◎初夏のコスモス(早咲種):15種類。5万本。
≪5月末~7月≫
・チョコレートコスモス、ピコティ ≪咲きはじめ≫
〇矢車草、花菱草、シャガ、鉄線、紫雲ラン
バナナの木(唐種オガタマ)、 ≪見ごろ≫
・グラジオラス、山アジサイ、忍冬 ≪5月後半≫
・紫陽花、ヒツジ草 ≪6月≫
*新緑のすがすがしい季節となってきました。江戸前期の俳人、山口素堂の句がこの時期の句としてよく知られます。
「目には青葉 山ほととぎす 初がつお」
*きのう新緑の森の中を歩いてきました。石造美術研究家の縄田氏と写真家の八尾さんと三人で出かけました。「中の川」の「牛塚」まで行くと、当地の所有者である駒谷さんご夫妻が待ち受けておられました。駒谷さんは木津川市の梅谷地区のお方でこの山林は先祖伝来の山だそうです。牛塚のことをいろいろ教えていただき、縄田さんには十三重石塔の欠失している笠石が付近で見つかったのをご教示いただきました。
それから全員で「護摩石」へ向かって山道をたどりました。山林地帯へ入ってみると案外立派な道です。道幅は2メートルほどあり旧伊賀伊勢道と考えても納得のゆく道です。だらだらと下ってゆくと400メートルほどで道から左へはずれて人一人が通れるだけの尾根道へ入ります。そこからは左右は谷に挟まれ切り立った尾根の背のけもの道です。縄田さんは自分一人でこの道を見つけたそうですが、初めて来たら確実に迷いそうなところです。大きな倒木が道をふさぎ下草が覆っている場所もあります。だいたい上りです。距離はよく分かりませんが、牛塚から30分ほど歩いたようです。頂上部にたどり着くと護摩石が見えました。
ここはまわりから突出した山の頂で少し平地もあります。もし樹木がなければ展望のききそうな場所です。護摩石は数十坪の平地の南端にあり、中央部には「三等三角点」と彫られた標石があります。みんなで手分けして周囲を調べてみると、あちこちに大きな石が点在します。自然に露出した花崗岩です。だいたい2,3メートルのものが多いですが、一番大きいのは10メートルはありそうです。護摩石もここの自然石からこの地で加工されたのでしょう。山の頂にあり、周囲に大岩があることから見てもここが信仰の場であることは間違いないでしょう。だいたい大岩は古代には神の依り代として磐座(いわくら)信仰の対象でした。
そこで縄田さんの説を拝聴することにしました。氏によれば、
① 雨乞いの地
② 護摩石は儀式のとき運び込んだ塔(金属製の相輪棠または多宝塔)を建てるための基台
③ 塔の前で護摩を焚き請雨祈祷をした
との仮説を立てられました。
私も雨乞い説には賛成です。ただ塔を建てるとしたら周辺の石を利用できるのではないか、実際に護摩石はここで加工されているのですから。しかし石造物であれば破片なりとも何かが残存していなければならないでしょうが、周囲にはそれらしい遺物は見当たりません。
またお堂のような建造物もなかったようです、あたりには礎石らしきものはありませんから。きっと野外で雨乞いをしたのでしょう。そして石の位置は動かされているようです。平地の北側にあったのを東南へ移しています。基底部は自然石のままで地中に埋められ、地上部は円形に加工され、さらに上部はほぼ正方形に造られています。さらに同じく正方形のくぼみがあり、四隅の角に鍵型のくぼみもあります。ますます不思議が大きくなる形ですね。
駒谷さんのお話では、かつて梅谷地区ではこの山から流れてくる小川をせき止め簡易水道として飲み水に利用したそうです。すぐ近くには木津川へと流れる「赤田川」もあります。「赤」は仏様に供える「閼伽」のことですから清浄な水の源はこの山であることは、昔の人はよく知っていて日照りの時にはここで雨乞いをしたということもうなずけます。
おそらく近隣の中川寺、そしてその本寺である興福寺がかかわっていた可能性大です。この石の上にどんなにすばらしい塔がたっていたのでしょう、ますます想像が膨らみます。
現在牛塚も護摩石も大変良い環境にあります。大自然の懐にいだかれて祖先の精神活動の文化遺産が残っています。いつまでもこの環境が続くことを祈らずにはおれません。
〔短歌〕
「はずみある 処女(をとめ)の肌の はねかえす
物なくいたみ 汗もつ昼間」
木下利玄・銀
〔俳句〕
「白と見し 黄と見し花の 忍冬(すいかづら)」前内木耳
〔和歌〕
「春はすて まだ時鳥 かたらはぬ
けふのながめを とふ人もがな」
式子内親王・玉葉296
「春は捨て去り、まだ時鳥は親しげに鳴いてもくれぬ、今日の私のつれづれの物思いを、尋ねてくる人があってほしいなあ。」
かたらはぬ=「かたらふ」は特に声低く鳴く地鳴きをいう。「話を交わす」「親しく語る」意をかける。



