭よ。」

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