般若寺 水仙花だより 12・31
◎水仙: ≪咲きはじめ≫
・開花:12月中旬~2月
・球根の数:1万~2万
*大晦日。除夜です。当寺では午後11時半より午前1時までの間に「除夜の鐘」をつきます。本来なら人間の煩悩の数、百八遍だけなのでしょうが、参加者全員についていただくため毎年3,4百回鐘が鳴ります。
現代人は煩悩が深くて大きいからこれくらいは要るでしょう。
「歳月を 塗りつぶす闇 除夜の鐘」山口草堂
「除夜の鐘 むなしむなしと 繰り返す」富安風生
「除夜の鐘 幾重にも聴き 京に老ゆ」北川わさ子
みなさま今年はいろいろご支援ありがとうございました。どうぞよいお年をお迎えくださいませ。
〔短歌〕
「向う岸の 崖の日なたの 南天の
赤き実よ実よ さなむづかりそ」
木下利玄・銀
〔俳句〕
「水仙へ 光まみれの 声飛んで」坂巻純子
〔和歌〕
「はなにをく 露にやどりし 影よりも
かれのの月は あはれなりけり」
西行法師・玉葉903
「秋草に置く露に宿っていた光よりも、枯野にさす月の方が、もっとずっとあわれ深いものだったのだなあ。」
*『平家物語』を読む。
巻第七 「主上都落」(しゆしやうのみやこおち)の段、
「同七月十四日、肥後守貞能(さだよし)、鎮西(九州)の謀反たいらげて、菊池・原田・松浦党以下三千余騎を召し具して上洛す。鎮西はわずかに平らげども、東国北国のいくさいかにも静まらず。
同二十二日の夜半ばかり、六波羅の辺おびただしう騒動す。馬に鞍をき腹帯(はらび)しめ、物共東西南北へはこびかくす。ただ今(今すぐにも)敵(かたき)のうち入るさま也。あけてのち聞えしは(翌朝、うわさが世間に伝わったことによれば)、美濃源氏佐渡衛門尉重貞(しげさだ)といふ者あり、一とせ保元の合戦の時、鎮西の八幡太郎が方のいくさに負けて、落ちうとになッたりしを、からめてい出したりし勧賞(けんじょう)に、もとは兵衛尉たりしが右衛門尉になりぬ。是によッて一門には仇まれて(敵視されて)平家にへつらひけるが、その夜の夜半ばかり、六波羅に馳せまいッて申しけるは、〈木曽既に北国より五万余騎でせめのぼり、比叡山東坂本にみちみちて候。郎党に楯の六郎親忠(ちかただ)、手書(てかき、書記)に大夫房覚明、六千余騎で天台山(比叡山)にきを(競)ひのぼり、三千の衆徒皆同心して只今都へ攻入る〉よし申したりける故也。
平家の人々大きにさはひで、方々へ討手をむけられけり。大将軍には、新中納言知盛卿、本三位中将重衡卿、都合其勢三千余騎、都を立つてまづ山階(やましな、山科)に宿せらる。越前三位通盛、能登守教経、二千余騎で宇治橋をかためらる。左馬頭行盛、薩摩守忠度、一千余騎で淀路を守護せられけり。源氏の方には十郎蔵人行家、数千騎で宇治橋より入るとも聞こえけり。陸奥新判官義康(義家の孫、足利氏の祖)が子、矢田判官代義清、大江山(京都市右京区大枝の老坂)をへて上洛すとも申しあへり。摂津国河内の源氏等、雲霞の如くに同じく都へみだれ入るよし聞こえしかば、平家の人々〈此の上はただ一所でいかにもなり給へ〉とて、方々へ向けられたる討っ手ども、都へ皆呼び返されけり。」
(つづく)
*秋艸道人、会津八一先生の歌集『鹿鳴集』より、奈良愛惜の歌。
〈東大寺の戒壇院にて〉
「かいだんの まひるのやみに たちつれて
ふるきみかどの ゆめをこそまもれ」
〈東京にかへるとて〉
「あをによし ならやまこへて さかるとも
ゆめにしみえこ わかくさのやま」
〈東京にかへりて後に〉
「ならやまを さかりしひより あさにけに
みてらみほとけ おもかげにたつ」
「夢にまで見える若草山」「面影にたつ御寺御仏」はいつまでもたいせつに残しておきたいものです。
*今、若草山の北麓、浄瑠璃寺や東大寺、春日山にも近い「中ノ川」に奈良市のごみ焼却場を建設するというとんでもない計画があります。ここに焼却場ができ、高い煙突から煙が吐き出されることになれば、日本の宝、世界の宝である古都の景観と文化財が破壊されます。
この問題を詳しく知りたい方は、
ホームページ『奈良市クリーンセンター建設計画に関する課題について』をご覧ください。本計画の問題点が的確にまとめられています。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)