◎すいせん: ≪見ごろ・満開≫ 花・12月~2月
花数・2万本
*洞泉寺の「垢かき地蔵」と「石船」のつづきです。
先ずは「石船」から。外見の形状は船に似ています。南側はきれいに箱状に加工され、北側は上部は四角く加工され下部は自然石の表面のままで船の舳先のように斜めになっている。上部と内側はきれいに加工されつるつるしていて下部は荒仕上げで少しふくらんでいる。
外形実寸は、南北の長さ227㎝、東西の幅103㎝、高さは97㎝。水槽部は南北200㎝東西96㎝深さ50㎝、南側底部に排水穴あり。北側の出っ張り部分は一段高く、長さ103㎝、幅35㎝、深さ14㎝の溝状の窪みがあり底部に排水穴がある。さらにその北の幅23㎝の台状部分には10㎝の逆円錐形の穴が二つあり、それから両外側へ幅2㎝の浅い溝が掘られている。これも排水用でしょう。
きれいに仕上げられた水槽の内壁には梵字で金剛界四方仏が彫られる。北方不空成就如来「アク」字、東方阿閦如来「ウン」字、南方宝生如来「タラーク」字、西方阿弥陀如来「キリーク」字。この水槽の中は曼荼羅世界、水は仏の水となります。
最初、『大和の伝説』の挿絵の通り、ほぞ穴に地蔵石仏がすっぽり嵌まるかと思ったのですが、次に石仏を実測してみて両者のサイズが合わないことが判明しました。この問題はのちほど地蔵さんのところでふれます。
石船の石材は「カナンボ石」と呼ばれる「三笠山安山岩」で黒っぽい堅い石です。春日山に産出し、奈良では柱石、石段、石畳、石垣によく使われています。でもこの石船のような大きなものは見たことがありません。きっと最大級のカナンボ石でしょう。なお「奈良石」すなわち花崗岩の石船は岩船寺門前や上狛小学校校庭などに立派なものがあります。いずれも風呂の設備だと考えられています。
だいたい昔の風呂は蒸し風呂形式で、湯上りにお湯か水を被ったのです。今のサウナと似ています。決して湯船につかるのではありませんでした。今も東大寺や興福寺には中世の大湯屋が残っています。だからこの石船は浴槽ではなく湯上り用の水船だったと思われます。当時は一般には風呂はなく、寺院の法要で、もしくは病院施設に設けられ、「布施湯」「供養風呂」と呼ばれました。
「垢かき地蔵」はまた「閼伽かけ地蔵」と言われることもあります。閼伽(あか)は水、仏様に供える水のことです。地蔵堂の額には「光明皇后勅願 垢かき(手ヘンに爪と書かれる)湯船地蔵尊」と二段に書かれています。
お堂は古材を残しきれいに修理をされていました。そしてお堂の真ん中に不思議な石があります。長100㎝×幅73㎝×高53㎝の長方体で上部に直径56㎝深さ36センチの逆円錐形の穴があり、穴から幅10㎝の浅い溝が彫られています。これは一体何でしょうか。五輪塔の地輪部としたら長方形ではおかしいし、石材は不明ですが、黄色がかった凝灰岩のようです。一つ考えられるのは石臼、それも米搗き用ではなく薬草用ではないでしょうか。上部の溝から薬汁が流れるようにしてあるのではないかと思います。
さてお地蔵さんですが、お堂の奥、正面の壇上におまつりされます。
高145㎝幅90㎝奥行51㎝の箱状の石龕に浮き彫りされ、法量高116㎝幅37㎝、左手に宝珠、右手に錫杖を執る普通のお姿です。時代は推定で鎌倉後期とされます。石材は不明ですが、花崗岩のような色合いでもっとキメの細かい石です。
このお地蔵さんがあの石船に立っておられたするとずいぶん背が高いです。240㎝ほど、さらに屋根や宝珠があったとすれば300㎝位になって見上げる高さでしょう。はたしてどのように立っておられたのでしょうか。
船のほぞ穴は奥行35㎝ですから51㎝の石龕は嵌まりません。幅は103㎝ですから90㎝の石龕には余裕があります。ほぞ穴に石龕をはめ込むことは無理です。そこでもう一度お地蔵さんをよく調べると石龕の上面は見えませんが、両側面は綺麗に加工されているのに、下部は荒く削って隙間を漆喰で詰めてあります。
私の推測では、この石龕の下部は出っ張りがあってL字形をしていて、石船に腰かけ状に据えられたのではないか。そしてお堂にまつる時、石龕が立つように出っ張りを削り取って平面にしたのではないか。石船の北端上部に二つの穴があるのは位置がずれないようにホゾを差し込む穴で、下の大きな窪みに足を下ろすように前半分を据えたのではないか。
そして蒸し風呂から上がった人が水槽の水を柄杓か何かでお地蔵さんにかけその水が下の溝の穴から水槽に返るという仕掛けになっており、その水を自らの身にかけると仏の御利益を頂け無事息災がかなう、病気が治るという信仰を身体的に体験できるということではなかったのでしょうか。上部の細い溝は横へこぼれた水の排水溝だと思われます。信仰によるとはいえ大変合理的な構造になっています。
水槽の梵字やお地蔵様の様式から鎌倉時代の作だとすれば、奈良北山の救癩施設に付属する湯屋の貴重な遺物です。北山十八間戸にも湯屋があったそうですが、現在無くなっています。風呂を立てるには建物も必要ですし、水源の井戸、湯を沸かす鉄釜、薪も要ります。相当の財政を用意しないとできません。これほどの立派な大石船とお地蔵様をもつ湯屋が北山にあったとは驚きです。
造った石工はおそらく伊派の人でしょう
この石造物についての研究はあまり進んでおらず、存在も世に知られていないようで、洞泉寺を訪れる人も少ないです。いまだ文化財の指定もなされていません。もっと多くの人に知っていただきたいですね。長々の冗舌御容赦を。
「草枯るる この冬堤(どて)に 青みたる
冬青草は 何(な)に何(な)にならむ」木下利玄
〔俳句〕
「高野槇 買うて帰るも 初大師」森白象
「水仙や 美人かうべを いたむらし」与謝蕪村
〔和歌〕
「さむき雨は かれのの原に ふりしめて
山まつ風の 音だにもせず」
永福門院・風雅797
「寒い雨は、枯野の原一面を領して降りしきり、(いつもは聞える)山松風の音一つしない。」