« 2013年1月 | トップページ | 2013年3月 »

2013年2月

2013年2月28日 (木)

般若寺 水仙花だより  2・28

 

◎水仙: ≪満開≫ 

・開花:2月~3月初旬

今が見ごろです。

この時期よく雪が降ります。春の雪は重いので

積れば花が倒れてしまいます。

お早目にお越しください。

・球根の数:1万~2万 

 

*今日で二月「如月」(きさらぎ)は終わります。今年はとくに寒い二月でした。東北では積雪の観測記録が更新されました。日本中が寒く暖房用灯油の消費量も新記録かもしれません。それに買いに行くたびに値段が上がっているのには驚かされます。いま金融緩和、円安誘導とやらで物価はどんどん上がっています。これではますます買い控えが進むことになります。

 

〔短歌〕

「砂みちに 空気草履の 内輪(うちわ)なる

       足跡(あしあと)のこる なつかしさかな」

          木下利玄・銀

〔俳句〕

「真摯なる 心にうたれ 水仙花」矢嶋みつ江

〔和歌〕

「わがそのを やどとはしめよ 鶯の

         ふるすは春の 雲につけてき」

         皇太后宮大夫俊成・風雅53

「私の家の庭を宿としてお決めよ、鶯よ。お前の谷の古巣はそのまま大事に守っておくれと、春の雲にたのんでおいたからね。」

・しめよ=占めよ。庭にずっと居てくれ、の意。

・ふるす=鶯は冬の間、谷の古巣にこもって春を待つとされた。

・つけてき=託した。ことづけておいた。

 

*『平家物語』を読む。

巻第九 「敦盛最期」(あつもりのさいご)の段、

「 いくさやぶれにければ(平家の軍が負けたものだから)、熊谷次郎直実(くまがへのじろうなをざね)、〈平家の君達(きんだち)たすけ船にのらんと、汀の方へぞおち給ふらん。あはれ、よからう大将軍にくまばや〉とて、磯の方へあゆまするところに、ねりぬきに鶴ぬうたる直垂に(練貫は生糸を経[たて]、練糸[灰汁〔あく〕などで煮てやわらかにした絹糸]を緯[よこ]として織った織物。それに鶴の模様を刺繍したよろいひたたれ)、萌黄の匂ひ(〔匂〕は薫物[たきもの]の匂いが次第に薄くなっていくように、色をぼかして染めたもの。萌黄の匂は萌黄色[青と黄の中間色]を匂わせた威[おどし]を用いたもので、下から上に匂わせたいわゆる末濃[すそご]の場合が多い)の鎧きて、くはがた(鍬形)うッたる甲の緒しめ、こがねづくりの太刀をはき、きりう(切斑)の矢おひ、しげ藤の弓(下地を黒塗りにし、その上を点々と白の引藤で繁く巻いた弓、大将の弓)もッて、連銭葦毛なる馬に黄覆輪の鞍をいてのッたる武者一騎、沖なる舟に目をかけて、うみへざッとうち入れ、五六段ばかりおよがせたるを、熊谷〈あれは(そこに行かれるのは)大将軍とこそ見まいらせ候へ〉と扇をあげてまねきければ、招かれてとッてかへす。汀にうちあがらむとするところに、おしならべてむずとくんでどうどおち、とッておさへて頸をかかんと甲をおしあふのけて見ければ、年十六七ばかりなるが、うすげしやう(薄化粧)してかねぐろ也。我子の小次郎がよはひ程にて容顔まことに美麗也ければ、いづくに刀を立つべしともおぼえず。〈抑いかなる人にてましまし候ぞ。名のらせ給へ、たすけまいらせん〉と申せば、〈汝はた(誰)そ〉ととひ給ふ。

〈物そのもので候はね共(物の数に入る者ではありませんが)、武蔵国住人、熊谷次郎直実〉と名のり申す。〈さては、なんぢにあふてはなのるまじゐぞ(お前に向かっては名乗るまいよ。今さら名のってこれ以上敵に哀れをかけられたくなかったのであろう)、なんじがためにはよい敵ぞ。名のらずとも頸をとッて人にとへ。みし(見知)らふずるぞ(首実検の時に聞いてみよ。誰かが見れば分かるだろう)〉とぞのたまひける。熊谷〈あッぱれ大将軍や、此人一人(いちにん)うちたてまッたり共、ま(負)くべきいくさに勝つべき様もなし。又うちたてまつらず共、勝つべきいくさにまくることよもあらじ。小次郎がうす手負ひたるをだに、直実は心ぐるしうこそおもふに(我が子の小次郎が軽傷を負っただけでさえも、自分は心配なのに)、此殿の父、うたれぬときいて、いかばかりかなげき給はんずらん、あはれ、たす(助)けたてまつらばや〉と思ひて、うしろ(後)をきッとみければ(さっと見ると)、土肥・梶原五十騎ばかりでつづいたり。熊谷涙をおさへて申しけるは、」

 (つづく)

 

*秋艸道人、会津八一先生の歌集『鹿鳴集』より、奈良愛惜の歌。

〈鐘楼 昭和十八年三月〉

 三月十四日二三子とともに東大寺に詣づ客殿の廊下より望めば焼きて日なほ浅き嫩草山の根わづかに青みそめ陽光やうやく熙々たらむとすれども梢をわたる野風なほ襟に冷かにしてかの洪鐘の声また聞くべからずことに寂寞の感ありよりて鐘楼に到り頭上にかかれる撞木を撫しつつこの歌を作る

「ひさしくも つかざるかねは はるのひに

         ぬくもりてあり ねむれるがごと」

〈東京にかへるとて〉

「あをによし ならやまこへて さかるとも

         ゆめにしみえこ わかくさのやま」

〈東京にかへりて後に〉

「ならやまを さかりしひより あさにけに

         みてらみほとけ おもかげにたつ」

 「夢にまで見える若草山」「面影にたつ御寺御仏」はいつまでもたいせつに残しておきたいものです。

 

*今、若草山の北麓、浄瑠璃寺や正倉院、東大寺、春日山に近い「中ノ川・東鳴川」に奈良市のごみ焼却場を建設するというとんでもない計画があります。    最近の奈良市長の発言によれば、第二候補地(東鳴川)を選定しようとしているようですが、ここは浄瑠璃寺まで数百メートルの直近の距離です。ここに焼却場ができ、高い煙突から煙が吐き出されることになれば、日本の宝、世界の宝である神聖な古寺の風景と文化財が破壊されます。これは最悪の無謀な選択です。市長は撤回すべきです。

悠久の大和、奈良の山々は日本人の心のふるさと、国のまほろばです。

日本のふるさと、国のまほろばを失えば日本人は亡国の民となってしまいます。

全国の日本文化を愛し、国を思う人々に訴えます。奈良市当局へ抗議の声を届けてください。今ならまだ間に合います。

 

「やまとは 国のまほろば たたなづく

青垣やまごもれる やまとしうるはし」

  日本武尊(やまとたけるのみこと)・古事記

 

この問題を詳しく知りたい方は、

ホームページ『奈良市クリーンセンター建設計画に関する課題について』をご覧ください。本計画の問題点が的確にまとめられています。

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年2月27日 (水)

般若寺 水仙花だより  2・27

 

◎水仙: ≪満開≫ 

・開花:2月~3月初旬

今が見ごろです。

この時期よく雪が降ります。春の雪は重いので

積れば花が倒れてしまいます。

お早目にお越しください。

・球根の数:1万~2万 

 

*雨。お昼頃上がるそうです。この雨は春をよぶ雨で今日は暖かいです。

道端の草の葉が日に日に大きくなってきました。梅の花がやっと咲いてきました。椿もこれからです。春は草木や昆虫が動き出し、身の回りでも自然の変化がよくわかる季節です。

 

〔短歌〕

「落葉松(からまつ)の 山をくだりて 水ひかる

      高原に出づ やや頭痛する」

        木下利玄・銀

〔俳句〕

「水仙花 しらみ初めたる 岬空」穴澤光江

〔和歌〕

「松の雪 消えぬやいづこ 春の色に

       都の野べは 霞みゆく比」

         前中納言定家・玉葉20

「古歌にいう、松に積った雪が消えない深山というのは一体どこの事だろう。やわらかい春の色調に、都の野辺が一面に霞んで行くこの頃よ。」

・参考:「み山には 松の雪だに 消えなくに

     都は野べの 若菜つみけり」(古今集19・読人しらず)

 

*『平家物語』を読む。

巻第九 「重衡生捕」(しげひらいけどり)の段、

「 本三位中将重衡卿(ほんざんゐ[]のちうじやうしげひらのきやう、清盛の五男、知盛の弟、母は時子、この時二十七歳)は、生田の森の副将軍にておはしけるが、其勢みな落ちうせて、只主従二騎になりたまふ。三位(の)中将其日の装束(しやうぞく)には、かち(褐)にしろう黄なる糸をもッて、むら(群)千鳥ぬうたる直垂(濃い藍色に黄色の糸でむら千鳥を鮮やかに刺繍したよろいひたたれ)に、紫すそご(裾濃)のよろいきて、童子鹿毛といふきこゆる名馬にのり給へり。めのと子(乳母の子)の後藤兵衛盛長(もりなが)は、しげ(滋)目ゆい(目結[めゆい]を細かくした絞り染め。目結は白い斑点をいくつも染め抜いた染め方で、鹿子絞[かのこしぼり]ともいう)の直垂に、ひ(緋)おどしの鎧きて、三位(の)中将の秘蔵せられたりける夜目なし月毛にのせられたり。梶原源太景季(かげすえ)・庄(の)四郎高家(たかいえ、児玉党の庄氏、忠家の弟)、大将軍と目をかけ、鞭あぶみをあはせておッかけたてまつる。汀にはたすけ(助)舟いくらもありけれども、うしろより敵(かたき)はおッかけたり、のがるべきひまもなかりければ、湊河(神戸市長田区で海に注ぐ川。この付近に当時戦死した平家の武士の墓が多い)・かるも河(神戸市長田区を流れる細流)をもうちわたり、蓮の池(長田区にあった池)をば馬手(めて、右手)にみて、駒の林を弓手(ゆんで。左手)になし、板屋ど(いたやど、須磨区内に板宿の町名あり)・須磨をもうちすぎて、西をさいてぞ落ちたまふ。究竟(くッきやう)の名馬にはのり給へり、もみふせたる馬共(走り疲らされた源氏の馬ども)おッつくべしともおぼえず、ただのびにのびければ(やたらに距離が隔たるものだから)、梶原源太景季、あぶみふンばり立ちあがり、もしやと遠矢によッぴいてゐたりけるに、三位中将馬のさうづ(三頭)をのぶか(箆深)にゐさせて(後足の上部の骨に矢を深く射られて)、よはるところに、後藤兵衛盛長、わが馬めされなんずとや思ひけん、鞭をあげてぞ落ち行きける。三位中将是をみて、〈いかに盛長、何来(としごろ)日ごろさはちぎらざりしものを(そのような契りではなかったではないか)。我を捨てていづくへゆくぞ〉との給へ共、空(そら)きかずして(わざと聞かないふりをして)、鎧につけたるあかじるし(赤印、平家のしるし)かなぐりすて、ただにげにこそ逃げたりけれ。三位中将敵は近づく、馬はよはし、海へうちい(入)れ給ひたりけれ共、そこしもとをあさにて(そこがよりによって遠浅で)しづむべきやうもなかりければ、馬よりおり、鎧のうは(上)帯(よろいの上にまとう帯)きり、たかひも(よろいの胸板についていて、よろいを肩に釣る紐)はづし、物具(もののぐ、甲冑、具足)ぬぎすて、腹をきらんとし給ふところに、梶原よりさきに庄四郎高家、鞭あぶみをあはせて馳せ来たり、いそぎ馬より飛びおり、〈まさなう候(自害してはいけません)、いづくまでも御共仕(おんともつかまつ)らん〉とて、我馬にかきのせたてまつり、鞍のまへわ(前輪、人がまたがる所の前が高くなった部分)にしめつけ、わが身はのりかへに乗ッてぞかへりける、

 後藤兵衛はいきながき究竟の馬にはのッたりけり、そこをばなく逃げのびて、後には熊野法師、尾中(おなかの)法橋(ほつきやう)をたのんでゐたりけるが、法橋死して後、後家の尼公(にこう)訴訟のため京へのぼりたりけるに、盛長とも(供)してのぼッたりければ、三位中将のめのと子にて、上下にはおほく見しられたり。〈あなむざん(無慚)の盛長や(ああ恥知らずの盛長だ)、さしも不便(ふびん)にし給ひしに(重衡があんなに可愛がっておられたのに)、一所でいかにもならずして(命を捨てることをせず)、思ひもかけぬ(われわれの考えもしなかった)尼公の共したるにくさよ〉とて、つまはじきをしければ(非難の意を表わしたものだから)、盛長もさすがにはづかしげにて、扇をかほにかざしけるとぞ聞えし。」

 (この段終わり)

 

*秋艸道人、会津八一先生の歌集『鹿鳴集』より、奈良愛惜の歌。

〈鐘楼 昭和十八年三月〉

 三月十四日二三子とともに東大寺に詣づ客殿の廊下より望めば焼きて日なほ浅き嫩草山の根わづかに青みそめ陽光やうやく熙々たらむとすれども梢をわたる野風なほ襟に冷かにしてかの洪鐘の声また聞くべからずことに寂寞の感ありよりて鐘楼に到り頭上にかかれる撞木を撫しつつこの歌を作る

「ひびきなく かかるこのかね みほとけの

         おほきこわねと きくべきものを」

〈東京にかへるとて〉

「あをによし ならやまこへて さかるとも

         ゆめにしみえこ わかくさのやま」

〈東京にかへりて後に〉

「ならやまを さかりしひより あさにけに

         みてらみほとけ おもかげにたつ」

 「夢にまで見える若草山」「面影にたつ御寺御仏」はいつまでもたいせつに残しておきたいものです。

 

*今、若草山の北麓、浄瑠璃寺や正倉院、東大寺、春日山に近い「中ノ川・東鳴川」に奈良市のごみ焼却場を建設するというとんでもない計画があります。        最近の奈良市長の発言によれば、第二候補地(東鳴川)を選定しようとしているようですが、ここは浄瑠璃寺まで数百メートルの直近の距離です。ここに焼却場ができ、高い煙突から煙が吐き出されることになれば、日本の宝、世界の宝である神聖な古寺の風景と文化財が破壊されます。これは最悪の無謀な選択です。市長は撤回すべきです。

悠久の大和、奈良の山々は日本人の心のふるさと、国のまほろばです。

日本のふるさと、国のまほろばを失えば日本人は亡国の民となってしまいます。

全国の日本文化を愛し、国を思う人々に訴えます。奈良市当局へ抗議の声を届けてください。今ならまだ間に合います。

 

「やまとは 国のまほろば たたなづく

青垣やまごもれる やまとしうるはし」

  日本武尊(やまとたけるのみこと)・古事記

 

この問題を詳しく知りたい方は、

ホームページ『奈良市クリーンセンター建設計画に関する課題について』をご覧ください。本計画の問題点が的確にまとめられています。

Img_2131

Img_2119

Img_2112

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年2月26日 (火)

般若寺 水仙花だより  2・26

 

◎水仙: ≪満開≫ 

・開花:2月~3月初旬

今が見ごろです。

春雪が積れば花が倒れてしまいますので

お早目のお越しをおすすめします。

・球根の数:1万~2万 

 

*けさは晴れ、今日から寒さも少し緩むそうです。

平家物語は人の世の栄枯盛衰、有為転変をテーマとしています。中でも後半は滅びゆく平家を主題とし、平家の公達への哀感がただよいます。栄える勝者よりも滅びゆく敗者の方に心惹かれ美を見出してしまいます。これこそ人情なのでしょう。どの公達も永遠の貴公子です。文武両道に精いっぱい生きたいきざまはすばらしいです。

 

〔短歌〕

「山の木々 沼尻(ぬじり)の木々も 冬らしく

        くもれる空の 底に並(な)み立つ」

          木下利玄・銀

〔俳句〕

「水仙の 芯の昏さへ 海鳴す」青砥真貴子

〔和歌〕

「しづみはつる 入日のきはに あらはれぬ

          かすめる山の 猶おくの峯」

            前大納言為兼・風雅27

「沈み切ろうとする入日の、その最後の逆光の中にくっきりとあらわれたよ。霞みこめた山のなお奥にあって、今まで見えなかった髙峯の姿が。」

・参考:「のどかなる 入日のきはに 遠つ山

     春のながめの あはれとぞみる」(兼行集)

・評(岩佐美代子):おだやかに暮れゆく春霞の中、逆光に突如姿をあらわした高山のシルエットは、自然のエネルギーの力強さ、その刻々の変容が示す意外性を見事に表現している。このような景に着目し、描破しえた歌人は古来稀であろう。

 

*『平家物語』を読む。

「忠度最期」の段、

「二刀は鎧の上なればとをらず、一刀はうち甲へつき入れられたれ共、うす手なれば死なざりけるをとッておさへて、頸をかかんとし給ふところに、六野太がわらわをくればせに馳せ来たッて、打刀(敵を指す小刀に対して、つばをつけた長い刀で、相手を切る場合に用いる)を抜き、薩摩守の右のかいなを、ひじのもとよりふつと斬り落とす。今はかうとや思われけん、〈しばしのけ、十念(南無阿弥陀仏と十遍唱えること)となへん〉とて、六野太をつかうで弓(ゆん)だけばかり(弓の長さぐらい。弓の長さは七尺五寸。弦を張らない弓で土地の長さを計ることが武士の間で行われていた)投げのけられたり。其後西にむかひ、高声に十念となへ、〈光明遍照十方世界、念仏衆生摂取不捨〉

(『観無量寿経』にある句。仏の光明は遍く十方世界を照らし、念仏を唱える衆生を救い取ってお捨てにならないという意)との給ひもはてねば(言い終わられるやいなや)、六野太うしろよりよッて薩摩守の頸をうつ。よい(身分のよい)大将軍うッたりと思ひけれ共、名をば誰とも知らざりけるに、ゑびら(箙)にむすびつけられたるふみをといて見れば、『旅宿花』(りょしゅくのはな)と云ふ題にて、一首のうたをぞよまれたる。

〈行きくれて 木(こ)の下かげを やどとせば

花やこよひの あるじならまし〉

(旅に出て日が暮れたので、桜の木の下を今夜のやどりとするならば、桜の花が主人となって風雅なもてなしをしてくれるだろう。)

忠度と書かれたりけるにこそ([忠度]と書いてあったので初めて)、薩摩守とは知りてンげれ。太刀の先につらぬき、高くさし上げ、大音声をあげて、〈此の日来(ひごろ)平家の御方(おんかた)にきこえさせ給ひつる薩摩守殿をば、岡辺六野太忠純がうちたてまッたるぞや〉と名のりければ、敵も味方も是をきいて、〈あないとおし(ああお気の毒だ)、武芸にも歌道にも達者にておはしつる人を、あッたら大将軍を〉とて、涙をながし袖をぬらさぬはなかりけり。」

 (この段終わり)

・巻第七の「忠度都落」では忠度は和歌の師、藤原俊成に百余首書き集めたる巻物を託しました。俊成は後白河法皇の院宣により勅撰『千載和歌集』を撰集します。その中に忠度の歌一首を入れますが、勅勘のため「読人しらず」となっています。

〈故郷花といへる心をよみ侍りける〉

 「さざ浪や 志賀の都は 荒れにしを

昔ながらの 山桜かな」(千載集66

(志賀の都は荒れ果ててしまったが、昔ながらの長等[ながら]山の桜は今年も咲いていることだ。)

変らない自然と人間界の無常を対比して詠まれた歌。これは『万葉集』の柿本人麻呂が壬申の乱で荒廃した大津京をしのび、栄花の後滅んで行った人々への鎮魂歌として詠んだ長歌『近江荒都を過ぐるときの歌』を本歌取りしている。俊成がこの歌を選んだのは、源平争乱で滅んでいった平家への鎮魂の意味を込めているのだろう。

 

*秋艸道人、会津八一先生の歌集『鹿鳴集』より、奈良愛惜の歌。

〈鐘楼 昭和十八年三月〉

 三月十四日二三子とともに東大寺に詣づ客殿の廊下より望めば焼きて日なほ浅き嫩草山の根わづかに青みそめ陽光やうやく熙々たらむとすれども梢をわたる野風なほ襟に冷かにしてかの洪鐘の声また聞くべからずことに寂寞の感ありよりて鐘楼に到り頭上にかかれる撞木を撫しつつこの歌を作る

「あさにけに つくべきかねに こもりたる

         とほきひびきを きかざるなゆめ」

〈東京にかへるとて〉

「あをによし ならやまこへて さかるとも

         ゆめにしみえこ わかくさのやま」

〈東京にかへりて後に〉

「ならやまを さかりしひより あさにけに

         みてらみほとけ おもかげにたつ」

 「夢にまで見える若草山」「面影にたつ御寺御仏」はいつまでもたいせつに残しておきたいものです。

 

*今、若草山の北麓、浄瑠璃寺や正倉院、東大寺、春日山に近い「中ノ川・東鳴川」に奈良市のごみ焼却場を建設するというとんでもない計画があります。        最近の奈良市長の発言によれば、第二候補地(東鳴川)を選定しようとしているようですが、ここは浄瑠璃寺まで数百メートルの直近の距離です。ここに焼却場ができ、高い煙突から煙が吐き出されることになれば、日本の宝、世界の宝である神聖な古寺の風景と文化財が破壊されます。これは最悪の無謀な選択です。市長は撤回すべきです。

悠久の大和、奈良の山々は日本人の心のふるさと、国のまほろばです。

日本のふるさと、国のまほろばを失えば日本人は亡国の民となってしまいます。

全国の日本文化を愛し、国を思う人々に訴えます。奈良市当局へ抗議の声を届けてください。今なら間に合います。

 

「やまとは 国のまほろば たたなづく

青垣やまごもれる やまとしうるはし」

  日本武尊(やまとたけるのみこと)・古事記

 

この問題を詳しく知りたい方は、

ホームページ『奈良市クリーンセンター建設計画に関する課題について』をご覧ください。本計画の問題点が的確にまとめられています。

Img_2063_2

Img_2061_2

Img_2101_2

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年2月25日 (月)

般若寺 水仙花だより  2・25

 

◎水仙: ≪満開≫ 

・開花:2月~3月初旬

今が見ごろです。

春雪が積れば花が倒れてしまいますので

お早目のお越しをおすすめします。

・球根の数:1万~2万 

 

*晴、けさの冷え込みはきつく熱い氷が張っていました。

「平家物語を読む」は「忠度の最期」に入ります。忠度(ただのり)は歌人として有名な人で、忠盛の六男、清盛の弟です。左兵衛佐薩摩守正四位下の官位でした。戦死した時は行年45歳。忠度と言えば、「青葉の笛」で知られる尋常小学唱歌(明治397月作、第四学年用)『敦盛と忠度』の二番に歌われます。

「更(ふ)くる夜半(よは)に 門(かど)を敲(たた)き

わが師に託せし 言の葉あわれ

今はの際まで 持ちし箙(えびら)に

残れるは 〈花や今宵(こよい)〉の歌」

・箙は矢を入れて腰に携帯する容器

作詞:大和田建樹

作曲:田村虎蔵

忠度の後は、重衡、敦盛と物語はつづきます。

 

〔短歌〕

「旅籠(はたご)出でて やまにむかへば 冬の息

         山にかかれり 旅ごころ泣く」

          木下利玄・銀

〔俳句〕

「店先に 水仙を置く 八百屋かな」鎌倉喜久恵

〔和歌〕

「まきもくの ひばらの山の ふもとまで

         春の霞は たなびきにけり」

           藤原基俊・玉葉19

「巻向の檜原山まで、まあすっかり、春霞はたなびいてしまったよ。」

・まきもく=大和の枕詞、巻向山。奈良県桜井市三輪山東北に連なる。ヒノキが群生するので「檜原の山」という。

・参考:「纏向の 檜原もいまだ 雲ゐねば

    小松がうれゆ 沫雪ながる」(万葉集2314・柿本人麻呂)

 

*『平家物語』を読む。

巻第九 「忠度最期」(ただのりのさいご)の段、

「 薩摩守忠度(平忠盛の六男、藤原俊成に師事した歌人、『千載集』に入集)は、一の谷の西手の大将軍にておはしけるが、紺地の錦の直垂(ひたたれ)に黒糸おどしの鎧きて、黒馬の太うたくましきに、ゐかけ地(沃懸地、漆塗の上に金粉をふりかけたもの)の鞍をいて乗り給へり。其勢百騎ばかりが中にうちかこまれていとさはがず、ひかへひかへ落ち給ふを(あまりあわてず、時々馬を止めて戦いながら落ちて行かれるのを)、猪俣党に岡辺六野太忠純(ただずみ)、大将軍と目をかけ、鞭あぶみをあはせて(むちを打つ拍子に合わせてあぶみ[鞍の両脇にさげ、乗り手が足を踏みかけるもの]をあおること)追ッつき奉り、〈抑々いかなる人で在(まし)まし候ぞ、名乗らせ給へ〉ともうしければ、〈是はみかたぞ(この隊は味方だぞ。無益な殺人を避けるために忠度が[味方だ]と偽ったのである)〉とてふりあふぎ給へるうちかぶとより見入れたれば、かねぐろ也([かね]は歯につける鉄を酸化させた液、歯黒という)。あッぱれみかたにはかねつけたる人はない物を、平家の君達(きんだち)でおはするにこそと思ひ、おしならべてむずとくむ。是を見て百騎ばかりある兵(つはもの)共、国々のかり武者(諸国から徴集して兵士としたもの)なれば、一騎も落ちあはず、われさきにとぞ落ち行きける。薩摩守〈にッくいやつかな。みかたぞといはばいはせよかし(自分が味方だといったのだから、言わせておけばよいのだ)〉とて、熊野そだち大ぢからの早業にておはしければ、やがて刀をぬき、六野太(ろくやた)を馬の上で二刀(ふたかたな)、おちつく所で一刀(ひとかたな)、三刀までぞ突かれたる。」

 (つづく)

 

*秋艸道人、会津八一先生の歌集『鹿鳴集』より、奈良愛惜の歌。

〈鐘楼 昭和十八年三月〉

 三月十四日二三子とともに東大寺に詣づ客殿の廊下より望めば焼きて日なほ浅き嫩草山の根わづかに青みそめ陽光やうやく熙々たらむとすれども梢をわたる野風なほ襟に冷かにしてかの洪鐘の声また聞くべからずことに寂寞の感ありよりて鐘楼に到り頭上にかかれる撞木を撫しつつこの歌を作る

「ひさしくも つかざるかねを おしなでて

こもれるひびき きかずしもあらず」

〈東京にかへるとて〉

「あをによし ならやまこへて さかるとも

         ゆめにしみえこ わかくさのやま」

〈東京にかへりて後に〉

「ならやまを さかりしひより あさにけに

         みてらみほとけ おもかげにたつ」

 「夢にまで見える若草山」「面影にたつ御寺御仏」はいつまでもたいせつに残しておきたいものです。

 

*今、若草山の北麓、浄瑠璃寺や正倉院、東大寺、春日山に近い「中ノ川・東鳴川」に奈良市のごみ焼却場を建設するというとんでもない計画があります。  最近の奈良市長の発言によれば、第二候補地を選定しようとしているようですが、ここは浄瑠璃寺まで数百メートルの直近の距離です。ここに焼却場ができ、高い煙突から煙が吐き出されることになれば、日本の宝、世界の宝である神聖な古寺の風景と文化財が破壊されます。是は最悪の無謀な選択です。市長は撤回すべきです。

悠久の大和、奈良の山々は日本人の心のふるさと、国のまほろばです。

日本のふるさと、国のまほろばを失えば日本人は亡国の民となってしまいます。

 

「やまとは 国のまほろば たたなづく

青垣やまごもれる やまとしうるはし」

  日本武尊(やまとたけるのみこと)・古事記

 

この問題を詳しく知りたい方は、

ホームページ『奈良市クリーンセンター建設計画に関する課題について』をご覧ください。本計画の問題点が的確にまとめられています。

Img_1732

Img_1733

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年2月24日 (日)

般若寺 水仙花だより  2・24

 

◎水仙: ≪満開≫ 

・開花:2月~3月初旬

今が見ごろです。

春雪が積れば花が倒れてしまいますので

お早目のお越しをおすすめします。

・球根の数:1万~2万 

 

*曇り、けさは薄氷でした。

最近、当寺で発行している般若寺に関する史料が人気を呼んでいます。大塔宮の『般若寺の御危難』、これは大正7年に作られ尋常小学校で使われた教科書の一節です。次は重要文化財の「笠卒塔婆」に刻まれた宋人石工、伊行末と子息行吉の事績を記した『笠塔婆銘文解読』。そして平安時代の末に起こった平家による南都焼き討ち事件を語る『平家物語・奈良炎上の段』で、本文に註を加えたものです。この三種はコピー代の30円、50円でお分けしています。さらにもう一つはお能の台本ともいえる『謡曲、笠卒塔婆』です。南都を炎上させた平重衡の亡霊が主役になっています。余り上演されることはないので大変珍しいと思います。こちらは紙が12枚ですので100円頂戴しています。日に数部程度の普及ですが、皆さまに般若寺、奈良、そして日本の歴史や伝統文化を御理解していただく一助になれば、と思い作りました。これからも新たな史料を増やしていきます。これらはすべて本ブログで書いたものをもとにしています。

 

〔短歌〕

「日のくれの 冬空映す お濠水

        風に皺めり さむけし寒けし」

          木下利玄・一路

〔俳句〕

「水仙の 香を囲む距離 ありにけり」稲畑汀子

〔和歌〕

「ゆふぐれの 霞のきはに とぶ鳥の」

         つばさも春の 色にのどけき

           伏見院御歌・風雅26

「夕暮の、たなびく霞と空の境い目のあたりを飛ぶ鳥の翼も、いかにも春らしいやわらかな色合いを見せて、まことにのどかなことだ。」

・霞のきは=霞の際。層をなしてたなびく霞の色と空の色との接点。

 

*『平家物語』を読む。

「越中前司最期」の段、

「〈武蔵国住人、猪俣小平六則綱〉となのる。〈つらつら此の世間(よのなか)のありさまをみるに、源氏の御方(おんかた)は強く、平家の御方は負け色に見えさせ給ひたり。今は主の世にましまさばこそ(現に主君が世に栄えていて初めて)、敵のくびとッてまいらせて、勲功勧賞にもあづかり給はめ。理をまげて則綱たすけ給へ。御へんの一門なん十人もおはせよ(たとえ何十人おられようとも)、則綱が勲功の賞に申しかへて(あなた方の助命を私の勲功の賞を願い出ることに代えて)たすけ奉らん〉といひければ、越中前司大きにいかッて、〈盛俊身こそ不肖なれ共、さすが平家の一門なり。源氏たのまうどは思はず。源氏又盛俊にたのまれうどもよもおもはじ(源氏に属する貴殿も、平家であるこの私から助命を頼まれようとはまさか思うまい)。にッくい君が申し様哉〉とて、やがて頸をかかんとしければ、猪俣〈まさなや(けしからん)、降人の頸かくやうや候(首を切るという法がありますか)〉。越中前司〈さらばたすけむ〉とてひきおこす。まへは畠のやうにひあがッて、きはめてかたかりけるが、うしろは水田のごみ(泥水)深かりけるくろ(畔)のうへに、二人の者共腰うちかけていきづきゐたり。

 しばしあッて、黒革威の鎧きて月毛なる馬にのッたる武者一騎はせ来る。越中前司あやしげにみければ、〈あれは則綱が親しう候人見四郎と申す者で候。則綱が候をみてまうでくる(やってくる)と覚え候。くるしう候まじ〉といひながら、あれがちかづいたらん時に、越中前司にくんだらば、さり共おちあはんずらん(何ぼ何でも、一緒になってかせいしてくれるだろう)とおもひて待つところに、いち段ばかり近づいたり。越中前司初めはふたりを一目づつ見けるが、次第にちかうなりければ、馳せ来る敵をはたとまもッて(ぐっとにらみつけて)、猪俣をみぬひまに、ちから足をふんでつゐ立ちあがり、ゑいといひてもろ手をもッて、越中前司が鎧の胸板(よろいの胴の前面の最上部)をばぐッとつゐて、うしろの水田へのけに突きたをす(仰向けに突き倒した)。おきあがらんとする所に、猪俣うへにむずと乗りかかり、やがて越中前司が腰の刀をぬき、鎧の草摺ひきあげて、つかもこぶしもとおれとおれと三刀さいて頸をとる。さる程に人見四郎おちあふたり。か様の時は論ずる事もありと思ひ(人見四郎との間に功名争いがおこることもあろうかと思い)、太刀のさきに貫き、高くさし上げ、大音声をあげて、〈此の日ごろ鬼神と聞えつる平家の侍越中前司盛俊をば、猪俣小平六則綱がうッたるぞや〉となのッて、其日の高名の一の筆にぞ付きにける(筆頭に記録してもらった)。」

 (この段終わり)

 

*秋艸道人、会津八一先生の歌集より、奈良愛惜の歌。

『山光集』

〈鐘楼 昭和十八年三月〉

 三月十四日二三子とともに東大寺に詣づ客殿の廊下より望めば焼きて日なほ浅き嫩草山の根わづかに青みそめ陽光やうやく熙々たらむとすれども梢をわたる野風なほ襟に冷かにしてかの洪鐘の声また聞くべからずことに寂寞の感ありよりて鐘楼に到り頭上にかかれる撞木を撫しつつこの歌を作る

「なつきそと かかれるかねを あふぎみて

         うでさしのべつ なにすともなく」

『鹿鳴集』

〈南京新唱 奈良坂にて〉

「ならさかの いしのほとけの おとかひに

         こさめなかるる はるはきにけり」

〈同 東京にかへるとて〉

「あをによし ならやまこへて さかるとも

         ゆめにしみえこ わかくさのやま」

〈同 東京にかへりて後に〉

「ならやまを さかりしひより あさにけに

         みてらみほとけ おもかげにたつ」

 「夢にまで見える若草山」「面影にたつ御寺御仏」はいつまでもたいせつに残しておきたいものです。

 

*今、若草山の北麓、浄瑠璃寺や正倉院、東大寺、春日山に近い「中ノ川・東鳴川」に奈良市のごみ焼却場を建設するというとんでもない計画があります。ここに焼却場ができ、高い煙突から煙が吐き出されることになれば、日本の宝、世界の宝である神聖な古都の風景と文化財が破壊されます。

悠久の大和、奈良の山々は日本人の心のふるさと、国のまほろばです。

 

「やまとは 国のまほろば たたなづく

青垣やまごもれる やまとしうるはし」

  日本武尊(やまとたけるのみこと)・古事記

 

この問題を詳しく知りたい方は、

ホームページ『奈良市クリーンセンター建設計画に関する課題について』をご覧ください。本計画の問題点が的確にまとめられています。Img_2013

Img_2002

Img_1994

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年2月23日 (土)

般若寺 水仙花だより  2・23

 

◎水仙: ≪満開≫ 

・開花:2月~3月初旬

今が見ごろです。

雪が積れば花が倒れてしまいますので

それまでにお越しください。

・球根の数:1万~2万 

 

*けさは快晴、無風の穏やかな天気です。毎日できていた氷も消えています。

昨日の「奈良ボランティアガイドの会」の作業奉仕は予定の前9時より早く、まだ寒さが厳しい8時半からの開始でした。11時までの2時間半を少しの休憩だけで中身の濃いきつい仕事をしていただきました。人数は予定の15人を超え、19人でした。駐車場にシートを敷きつめ、その上に苗床プランター千鉢を二列に並べて行くのですが、大勢ですので手渡しですいすいとこなしていただきました。作業の合間に、時間をいただきお話をさせていただきました。普段、奈良を訪れる観光客にガイドされている皆さんですから少しでも知識を深めていただこうと、過去に奈良を襲った巨大地震の事と平家の焼き討ち事件による焼亡と復興の話が中心でした。奈良は1300年の歴史文化を残しているけれども二度の戦火と地震などの天災によって大きな被害を蒙ってきた、そしてそのつど復興が成し遂げられていることなどを、般若寺の十三重石塔と笠塔婆の変遷からお話しいたしました。奈良の文化財は奈良時代から現代までそのままに残ったのではないこと、壊れたり焼かれたりしても、先人のたゆまぬ復興と保存の努力によって今に残されてきたことを学んでいただけたと思います。

 全国の人に、世界の人に奈良のよさを知っていただくためには、ボランティアガイドは必須の尊い存在です。

 

〔短歌〕

「いなまくは 愛(を)しみさびしみ 燈籠の

        灯の下(もと)を いゆきもとほる」

          木下利玄・一路

〔俳句〕

「水仙を たっぷりさして 母とをり」松岡映子

〔和歌〕

「のどかにも やがてなり行く けしき哉

         昨日の日かげ けふの春雨」

           伏見院御製・玉葉18

「のどかな陽気に、もうすぐなって行くような様子だなあ。昨日のうららかな日ざし、そして今日のこの静かな春雨よ。」

 

*『平家物語』を読む。

「越中前司最期」(えっちゅうのせんじさいご)の段、

「大手にも浜の手にも(大手は生田の森の方面、浜の手は一の谷の海岸方面)、武蔵・相模の兵(つはもの)共、命を惜しまず攻めたたかふ。新中納言(平知盛[とももり]、清盛の四男、知謀の武将)は東にむかッてたたかい給ふところに、山のそは(側面)よりよせける児玉党使者をたてまッて、〈君は武蔵国司でましまし候し間、是は児玉の者共が申し候。御うしろをば御覧候はぬやらん(御覧にならないのでしょうか)〉と申す。新中納言以下の人々、うしろをかへりみ給へば、くろ煙おしかけたり。〈あはや、西の手はやぶれにけるは(ああ、西の守りは破れたぞ)〉といふ程こそひさしけれ、とる物もとりあへず我さきにとぞ落ち行きける。

 越中前司盛俊は、山の手(鵯越の麓を言う)の侍大将にて有けるが、今はおつともかなはじ(今となっては逃れようにも逃れられまい)とや思ひけん、ひかへて敵を待つところに(馬をとどめて敵をまっていると)、猪俣小平六則綱、よい敵と目をかけ、鞭あぶみをあはせて馳せ来たり、おしならべむずとく(組)うでどうどおつ。猪俣は八ヶ国にきこえたるしたたか者也。か(鹿)の角の一二のくさかり(鹿の角の根元から数えて一番目か二番目の枝)をばたやすうひッさ(裂)きけるとぞ聞えし。越中前司は二三十人が力わざをするよし人目には見えけれ共、内々は六七十人してあげおろす船を、只一人しておしあげおしおろす程の大力也。されば猪俣をとッておさへてはたらかさず(動かさない)。猪俣したに臥しながら、刀を抜こうどすれども、指はだかッて(広がって)刀のつか握るにも及ばず(握ろうにも握れない)。物をいはうどすれ共、あまりにつようおさへられてこゑも出ず。すでに頸をかかかれんとしけるが、力は劣ったれ共、心は剛なりければ、猪俣少しもさはがず(少しもあわてないで)、しばらく息をやすめ、さらぬ体にもてなして申しけるは、〈抑々なのッつるをばきき給ひてか(大体、あなたは私の名乗るのを聞かれたか)。敵(かたき)をうつといふは、われもなのッてきかせ、敵にも名のらせて頸をとッたればこそ大功なれ。名も知らぬくびとッては、何にかし給ふべき〉といはれて、げにもやと思ひけん、〈是はもと平家の一門たりしが、身不肖なるによッて当時は侍になッたる(現在は侍になっている。侍は本来は平氏以外のものであろうが、平氏でも血縁が薄い者にはこの身分の者があった)越中前司盛俊(もりとし、平盛国の子)といふ者也。わ君は何者ぞ、なのれ、きかう〉どいひければ、」

 (つづく)

 

*秋艸道人、会津八一先生の歌集より、奈良愛惜の歌。

『山光集』

〈大仏讃歌 昭和十八年三月〉

「そそりたつ いらかのしびの あまつひに

         かがやくなべに くにはさかえむ」

『鹿鳴集』

〈南京新唱 奈良坂にて〉

「ならさかの いしのほとけの おとかひに

         こさめなかるる はるはきにけり」

〈同 東京にかへるとて〉

「あをによし ならやまこへて さかるとも

         ゆめにしみえこ わかくさのやま」

〈同 東京にかへりて後に〉

「ならやまを さかりしひより あさにけに

         みてらみほとけ おもかげにたつ」

 「夢にまで見える若草山」「面影にたつ御寺御仏」はいつまでもたいせつに残しておきたいものです。

 

*今、若草山の北麓、浄瑠璃寺や正倉院、東大寺、春日山に近い「中ノ川・東鳴川」に奈良市のごみ焼却場を建設するというとんでもない計画があります。ここに焼却場ができ、高い煙突から煙が吐き出されることになれば、日本の宝、世界の宝である神聖な古都の風景と文化財が破壊されます。

悠久の大和、奈良の山々は日本人の心のふるさと、国のまほろばです。

 

「やまとは 国のまほろば たたなづく

青垣やまごもれる やまとしうるはし」

  日本武尊(やまとたけるのみこと)・古事記

 

この問題を詳しく知りたい方は、

ホームページ『奈良市クリーンセンター建設計画に関する課題について』をご覧ください。本計画の問題点が的確にまとめられています。Img_2007

Img_1996

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年2月22日 (金)

般若寺 水仙花だより  2・22

 

◎水仙: ≪満開≫ 

・開花:2月~3月初旬

今が見ごろです。

雪が積れば花が倒れてしまいますので

それまでにお越しください。

・球根の数:1万~2万 

 

*晴。今日は朝九時から「奈良ボランティアガイドの会」の皆さまが境内の整美作業にこられます。昨年に続いてのご奉仕です。予定では15名の方がご参加です。庭の整美といってもまだ草も生えていないので、コスモスの苗床づくりをしていただこうかと考えています。約千鉢のプランターを駐車場に並べる作業です。これは少人数では辛い仕事ですが、大勢でやれば半日もあれば出来ます。寒い時期でも暖かくなります。

少しずつ春に向かっての準備ができてていきます。

 

〔短歌〕

「燈籠に ほのあかるめる 石だたみ

       ふみふみあゆみ 宵宮をめぐる」

         木下利玄・一路

〔俳句〕

「水仙の 琴線を張り つむるかな」安達風越

〔和歌〕

「ゆふづくひ かすむすゑのに 行く人の

         すげのわがさに 春風ぞ吹く」

           順徳院御歌・風雅25

「傾く夕日が霞んで見える野の果てを、はるかに行く人の菅笠に、春風が吹いているよ。」

・すゑの=遠く続く野。

・参考歌:「三室山 紅葉散るらし 旅人の 

     菅の小笠に 錦織りかく」(金葉集263・経信)

 

*『平家物語』を読む。

「坂落」の段、

「 御曹司(義経)城郭遥かに見わたいておはしけるが、〈馬共おといてみん〉とて、鞍をおき馬をおいおとす。或は足をうちおッて、ころんでおつ、或はさうゐ(相違)なく(無事に)落ちて行くもあり。鞍をき馬三疋、越中前司が屋形(仮の宿所、当時の城では仮屋程度のもので寝起きしていた)のうへに落ちつゐて、身震いしてぞ立ちたりける。御曹司是を見て〈馬共はぬしぬしが心得ておとさうにはそんずまじゐぞ(それぞれの持ち主が注意して下りさせるならばけがはしまいぞ)。くはおとせ(そら落せ)、義経を手本にせよ〉とて、まづ三十騎ばかり、まッさきかけておとされけり(最初に三十騎ほど、その中でも義経がまっ先を駈けてお落しになった)。大勢みなつづゐておとす。後陣におとす人々のあぶみのはな(先端)は、先陣の鎧甲にあたる程なり。小石まじりのすなごなれば、ながれおとしに二町ばかりざッとおといて(人を乗せた馬がその崖を流れるように二丁程ざーっとすべり下りて)、壇なるところにひかへたり(途中で一段平らになっている所で一息ついた)。それよりしもをみくだせば、大磐石の苔むしたるが、つるべ落としに(釣瓶を落とすように、垂直に)十四五丈ぞくだッたる。兵共ここぞ最後と申して(兵士らはいよいよ最後だと言って)あきれてひかへたるところに(途方にくれて止まっていると)、佐原十郎義連(よしつら)すすみ出て申しけるは、〈三浦の方で我等は鳥ひとつ立てても(鳥一羽を追うのにでも)、朝夕かやうの所をこそはせありけ(こういう所ばかり駈け歩いて、平地なんか歩かないよ)。三浦の方の馬場や〉とて、まッさきかけておとしければ、兵共みなつづゐておとす。ゑいゑい声をしのびにして(えいえいという掛け声を忍び声にして)、馬に力をつけておとす。余りのいぶせさに(あまり気持ちが悪いので)、目をふさいでぞおとしける。大方人のしわざとは見えず(人間わざとはまったく思われない)。ただ鬼神の所為とぞみえたりける。おとしもはてねば(下り終わらないうちから)、時をどッとつくる。三千余騎が声なれど、山びここたへて十万余騎とぞ聞こえける。村上の判官代康国(やすくに)が手より火を出し、平家の屋形、かり屋をみな焼払ふ。折節風ははげしし(丁度その時は風は烈しかったし)、くろ煙おしかくれば、平氏の軍兵共余りにあはてさはいで(周章狼狽して)、若しや助かると前の海へぞおほく馳せいりける。汀にはまうけ船(予備の船)いくらもありけれども、われさきに乗らうど、舟一艘には物具したる者共が四五百人、千人ばかり込み乗らうに、なじかはよかるべき(ぎっしり乗って行こうというのでは、どうしてよかろうか)。汀よりわづかに三町ばかろおしい出ひて、目のまへに大船三艘しづみにけり。其の後は〈よき人(身分のよい人)をばのす共、雑人共をばのすべからず〉とて、太刀長刀で薙がせけり。かくする事とはしりながら、のせじとする船に取りつき、つかみつき、或は腕うちきられ、或は肘うちおとされて、一谷の汀にあけ(朱)になッてぞなみふし(並伏)したる。能登守教経は、度々のいくさに一度も不覚せぬ人の(思わぬ失敗をしなかった人だが。[][にもかかわらず]の意)、今度はいかがおもはれけん、うす黒といふ馬にのり、西を指いてぞ落ち給ふ。播磨国明石浦より船に乗って、讃岐の八嶋へわたり給ひぬ。」

 (この段終わり)

 

*秋艸道人、会津八一先生の歌集より、奈良愛惜の歌。

『山光集』

〈大仏讃歌 昭和十八年三月〉

「あまぎらす みてらのいらか あさにけに

         をちかたびとの かすみとやみむ」

『鹿鳴集』

〈南京新唱 奈良坂にて〉

「ならさかの いしのほとけの おとかひに

         こさめなかるる はるはきにけり」

〈同 東京にかへるとて〉

「あをによし ならやまこへて さかるとも

         ゆめにしみえこ わかくさのやま」

〈同 東京にかへりて後に〉

「ならやまを さかりしひより あさにけに

         みてらみほとけ おもかげにたつ」

 「夢にまで見える若草山」「面影にたつ御寺御仏」はいつまでもたいせつに残しておきたいものです。

 

*今、若草山の北麓、浄瑠璃寺や正倉院、東大寺、春日山に近い「中ノ川・東鳴川」に奈良市のごみ焼却場を建設するというとんでもない計画があります。ここに焼却場ができ、高い煙突から煙が吐き出されることになれば、日本の宝、世界の宝である神聖な古都の風景と文化財が破壊されます。

悠久の大和、奈良の山々は日本人の心のふるさと、国のまほろばです。

 

「やまとは 国のまほろば たたなづく

青垣やまごもれる やまとしうるはし」

  日本武尊(やまとたけるのみこと)・古事記

 

この問題を詳しく知りたい方は、

ホームページ『奈良市クリーンセンター建設計画に関する課題について』をご覧ください。本計画の問題点が的確にまとめられています。Img_1983

Img_1988

Img_1990

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年2月21日 (木)

般若寺 水仙花だより  2・21

 

◎水仙: ≪満開≫ 

・開花:2月~3月初旬

今が見ごろです。

雪が積れば花が倒れてしまいますので

それまでにお越しください。

・球根の数:1万~2万 

 

*三月まであと一週間だというのに真冬の寒さです。春はそこまで来ています、寒さに負けないでがんばりましょう。

 「平家物語を読む」はいよいよ一の谷の合戦、ヒヨドリ越えの「坂落し」の段に入って来ました。義経の軍勢が常識破りの奇襲をかけ平家勢を打ち破ります。その後は「盛俊の最期」、「忠度の最期」、「重衡生捕」、「敦盛の最期」、「知章の最期」と平家の公達が次々に打ち取られていきます。なぜか勝者よりも敗者に心を寄せたくなるのは、日本人の心情には「滅びの美学」というような情念があるからでしょうか。平家の公達には「あはれ」を感じます。

 

〔短歌〕

「灯あかりに われらかたまり 燈籠の

         奉納人の 名まへをよむも」

           木下利玄・一路

〔俳句〕

「笏立つる 葉に水仙の すくと立つ」大橋敦子

〔和歌〕

「春日野に まだうらわかき さゐたづま

        つまごもるとも いふ人やなき」

   常磐井入道前太政大臣(西園寺実氏)・玉葉17

「春日野に萌え出た、まだ若々しい春草よ。〈さいたづま〉というその名にめでて、〈私の大切な妻がここに隠れている〉と言う人もないのかい、あの昔の物語のように。」

・春日野=大和の歌枕。

・うらわかき=若く初々しい。

・さゐたづま=イタドリの古名。また春の若草一般をもいう。「妻」を導く。

 

*『平家物語』を読む。

「逆落」(さかおとし)の段、

「 是を初めて、秩父・足利・三浦・鎌倉、党には猪俣・児玉・野井与・横山・にし党・都筑党・私の党の兵共、惣じて源平乱れあひ、入れかへ入れかへ、名のりかへ名のりかへおめきさけぶ声、山をひびかし、馬の馳せちがふ音はいかづちの如し。ゐ(射)ちがふる矢は雨のふるにことならず。手負をば肩にかけ、うしろへひきしりぞくもあり。うすでおふてたたかふもあり。痛手負うて討死するものもあり。或はおしならべてくんでおち、さしちがへて死ぬるもあり、或はとッておさへて頸をかくもあり、かかるるもあり、いづれひまありとも見えざりけり(源平のどちらにも敵の乗じるすきがあろうとも思われなかった)。かかりしか共、源氏大手ばかりではかなふべしとも見えざりしに、九郎御曹司搦め手にまはッて七日の明ぼのに、一谷のうしろ鵯越にうちあがり、すでにおとさん(馬に乗って降りよう)とし給ふに、其勢にや驚いたりけん、大鹿二(おほじかふたつ)妻鹿一(めじかひとつ)、平家の城郭一谷へぞ落ちたりける。城の内の兵(つはもの)ども是を見て、〈里近からん鹿だにも、我等におそれては山ふかうこそ入るべきに、是程の大勢のなかへ、鹿のおちやうこそあやしけれ(鹿が飛び下りたとは変だ)。いかさまにも(これはどう考えても)うへの山より源氏おとすにこそ〉とさはぐところに、伊予国住人、武智の武者所清教、すすみ出て、〈なんでまれ(何にてもあれ)、敵の方より出できたらん物をのがすべき様なし〉とて、大鹿二ついとどめて、妻鹿をばゐでぞとをしける(射ないで味方の陣中を通してやった)。越中前司〈せんない殿原のしかのゐやうかな(あの殿原は鹿などを射てつまらないことをするものだ)。只今の矢一つでは敵十人はふせかんずるものを。罪つくりに、矢だうなに(生き物を殺す罪障をおかすために、大事な矢を無駄に使って)〉とぞ制しける(誰かが残った雄鹿を射ようとしたのを押しとどめた)。」

 (つづく)

 

*秋艸道人、会津八一先生の歌集より、奈良愛惜の歌。

『山光集』

〈大仏讃歌 昭和十八年三月〉

「うちあふぐ のきのくまわの さしひぢき

         まそほはだらに はるびさしたり」

『鹿鳴集』

〈南京新唱 奈良坂にて〉

「ならさかの いしのほとけの おとかひに

         こさめなかるる はるはきにけり」

〈同 東京にかへるとて〉

「あをによし ならやまこへて さかるとも

         ゆめにしみえこ わかくさのやま」

〈同 東京にかへりて後に〉

「ならやまを さかりしひより あさにけに

         みてらみほとけ おもかげにたつ」

 「夢にまで見える若草山」「面影にたつ御寺御仏」はいつまでもたいせつに残しておきたいものです。

 

*今、若草山の北麓、浄瑠璃寺や正倉院、東大寺、春日山に近い「中ノ川・東鳴川」に奈良市のごみ焼却場を建設するというとんでもない計画があります。ここに焼却場ができ、高い煙突から煙が吐き出されることになれば、日本の宝、世界の宝である神聖な古都の風景と文化財が破壊されます。

悠久の大和、奈良の山々は日本人の心のふるさと、国のまほろばです。

 

「やまとは 国のまほろば たたなづく

青垣やまごもれる やまとしうるはし」

  日本武尊(やまとたけるのみこと)・古事記

 

この問題を詳しく知りたい方は、

ホームページ『奈良市クリーンセンター建設計画に関する課題について』をご覧ください。本計画の問題点が的確にまとめられています。Img_1962

Img_1968

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年2月20日 (水)

般若寺 水仙花だより  2・20

 

◎水仙: ≪満開≫ 

・開花:2月~3月初旬

今が見ごろです。

雪が積れば花が倒れてしまいますので

それまでにお越しください。

・球根の数:1万~2万 

 

*寒のもどりか、毎日真冬のような寒さがつづきます。雪もよく降ります。咲きはじめた白梅もまた縮かんでしまったようです。

「淡雪の つもるつもりや 砂の上」久保田万太郎

「世を恋うて 人を恐るる 余寒かな」村上鬼城

 

〔短歌〕

「雨後(あめのち)の 宵宮(よみや)の灯(あかり) 

  みちわるに 粘(ねば)む土さへ にくからなくに」

         木下利玄・一路

〔俳句〕

「香をほどき 初むは夜明の 野水仙」稲畑汀子

〔和歌〕

「春くれば 雪げのさはに 袖たれて

        まだうらわかき わかなをぞつむ」

          崇徳院御製・風雅17

「春が来ると、雪の消えて水のまさった沢に袖を垂れて、まだ本当に瑞々しい若菜を摘むよ。」

・雪げ=雪消。ゆきどけ。

・うらわかき=末(うら)(草木の先端)が若々しく未熟な。

・参考:「春日野の 雪げの沢に 袖ぬれて

     君がためにと 小芹をぞつむ」(仲実・堀川百首71

 

*『平家物語』を読む。

「二度之懸」の段、

「 其時下人(河原兄弟の下人)共、〈河原殿おととい、只今城の内へまッ先駈けてうたれ給ひぬるぞや〉と呼ばはり(大声で叫ぶ)ければ、梶原是をきき、〈私の党(篠党とも書く)の殿原の不覚でこそ、河原兄弟をばうたせたれ。今は時よく成りぬ。よせよや〉とて、時をどッとつくる。やがてつづいて五万余騎一度に時をぞつくりける。足がる(徒歩の兵士)共に逆茂木取りのけさせ、梶原五百余騎おめいてかく。次男平次景高、余りに先を駈けんと進みければ、父の平三使者を立てて、〈後陣の勢のつづかざらんに、先駈けたらん者は、懸賞あるまじき(論功行賞に浴せまい)由、大将軍(範頼)のおほせぞ〉といひければ、平次しばしひかへて(馬をとどめて)

〈もののふのとりつたへたるあづさ弓ひいては人のかへるものかは(武士が先祖から伝えた梓弓が引かれた以上はもう帰って来ないのと同様に、私も一旦進んだ以上、引き返すことができるだろうか)と申させ給へ(後方の父に言ってください)〉とて、おめいてかく。〈平次うたすな、つづけやもの共、景高うたすな、つづけや者共〉とて、父の平三、兄の源太、同三郎つづいたり。梶原五百余騎、大勢の中へかけ入り、散々に戦ひ、わづかに五十騎ばかりにうちなされ、ざッと退いてぞ出でたりける(城内から出て来た)。いかがしたりけん、其なかに景季は見えざりけり。〈いかに源太は、郎等共〉ととひければ、〈深入りしてうたれさせ給ひて候ごさンめれ(お討たれになったようです)〉と申す。梶原平三これをきき、〈世にあらむ(この世に生き長らえる)と思ふも子共がため、源太うたせて命いきても何かせん、かへせや〉とてとッてかへす。梶原大音声をあげて名のりけるは、〈昔八幡殿、後三年の御戦い(白河天皇の時、陸奥の清原武衡・家衡の起こした戦乱。奥州後三年記に記す)に、出羽国千福金沢の城(千福は仙北。金沢城は秋田県仙北郡仙南町にあった城)を攻めさせ給ひける時、生年十六歳でまッ先かけ、弓手の眼を甲の鉢付の板(かぶとのしころの一枚目の板。)にゐつけられながら(目を突き抜いた矢が鉢付板まで通ったのである)、当の矢(答の矢が正しい、返しの矢)をゐて其敵をゐおとし、後代に名をあげたりし鎌倉権五郎影正が末葉、梶原平三景時、一人当千の兵ぞや。我と思はん人々は、景時うッて見参にいれよや(平家の大将の御覧に入れよ)〉とて、おめいてかく。新中納言〈梶原は東国に聞えたる兵ぞ。あますな、もらすな、うてや〉とて、大勢の中にとりこめて責め給へば、梶原まづ我が身のうへをば知らずして(第一に我が身の危険を顧みるということをしないで)、〈源太はいづくにあるやらん〉とて、数万騎の大勢の中を、たてさま・よこさま・蜘手・十文字にかけわりかけまはりたづぬるほどに、源太はのけ甲にたたかいなッて、馬をもゐさせ、かち立ちになり、二丈ばかり有ける岸をうしろに当て(がけを背にして)、敵五人が中に取り籠められ、郎党二人左右に立てて、面もふらず、命も惜しまず、ここを最後とふせきたたかふ。梶原これを見つけて、〈いまだうたれざりけり〉と、いそぎ馬よりとんでおり、〈景時ここにあり。いかに源太、死ぬるとも敵にうしろを見すな〉とて、親子して五人のかたきを三人うッとり、二人に手おほせ、〈弓矢とりはかくるもひくも(進も退くもその場の状況によるのだ)折にこそよれ、いざうれ(さあお前)、源太〉とて、かい具してこそ出できたれ(ひきかかえて城外に出た)。梶原が二度のかけとは是也。」

 (この段終わり)

 

*秋艸道人、会津八一先生の歌集より、奈良愛惜の歌。

『山光集』

〈大仏讃歌 昭和十八年三月〉

「いくとせの ひとのちからを ささげこし

         おほきほとけは あふぐべきかな」

『鹿鳴集』

〈南京新唱 奈良坂にて〉

「ならさかの いしのほとけの おとかひに

         こさめなかるる はるはきにけり」

〈同 東京にかへるとて〉

「あをによし ならやまこへて さかるとも

         ゆめにしみえこ わかくさのやま」

〈同 東京にかへりて後に〉

「ならやまを さかりしひより あさにけに

         みてらみほとけ おもかげにたつ」

 「夢にまで見える若草山」「面影にたつ御寺御仏」はいつまでもたいせつに残しておきたいものです。

 

*今、若草山の北麓、浄瑠璃寺や正倉院、東大寺、春日山に近い「中ノ川・東鳴川」に奈良市のごみ焼却場を建設するというとんでもない計画があります。ここに焼却場ができ、高い煙突から煙が吐き出されることになれば、日本の宝、世界の宝である神聖な古都の風景と文化財が破壊されます。

悠久の大和、奈良の山々は日本人の心のふるさと、国のまほろばです。

 

「やまとは 国のまほろば たたなづく

青垣やまごもれる やまとしうるはし」

  日本武尊(やまとたけるのみこと)・古事記

 

この問題を詳しく知りたい方は、

ホームページ『奈良市クリーンセンター建設計画に関する課題について』をご覧ください。本計画の問題点が的確にまとめられています。

Img_1951_2

Img_1949

Img_1953_2

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年2月19日 (火)

般若寺 水仙花だより  2・19

 

◎水仙: ≪満開≫ 

・開花:2月~3月初旬

今が見ごろです。

雪が積れば花が倒れてしまいますので

それまでにお越しください。

・球根の数:1万~2万 

 

*けさ雨戸をあけると雪です。まだ降り始めですがどこまで降り続くかわかりません。大きな牡丹雪ですから春の淡雪でとけるのは早いと思います。急いで水仙の保護ネットをかぶせに行きました。今は暑くてふうふう言っている状態です。今年は雪が多そうです。

 

〔短歌〕

「杉の木に 丹塗末社の 燈明(みあかし)の

はだか灯うつり おほにまたたく」

          木下利玄・一路

〔俳句〕

「身の軽き 日や水仙を 束活けに」稲田節子

〔和歌〕

「雪まぜに むらむらみえし 若草の

        なべて翠に なりにける哉」

          出羽(出羽弁)・玉葉16

「白い雪をまじえて、あちこちにまだらに見えていた若草が、もう一面に緑になってしまったなあ。」

 

*『平家物語』を読む。

「二度之懸」(にどのかけ)の段、

「 さるほどに、成田五郎も出きたり。土肥次郎まッさきかけ、其勢七千余騎、色々の旗さしあげ、おめきさけンで責めたたかふ。大手生田の森にも源氏五万余騎でかためたりけるが、其勢の中に武蔵国住人、河原太郎・河原次郎といふものあり。河原太郎弟の次郎を呼うでいひけるは、〈大名(名田[みょうでん]を多く領有し、多数の家子郎党を養っている武士。大名より小さいものを小名という)はわれと手をおろさね共、家人の高名をもッて名誉す。われらはみづから手をおろさずはかなひがたし(高名を認めてもらえない)。敵を前に置きながら、矢ひとつだにもゐずして、まちゐたるがあまりに心もとなう覚ゆるに(待機しているのでは余りにじれったくおもわれるから)、高直はまづ城の内へ紛れ入りて、ひと矢ゐんと思ふ也。されば千万が一も生きてかへらん事ありがたし。わ殿はのこりとどまッて、後の証人にたて(後日の論功行賞の際の証人になれ。自分が死んでも遺族のために賞与を求める鎌倉武士の心情はあわれである)〉といひければ、河原次郎泪をはらはらとながいて、〈口惜しい事をものたまふ物かな。ただ兄弟二人あるものが、兄をうたせておととが一人のこりとどまッたらば(留まったらばとて)、いく程の栄花をか保つべき。所々でうたれんよりも(別々の所で戦死するよりも)、ひとところでこそいかにもならめ〉とて、下人ども呼び寄せ、最後のありさま妻子のもとへいひつかはし、馬にも乗らずげげ(わらぞうり)をはき、弓杖をつゐて、生田森のさかも木をのぼりこえ、城の内へぞ入りたりける。星あかりに鎧の毛も定かならず(星明かりのためによろいの毛[色目]もはっきり分からない)河原太郎大音声をあげて、〈武蔵国住人、河原太郎私市(私市は河原氏の本姓)高直、同次郎盛直、源氏の大手生田森の先陣ぞや〉とぞなのッたる。平家の方には是をきいて、〈東国の武士ほどおそろしかりけるものはなし。是程の大勢の中へただ二人いッたらば(入ったらばとて)、何程の事をかしいだすべき。よしよししばしあひせよ(適当なおもちゃにしろ)〉とて、うたんといふものなかりけり。是等おととい(兄弟)究竟の弓の上手なれば、さしつめひきつめさんざんにゐる間、〈にくし、うてぞ〉といふ程こそありけれ(いうが早いか)、西国に聞えたるつよ弓せい兵、備中国住人、真名辺(真鍋)四郎・真名辺五郎とておとといあり。四郎は一谷にをかれたり。五郎は生田森にありけるが、是を見てよつぴいてひやうふつとゐる。河原太郎が鎧のむないた(よろいの胴の前面の最上部)うしろ(背中)へつッとゐぬかれて、弓杖にすがり、すくむ(動けなくなる)ところを、弟の次郎はしりよッて是をかたにひッかけ、さかも木をのぼりこえんとしけるが、真名辺が二の矢に鎧の草摺のはづれをゐさせて(草摺りはよろいの胴から下に垂れて腰の辺を保護するもの。草摺りのすき間に矢を射込まれたのだろう)、おなじ枕にふしにけり。真名辺が下人落ちあふて、河原兄弟が頸をとる。是を新中納言の見参に入れたりければ、〈あッぱれ剛の者かな。是をこそ一人当千の兵ともいふべけれ。あッたら者どもをたすけてみで〉とぞの給ひける。」

 (つづく)

 

*秋艸道人、会津八一先生の歌集より、奈良愛惜の歌。

『山光集』

〈大仏讃歌 昭和十八年三月〉

「くにのむた てらはさかえむ てらのむた

         くにさかえむと のらせけむかも」

(のむた=と共に)

『鹿鳴集』

〈南京新唱 奈良坂にて〉

「ならさかの いしのほとけの おとかひに

         こさめなかるる はるはきにけり」

〈同 東京にかへるとて〉

「あをによし ならやまこへて さかるとも

         ゆめにしみえこ わかくさのやま」

〈同 東京にかへりて後に〉

「ならやまを さかりしひより あさにけに

         みてらみほとけ おもかげにたつ」

 「夢にまで見える若草山」「面影にたつ御寺御仏」はいつまでもたいせつに残しておきたいものです。

 

*今、若草山の北麓、浄瑠璃寺や正倉院、東大寺、春日山に近い「中ノ川・東鳴川」に奈良市のごみ焼却場を建設するというとんでもない計画があります。ここに焼却場ができ、高い煙突から煙が吐き出されることになれば、日本の宝、世界の宝である神聖な古都の風景と文化財が破壊されます。

悠久の大和、奈良の山々は日本人の心のふるさと、国のまほろばです。

 

「やまとは 国のまほろば たたなづく

青垣やまごもれる やまとしうるはし」

  日本武尊(やまとたけるのみこと)・古事記

 

この問題を詳しく知りたい方は、

ホームページ『奈良市クリーンセンター建設計画に関する課題について』をご覧ください。本計画の問題点が的確にまとめられています。Img_1943

Img_1941

Img_1944

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年2月18日 (月)

般若寺 水仙花だより  2・18

2・18

 

◎水仙: ≪満開≫ 

・開花:2月~3月初旬

今が見ごろです。

雪が積れば花が倒れてしまいますので

それまでにお越しください。

・球根の数:1万~2万 

 

*雨。今日は観音菩薩の御縁日です。当寺には室町時代の作になる十一面観音菩薩(廃絶した超昇寺の脇仏だったそうです)と西国三十三カ所霊場石仏がまつられます。奈良には観音様が大勢いらっしゃいます。奈良で有名な観音様と言えば、南円堂、二月堂、大安寺、法華寺、不退寺、海龍王寺、などなどですが、意外と無名なのが西大寺の長谷式十一面観音です。平安時代の作で、何しろ大きくてお堂が狭く感じられます。足元には脇仏のように創建当時の金銅製四天王像を従えておられます。四天王は後世の修復ですが邪鬼は奈良時代のままで圧巻です。

会津八一さんの歌が残ります。

「まがつみは いまのうつつに ありこせど

         ふみしほとけの ゆくへしらずも」

(南京新唱・西大寺の四王堂にて)

 

〔短歌〕

「吾嬬(あづま)はも はぐれぬやうに よりそへり

        宵宮(よみや)詣の 人出のなかに」

           木下利玄・一路

〔俳句〕

「みんなみの 絵手紙水仙 香り立つ」芦川まり

〔和歌〕

「春山の さきののすぐろ かき分けて

       つめるわかなに あは雪ぞふる」

         藤原基俊・風雅14

「春山の麓の野の、野焼きの焦げあとをかきわけて摘み集めた若菜に、春の淡い雪が降るよ。」

さきののすぐろ=「さきの」は「山崎の野」か。「すぐろ(末黒)」は早春、野の草を焼いた跡の黒く焦げていること。またその部分。

・参考:「春山の さきのををりに 若菜摘む

      妹が白紐 見らくしよしも」(万葉集1421、尾張連)

 

*『平家物語』を読む。

「一二之懸」(いちにのかけ)の段、

「〈保元・平治両度の合戦に先がけたりし武蔵国住人、平山武者所季重〉となのッて、旗さしと二騎馬のはなをならべておめいて駈く。熊谷かくれば平山つづき、平山かくれば熊谷つづく。たがひにわれをと(劣)らじといれかへいれかへ、もみにもうで、火いづる程ぞ責めたりける。平家の侍共手いたうかけられて(手きびしく攻め込まれて)、かなはじとや思ひけん、城のうちへざッと引き、敵をとざまにないてぞ(敵が城外になるようにして)防ぎける。熊谷は馬のふと腹ゐさせて、はぬれば足をこ(越)いており立ちたり(片足を馬の背を越させて、地上に飛び下りて立った)。子息の小太郎直家も、〈生年十六歳〉となのッて、かいだてのきはに馬の鼻をつかする程に、責め寄せてたたかいけるが、弓手のかいなをゐさせて馬よりとびおり、父とならンでたッたりけり。〈いかに小次郎、手おふたか〉。〈さン候〉。〈つねに鎧づきせよ(よろいを揺り上げて、よろいの札[さね]と札の間にすき間がないようにすること。)、うらかかすな(札のすき間からよろいの裏に矢を通させるな)。しころをかたぶけよ、うちかぶとゐさすな(しころを下げてよろいに密着させよ。かぶとの内側を射られるな)〉とぞおしへける。熊谷は鎧にたッたる矢共かなぐり捨てて、城のうちをにらまへ、、大音声をあげて、〈こぞの冬の鎌倉をいでしより、いのちをば兵衛佐(ひょうえのすけ、頼朝)殿にたてまつり、かばねをば一谷でさらさんとおもひきつたる(覚悟を決めた)直実ぞや。[室山・水嶋・二ヶ度の合戦に高名したり]となのる越中次郎兵衛はないか、上総五郎兵衛、悪七兵衛はないか、能登殿はましまさぬか。高名も敵によッてこそすれ。人ごとにあふてはえせじものを。直実におちあへやおちあへや(高名を立てるのも戦った相手によるものです。誰にでも向かっていては高名は立てられませんよ。[だから自分のような名のある武士に向かって来いと、相手に挑戦をいどむことばである])〉とののしッたり。是をきいて、越中次郎兵衛、このむ装束なれば、こむらご(紺村濃、白地に所々を紺色にむらに染めたもの)の直垂にあか皮おどしの鎧きて、白葦毛なるうまにのり、熊谷にめをかけてあゆませよる。熊谷おや子は。中をわられじと(二人の間を隔てられまいと)立ちならんで、太刀をひたひにあて、うしろへはひとひきもひかず、いよいよまへへぞすすみける。越中次郎兵衛かなはじとやおもひけん、とッてかへす。熊谷是をみて、〈いかに、あれは越中次郎兵衛とこそ見れ。敵にはどこをきらはふぞ(敵として私のどこが気に入りませんか)。直実におしならべてくめやくめ〉といひけれども、〈さもさうず(まっぴらまっぴら)〉とてひッかへす。悪七兵衛是を見て、〈きたない殿原のふるまいやうかな(あなたの行動はひきょうですよ)〉とて、すでにくまむとかけ出でけるを(直実に組もうと思って進み出たのを)、鎧の袖をひかへて(越中次郎は悪七兵衛の袖をつかんで)〈君の御大事これにかぎるまじ(御主君[能登殿]にとってこの戦だけが大事なのではないでしょう)。あるべうもなし([こんな所で死ぬなんて]もっての外です)〉と制せられてくまざりけり。其後熊谷はのりかへ(代わりの馬)にのッておめいてかく。平山も熊谷親子がたたかふまぎれに、馬のいきやすめて、、是も又つづいたり。平家の方には馬にのッたる武者は少なし、矢倉のうへの兵共、矢さきをそろへて、雨のふる様にゐけれども、敵は少なし、味方はおほし、勢にまぎれてやにもあたらず(味方の軍勢の中に、直実らの姿が見失われて、かれらは矢にも当たらない。)、〈ただおしならべてくめやくめ〉と下知しけれ共(矢倉の上から命令をしたが)、平家の馬はのる事はしげく、かう事はまれなり(乗ることばかり多くて、食物を与える機会が少なかった)、船には久しう立てたり、よりきッたる様なりけり(疲れ切っている様子である)。熊谷・平山が馬は、飼いにかうたる大の馬共なり、ひとあてあてば、みなけたおされぬべき間(一度ぶつけられようものなら、こちらは皆蹴倒されそうなので)、おしならべてくむ武者一騎もなかりけり。平山は身にかへて思ひける(我が身にかえてまでもと大事にしていた)旗さしをゐさせて、敵の中へわッていり、やがて其敵をとッてぞ出でたりける(ただちにその旗差を射た敵の首を取って出てきた)。熊谷も分捕りあまたしたりけり。熊谷さきによせたれど、木戸をひらかねばかけいらず、平山後に寄せたれど、木戸をあけたればかけ入りぬ。さてこそ熊谷・平山が一二のかけをばあらそひけれ。」

 (この段終わり)

 

*秋艸道人、会津八一先生の歌集より、奈良愛惜の歌。

『山光集』

〈大仏讃歌 昭和十八年三月〉

「あめつちを しらすみほとけ とこしへに

         さかえむくにと しきませるかも」

『鹿鳴集』

〈南京新唱 奈良坂にて〉

「ならさかの いしのほとけの おとかひに

         こさめなかるる はるはきにけり」

〈同 東京にかへるとて〉

「あをによし ならやまこへて さかるとも

         ゆめにしみえこ わかくさのやま」

〈同 東京にかへりて後に〉

「ならやまを さかりしひより あさにけに

         みてらみほとけ おもかげにたつ」

 「夢にまで見える若草山」「面影にたつ御寺御仏」はいつまでもたいせつに残しておきたいものです。

 

*今、若草山の北麓、浄瑠璃寺や正倉院、東大寺、春日山に近い「中ノ川・東鳴川」に奈良市のごみ焼却場を建設するというとんでもない計画があります。ここに焼却場ができ、高い煙突から煙が吐き出されることになれば、日本の宝、世界の宝である神聖な古都の風景と文化財が破壊されます。

悠久の大和、奈良の山々は日本人の心のふるさと、国のまほろばです。

 

「やまとは 国のまほろば たたなづく

青垣やまごもれる やまとしうるはし」

  日本武尊(やまとたけるのみこと)・古事記

 

この問題を詳しく知りたい方は、

ホームページ『奈良市クリーンセンター建設計画に関する課題について』をご覧ください。本計画の問題点が的確にまとめられています。

Img_1551

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年2月17日 (日)

般若寺 水仙花だより  2・17

 

◎水仙: ≪満開≫ 

・開花:2月~3月上旬

今が見ごろです。この頃雪が多いです。

雪が積れば花が倒れてしまいますので

それまでにお越しください。

・球根の数:1万~2万 

 

*晴。今朝の冷え込みは真冬の様でした。土まで凍り霜柱が見えました。水鉢にも一センチほどの氷が張っています。それでも春ですね、氷の下では小さな金魚が泳いでいます、冬には見られなかったことです。今日はお出かけ日和です。

 

〔短歌〕

「今日通りし 村里野山 眼とづれば

        うかび来るかもよ 身はつかれ寝て」

          木下利玄・一路

〔俳句〕

「水仙の 揺れはおのづと 風まかせ」石川元子

〔和歌〕

「里人の わかなつむらし 朝日さす

       三かさののべは 春めきにけり」

         前大納言為家・玉葉15

「里人は若菜を摘んでいるらしいな。朝日のうららかにさす三笠山の麓野の原は、すっかり春らしくなって来たよ。」

・三かさ=大和の歌枕。三笠山。奈良市春日大社の後方の山。「さす」は「笠」の縁語。

 

*『平家物語』を読む。

「一二之懸」の段、

「 さる程に、又うしろに武者こそ一騎つづいたれ。〈たそ〉ととへば〈季重〉とこたふ。〈とふはたそ〉。〈直実ぞかし〉。〈いかに熊谷殿はいつよりぞ〉。〈直実は宵よりよ(私は昨夜からだよ)〉とぞこたへける。〈季重もやがてつづゐてよすべかりつるを、成田五郎にたばかられて、今まで遅々したる也。成田が〈死なば一所で死なう〉どちぎるあひだ(先方がやくそくするものだから)、〈さらば〉とて、うちつれよする間、〈いたう、平山殿、さきがけばやりなし給ひそ(先駈けに気がはやる)。先をかくるといふは、御方の勢をうしろにおいてかけたればこそ、高名不覚も人に知らるれ(味方の軍勢を背後に置いて駈けた時に、始めて高名も不覚も他人に知ってもらえるのだ)。只一騎大勢の中にかけいッて、うたれたらんは、なんの詮かあらんずるぞ(一人だけ先走って多数の敵の中にかけ入って討死したろうとて、何の役にたちますか)〉と制するあひだ、げにもと思ひ、小坂のあるをさきにうちのぼせ、馬のかしらをくだりさまにひッたてて、御方の勢をまつところに、なりたもつづゐて出できたり。うちならべていくさの様をもいひあはせんずるかとおもひたれば(成田が馬を並べて、戦の仕方でも相談するのだろうかと私が思っていると)、さはなくて、季重をばすげなげにうちみて(いかにも不愛想にちらっと見て)、やがてつッと馳せぬいてとほる間、〈あッぱれ、此ものはたばかッて、先がけうどしけるよ〉とおもひ、五六段ばかりさきだッたるを(成田が五六段ほど先に立ったのを。一段は六間に当たる)、あれが馬はわが馬よりはよはげなるものをと目をかけ(成田の馬は私の馬より足が弱そうだと私は思い、先を走る成田を目標として)、一もみもうで(一走り走って)おッついて、〈まさなうも(不当にも)季重ほどの物をばたばかり給ふ物かな〉といひかけ、うちすててよせつれば、はるかにさがりぬらん(成田を打ち捨てて一の谷に寄せに来たのだから、彼はずっと後にいるだろう)。〈よもうしろかげをも見たらじ(成田はよもや我々の後姿だって見てはいまい)〉とぞいひける。

 熊谷・平山、かれこれ五騎でひかへたり(合計五騎で待機した)。さる程に、しののめやうやうあけ行けば、熊谷は先になのッたれ共、平山がきくになのらんとや思ひけん(平山が聞いている所でもう一度名乗ってやろう)、又かいだてのきはに歩ませ寄り、大音声をあげて、〈以前になのッつる武蔵国の住人、熊谷次郎直実、子息小次郎直家、一の谷の先陣ぞや、われとおもはん平家のさぶらひどもは直実におちあへや、おちあへ(立ち向かって勝負をせよ)〉とぞののしッたる(大声でわめいた)。是をきいて、〈いざや、夜もすがらなのる熊谷おや子ひッさげてこん〉とて、すすむ平家の侍たれたれぞ、越中次郎ひょうえ盛嗣・上総五郎兵衛忠光・悪七兵衛景清・後藤内定経、これをはじめてむねとの兵もの二十余騎、木戸をひらいてかけ出でたり。ここに平山、しげ目ゆひ(目結いを細かくした紋り染め。目結は白い斑点をいくつも染め抜いた染め方で、鹿の子絞りともいう)の直垂にひおどしの鎧きて、ふたつびきりょう(二引両、横に二本の線を引いた母衣)の母衣をかけ、目糟毛(糟毛は灰色に白のまじった毛色。目の辺の糟毛に特長があるのでこう名付けられた)といふきこゆる名馬にぞのッたりける。旗さしは黒かは威しの鎧に、甲ゐくび(猪首のように首が短く見えるようにその周囲を甲のしころで覆うこと)にきないて、さび月毛(黒みを帯びた月毛)なるうまにぞのッたりける。」

 (つづく)

 

*秋艸道人、会津八一先生の歌集より、奈良愛惜の歌。

『山光集』

〈大仏讃歌 昭和十八年三月〉

「いちいちの しゃかぞいませる 千えふの

         はちすのうへに たかしらすかも」

『鹿鳴集』

〈南京新唱 奈良坂にて〉

「ならさかの いしのほとけの おとかひに

         こさめなかるる はるはきにけり」

〈同 東京にかへるとて〉

「あをによし ならやまこへて さかるとも

         ゆめにしみえこ わかくさのやま」

〈同 東京にかへりて後に〉

「ならやまを さかりしひより あさにけに

         みてらみほとけ おもかげにたつ」

 「夢にまで見える若草山」「面影にたつ御寺御仏」はいつまでもたいせつに残しておきたいものです。

 

*今、若草山の北麓、浄瑠璃寺や正倉院、東大寺、春日山に近い「中ノ川・東鳴川」に奈良市のごみ焼却場を建設するというとんでもない計画があります。ここに焼却場ができ、高い煙突から煙が吐き出されることになれば、日本の宝、世界の宝である神聖な古都の風景と文化財が破壊されます。

悠久の大和、奈良の山々は日本人の心のふるさと、国のまほろばです。

 

「やまとは 国のまほろば たたなづく

青垣やまごもれる やまとしうるはし」

  日本武尊(やまとたけるのみこと)・古事記

 

この問題を詳しく知りたい方は、

ホームページ『奈良市クリーンセンター建設計画に関する課題について』をご覧ください。本計画の問題点が的確にまとめられています。

Img_1759

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年2月16日 (土)

般若寺 水仙花だより  2・16

 

◎水仙: ≪満開≫ 

・開花:2月~3月上旬

今が見ごろです。雪が積れば花が倒れますので

それまでにお越しください。

・球根の数:1万~2万 

 

*晴。きのうは仏教の開祖、お釈迦様が涅槃(御入滅)された日で、釈尊の遺徳を偲び各宗各寺で「涅槃会」(ねはんえ)または「常楽会」(じょうらくえ)が厳修されたことでしょう。日本では飛鳥時代に元興寺で始まり、奈良の興福寺の涅槃会が有名でした。真言宗では「涅槃講式」という声明が唱えられます。これは鎌倉時代、華厳の明恵上人が作られました。原文は漢文ですが、唱えるときは読み下して和文になります。曲節があるので聞いていてもお経というより邦楽の謡のようです。涅槃は梵語で「ニルバーナ」、煩悩が吹き消された状態を言います。涅槃の本質は「常、楽、我、浄」で表されるところから常楽会という名がついています。この涅槃講式に「羅漢講式」「遺跡講式」「舎利講式」を加えて「四座講式」と言います。いずれも明恵上人の御作です。

なお二月十五日は旧暦ですので三月に法要を勤められることも多いです。

 

〔短歌〕

「とく寝ねばや 夕方宿より あふぎつる

          彼の高山を 明日は越えんに」

            木下利玄・一路

〔俳句〕

「水仙の 束抱いて身の 透けてきし」柴田佐知子

〔和歌〕

「野べに出でて 今日ひきつれば 時わかぬ

          松のすゑにも 春はきにけり」

            中務・風雅11

「野原に出て、今日、初日の出に引きぬいて来たのを見れば、季節にかかわらぬ常緑の松の葉先にも、新しい春は来たことだよ。」

・時わかぬ=時節を区別せぬ。松には紅葉・落葉のことがないのでいう。

 

*『平家物語』を読む。

「一二之懸」(いちにのかけ)の段、

「 六日の夜半ばかりまでは、熊谷・平山搦手にぞ候ける。熊谷次郎、子息の小次郎を呼うでいひけるは、〈此手は、悪所をおとさんずる時に、誰さきといふ事もあるまじ(この部隊に居ては、鵯越の悪所を下る時に誰が先駆けということもなくなるだろう)。いざうれ(さあお前)、是より土肥がうけ給てむかうたる(土肥実平が引き受けて進んでいる)播磨路へむかうて、一の谷のまッさきかけう〉どいひければ、小次郎「しかるべう候。直家もかう(この[かう]は今とちがって相手の言うことをさしている)こそ申したう候つれ。さらばやがてよせさせ給へ〉と申す。熊谷〈まことや平山も(たしか平山も)此手にあるぞかし。うちこみのいくさ(大勢で一緒にする戦)このまぬ物也。平山がやう(様子)見てまいれ〉とて、下人をつかはす。案のごとく平山は熊谷よりさきにて出で立ちて、〈人をば知らず、季重にをいては一引きもひくまじゐ物を、ひくまじゐ物を(この季重[自分の事]に限って、戦になったら一歩も引かないぞ)〉とひとり言をぞし居たりける。下人(平山の下人)が馬を飼うとて(馬に草を食わせながら)、〈にッくい馬の長食らいかな〉とて、うちければ、〈かうなせそ、其馬の名ごりも今宵ばかりぞ〉とて、うッたちけり(馬で出発した)。下人走りかへッて、いそぎ此よし告げたりければ、〈さればこそ(思った通りだった)〉とて、やがて是もうち出でけり。熊谷はかちのひたたれ(濃い藍色のよろい直垂)に、あか皮おどしの鎧(あかね[草の名]で染めた革でおどしたよろい)きて、紅のほろ(母衣または保呂と書く。ほろきぬともいう。布製の袋のようなもので、背中に背負って敵の矢を防いだ)をかけ、ごんだ栗毛といふきこゆる名馬にぞのッたりける。小次郎はおもだか(沢潟も葉を模様化したもの)を一しほすッたる(染料の中に一回だけ漬けて着色する)直垂に、ふしなはめの鎧(節縄目、白・薄青・紺の三色を縄を並べたような波状の模様に染めたかわでおどしたよろい)きて、西楼といふ白月毛(しらつきげ、月毛は白に赤褐色がまじった馬の毛色。白月毛は白みの勝った月毛)なる馬にのッたりけり。旗さし(馬に乗ってよろいの背に旗指物[戦陣で目印に用いる小旗]をさした兵士)はきぢん(きくじんともいう。黄色を帯びた青色)の直垂に、小桜を黄にかへいたる鎧(小さな桜を藍の地色から黄色く染め抜いた革でおどしたよろい)きて、黄河原毛(河原毛は白に黄赤が混じった毛色。黄河原毛は黄色の勝った河原毛)なるうまにぞのッたりける。おとさんずる谷をば弓手にみなし、馬手へあゆませゆく程に(義経の一隊が落すであろう絶壁を左手に見ながら、自分は右の方に馬を歩ませていくと)、としごろ人もかよはぬ田井の畑(神戸市須磨区内で、古道が通っていた)といふふる道をへて、一の谷の波うちぎはへぞ出でたりける。一谷ちかく塩屋(神戸市垂水区の海岸で三の谷の西)といふ所に、いまだ夜深かりければ、土肥次郎実平、七千余騎でひかへたり。熊谷は浪うちきはより、夜にまぎれて、そこをつッとうちとほり、一谷の西の木戸口にぞおしよせたる。その時はいまだ敵の方にもしづまりかへッてをともせず。御方一騎もつづかず。熊谷次郎子息小次郎をようでいひけるは、〈我も我もと、先に心をかけたる(一番乗りをねらっている)人々はおほかるらん。心せばう直実ばかりとは思ふべからず。すでによせたれども、いまだ夜のあくるを相待ちて、此辺にもひかへたるらん、いざなのらう〉どて、かいだて(楯を並べて垣のようにしたもの)のきはにあゆませより、大音声をあげて、〈武蔵国住人、熊谷次郎直実、子息小次郎直家、一谷先陣ぞや〉とぞ名のッたる。平家の方には〈よし、音なせそ。敵に馬の足をつからさせよ。矢だねをゐ尽させよ〉とて、あひしらふ(相手になる)ものもなかりけり。」

 (つづく)

 

*秋艸道人、会津八一先生の歌集より、奈良愛惜の歌。

『山光集』

〈大仏讃歌 昭和十八年三月〉

「みほとけの うてなのはすの かがよひに

         うかぶ三千 だいせんせかい」

『鹿鳴集』

〈南京新唱 奈良坂にて〉

「ならさかの いしのほとけの おとかひに

         こさめなかるる はるはきにけり」

〈同 東京にかへるとて〉

「あをによし ならやまこへて さかるとも

         ゆめにしみえこ わかくさのやま」

〈同 東京にかへりて後に〉

「ならやまを さかりしひより あさにけに

         みてらみほとけ おもかげにたつ」

 「夢にまで見える若草山」「面影にたつ御寺御仏」はいつまでもたいせつに残しておきたいものです。

 

*今、若草山の北麓、浄瑠璃寺や正倉院、東大寺、春日山に近い「中ノ川・東鳴川」に奈良市のごみ焼却場を建設するというとんでもない計画があります。ここに焼却場ができ、高い煙突から煙が吐き出されることになれば、日本の宝、世界の宝である神聖な古都の風景と文化財が破壊されます。

悠久の大和、奈良の山々は日本人の心のふるさと、国のまほろばです。

 

「やまとは 国のまほろば たたなづく

青垣やまごもれる やまとしうるはし」

  日本武尊(やまとたけるのみこと)・古事記

 

この問題を詳しく知りたい方は、

ホームページ『奈良市クリーンセンター建設計画に関する課題について』をご覧ください。本計画の問題点が的確にまとめられています。Img_1703

Img_1743

Img_1699

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年2月15日 (金)

般若寺 水仙花だより  2・15

 

◎水仙: ≪満開≫ 

・開花:2月~3月上旬

寒さのため開花が遅れました。

今が見ごろです。

・球根の数:1万~2万 

 

*雨。本日予定されていた「奈良ボランティアガイドの会」の作業奉仕が雨のため中止になりました。来週に延ばされたようです。昨年も同会によるご奉仕があって大助かりでした。30人ほど来られるので何をしていただこうかと思案しますが、今ちょうどコスモスの苗床プランターをならべる準備をしているので、それをしていただこうと思います。千鉢ありますから一仕事です。ならべた後、種まき培養土を補充する仕事もあります。こちらは急ぎませんのでまた後日にでもできます。この苗床を実際に使用するのは5月中ごろですからそれまで雨にあてて腐葉土をなじませておきます。いよいよコスモス寺のシーズン始動です。

 

〔短歌〕

「泊る町へ 春日夕づき 未だつかず

        だまりこくりて 歩く久しさ」

          木下利玄・一路

〔俳句〕

「生花の 留めの水仙 灯に匂ふ」鵜飼紫生

〔和歌〕

「けふよりは 君にひかるる ひめこ松

いく万代か 春にあふべき」

   後法性寺入道前関白太政大臣(九条兼実)・玉葉13

「入内の今日からは天皇の御愛情に包まれる私の愛娘よ。〈君にひかれて万代や経む〉の古歌のように、何万年のめでたい春に逢うことだろうか。」

・ひめこ松=姫小松。兼実の娘任子(宜秋門院)をたとえる。

・参考:「千歳まで限れる松も今日よりは君にひかれて万代や経む」(拾遺24、能宣)

 

*『平家物語』を読む。

「老馬」の段、

「 武蔵坊弁慶老翁を一人具してまいりたり。御曹司〈あれはなにものぞ(その老人は何者か)〉と問はれければ、〈此の山の猟師で候〉と申す。〈さては案内し(知)ッたるらん、ありのままに申せ〉とこその給ひけれ。〈いかでか存知仕らで候べき〉。〈是より平家の城郭一谷へおとさんと思ふはいかに〉。〈ゆめゆめかなひ候まじ(とても不可能でしょう)。三十丈の谷、十五丈の岩さきなンど申すことろは、人のかよふべき様候はず。まして御馬なンどは思ひもより候はず〉。〈さてさ様の所は鹿は通ふか〉。〈鹿はかよひ候。世間だにも暖かになり候へば(世の中が暖かになりさえすれば)、(途中の山が険しかろうと)草の深いに伏さうどて、播磨の鹿は丹波へ越え、世間だに寒うなり候へば、雪の浅きには(食)まうどて、丹波の鹿は播磨の印南野(ゐなみの、兵庫県印南郡付近の平野)へかよひ候〉と申す。御曹司〈さては馬場ござむなれ([にこそあるなれ]から変化。ちょうどよいうまのれんしゅうじょうだ)。鹿のかよはう所を馬の通はぬ様やある。やがてなんぢ(ほかの者でなく、おまえ)案内者仕つれ〉とぞの給ひける。此の身は年老いてかなうまじゐ由を申す。〈汝が子はないか〉。〈候〉とて、熊王といふ童の、生年十八歳になるをたてまつる。やがてもとどりとりあげ(もとどりは頭髪を頭の上で束ねた所。元服によってまげに結う)、父をば鷲尾庄司武久と名のらせ、先打ち(馬に乗って先頭に立つこと)せさせて案内者にこそ具せられけれ。平家追討の後、鎌倉殿に仲違うて、奥州でうたれ給ひし時、鷲尾三郎義久とて、一所で死にける兵物(つはもの)也。」

 (この段終わり)

 

*秋艸道人、会津八一先生の歌集より、奈良愛惜の歌。

『山光集』

〈大仏讃歌 昭和十八年三月〉

「あまたらす おほきほとけを きづかむと

         こぞりたちけむ いにしへのひと」

『鹿鳴集』

〈南京新唱 奈良坂にて〉

「ならさかの いしのほとけの おとかひに

         こさめなかるる はるはきにけり」

〈同 東京にかへるとて〉

「あをによし ならやまこへて さかるとも

         ゆめにしみえこ わかくさのやま」

〈同 東京にかへりて後に〉

「ならやまを さかりしひより あさにけに

         みてらみほとけ おもかげにたつ」

 「夢にまで見える若草山」「面影にたつ御寺御仏」はいつまでもたいせつに残しておきたいものです。

 

*今、若草山の北麓、浄瑠璃寺や正倉院、東大寺、春日山に近い「中ノ川・東鳴川」に奈良市のごみ焼却場を建設するというとんでもない計画があります。ここに焼却場ができ、高い煙突から煙が吐き出されることになれば、日本の宝、世界の宝である神聖な古都の風景と文化財が破壊されます。

悠久の大和、奈良の山々は日本人の心のふるさと、国のまほろばです。

 

「やまとは 国のまほろば たたなづく

青垣やまごもれる やまとしうるはし」

  日本武尊(やまとたけるのみこと)・古事記

 

この問題を詳しく知りたい方は、

ホームページ『奈良市クリーンセンター建設計画に関する課題について』をご覧ください。本計画の問題点が的確にまとめられています。

Img_1908_2

Img_1907_4

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年2月14日 (木)

般若寺 水仙花だより  2・14

 

◎水仙: ≪満開≫ 

・開花:2月~3月上旬

寒さのため開花が遅れました。

今が見ごろです。

・球根の数:1万~2万 

 

*今朝は曇り空、しかし雨は降らないという天気予報です。

水仙の花はいよいよ満開になってきました。まだつぼみを残している今の状態が、花も若々しく匂いも強いので一番いい時期ではないでしょうか。

 先週からコスモスの種まきを始めています。今蒔いたら五月末ごろから七月までの「初夏咲き」となります。ただしこの寒さですから苗床はトンネル栽培で温度を上げないと発芽しません。夜には霜よけネットが必要です。毎日の作業ですから大変です。五月の連休には間に合わないでしょうが、下旬からは咲くことと思います。楽しみです。

 

〔短歌〕

「草にゐて 友と弁当 つかひをれば

        この友のことが いや親しもよ」

          木下利玄・一路

〔俳句〕

「水仙の 蕾ふくらむ 月あかり」戸栗末廣

〔和歌〕

「山のはを 出づる朝日の かすむより

        春のひかりは 世にみちにけり」

     後西園寺入道前太政大臣(西園寺実兼)・風雅5

「山の端をさし出る朝日が、おだやかに霞んで見えると、ああもうそれだけで、豊かな春の光は世の中一ぱいにみちあふれてしまったよ。」

 

*『平家物語』を読む。

「老馬」の段、

「 六日の明ぼのに、九郎御曹司、一万余騎を二手にわかッて、まづ土肥次郎実平をば七千余騎で一の谷の西の手へさしつかはす。わが身は三千余騎で一谷のうしろ、鵯越を落とさむと([おとす]は馬で下ること)、丹波路より搦手にこそまはられけれ。兵物(つはもの)共〈これはきこゆる悪所であンなり(有名な険しい所だそうだ)。敵(かたき)にあふてこそ死にたけれ、悪所に落ちては死にたからず。あッぱれこの山の案内者やあるらん〉と、めんめんに申しければ、武蔵国住人平山武者所すすみ出でて申しけるは、〈季重(すえしげ)こそ案内は知りて候へ(私がその山の様子を知っています)〉。御曹司〈わどのは東国そだちのものの、けふはじめてみる西国の山の案内者、大きにまことしからず(甚だ本当らしくない)〉との給へば、平山かさねて申しけるは、〈御諚ともおぼえ候はぬものかな(これが大将殿のおことばとは思われません)。吉野・泊瀬の花をば歌人がしり、敵のこもッたる城のうしろの案内をば、かう(剛)のものがしる候〉と申しければ、是又傍若無人にぞ聞こえける。

 又武蔵国住人別府小太郎とて、生年十八歳になる小冠者すすみ出て申しけるは、〈父で候ひし義重法師がおしへ候しは、[敵にもおそはれよ、山越えの狩をもせよ(敵に襲われた場合にしても、山に入って狩をしている場合にしても)、深山に迷ひたらん時は、老馬に手綱をうちかけて、さきにおッたててゆけ。かならず道にいづるぞ]とこそおしへ候しか〉。御曹司〈やさしうも申したる物かな。[雪は野原をうづめども、老いたる馬ぞみちはしる]と云ふためしあり〉とて、白葦毛なる老馬にかがみ鞍をき、しろぐつは(轡)はげ(白く磨いたくつわをかませ)、手綱むすンでうちかけ、さきにおッたてて、いまだしらぬ深山へこそいり給へ。比はきさらぎ初めの事なれば、峯の雪むらぎえて、花かとみゆる所もあり。谷の鶯をとづれて、霞にまよふところもあり。のぼれば白雲皓皓として聳へ(白雲のかかった山が真っ白にそびえ)、くだれば青山蛾蛾として岸高し(青葉の山が角立ち、がけが高くそびえる)。松の雪だにきえやらで、苔のほそ道かすかなり(松の雪さえ消えやらず、苔におおわれた細道がかすかに続いている

古今集一、読人しらず〈み山には松の雪だに消えなくに都は野辺の若菜つみけり〉)。嵐にたぐふおりおりは、ばいかとも又うたがはる(雪が嵐に伴って散って来る時には、梅の花ではないかとおもわれる。古今集一、紀友則〈花の香を風のたよりにたぐへてぞうぐひすさそふしるべにはやる〉)。東西に鞭をあげ、駒をはやめて行く程に(馬に鞭あて山中をあちこち走らせているうちに)、山路に日くれぬれば、みなおりゐて(おりて)陣をとる」

 (つづく)

 

*秋艸道人、会津八一先生の歌集より、奈良愛惜の歌。

『山光集』

〈大仏讃歌 昭和十八年三月〉

 天平十三年四月聖武天皇諸国に詔して国分寺を建てしめ十五年十月東大寺盧舎那仏の大像を創めしめたまふその義華厳梵網の所説に拠りたまへるものの如し予しばしば此寺に詣で金容遍満の偉観を瞻仰してうたた昔人の雄図に感動せずんばあらずかつて和歌一首を成せり曰く「おほらかにもろてのゆびをひらかせておほきほとけはあまたらしたり」と今日また来りてその宝前に稽首し退いてさらに十首を詠じ以て前作の意を広めむとす邦家いまや四海に事多し希くは人天斉しく照鑑してこの聖皇の鴻願をして空しからざらしめむことを

「ひむがしの やまべをけづり やまをさへ

         しぬぎてたてし これのおほてら」

『鹿鳴集』

〈南京新唱 奈良坂にて〉

「ならさかの いしのほとけの おとかひに

         こさめなかるる はるはきにけり」

〈同 東京にかへるとて〉

「あをによし ならやまこへて さかるとも

         ゆめにしみえこ わかくさのやま」

〈同 東京にかへりて後に〉

「ならやまを さかりしひより あさにけに

         みてらみほとけ おもかげにたつ」

 「夢にまで見える若草山」「面影にたつ御寺御仏」はいつまでもたいせつに残しておきたいものです。

 

*今、若草山の北麓、浄瑠璃寺や正倉院、東大寺、春日山に近い「中ノ川・東鳴川」に奈良市のごみ焼却場を建設するというとんでもない計画があります。ここに焼却場ができ、高い煙突から煙が吐き出されることになれば、日本の宝、世界の宝である神聖な古都の風景と文化財が破壊されます。

悠久の大和、奈良の山々は日本人の心のふるさと、国のまほろばです。

 

「やまとは 国のまほろば たたなづく

青垣やまごもれる やまとしうるはし」

  日本武尊(やまとたけるのみこと)・古事記

 

この問題を詳しく知りたい方は、

ホームページ『奈良市クリーンセンター建設計画に関する課題について』をご覧ください。本計画の問題点が的確にまとめられています。Img_1680

Img_1678

Img_1687

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年2月13日 (水)

般若寺 水仙花だより  2・13

 

◎水仙: ≪見ごろ:八分咲き≫ 

・開花:2月~3月上旬

寒さのため開花が遅れました。

今が見ごろです。

・球根の数:1万~2万 

 

*「平家物語を読む」は三草山の戦いから、生田の森へとうつり、さらにこれから源平合戦の最大の山場である「一の谷」の戦いへと進みます。有名な義経の鵯越えがあり、平家はやぶれ諸将が戦死していきます。忠度、敦盛の最後は『青葉の笛』の歌になって現代にまで語られ有名です。三位中将の重衡は生捕、囚われの身になります。このあたり平家物語のクライマックスと言ってよい段がつづきます。じっくり読んでいきたいと思います。

 

〔短歌〕

「草にゐて わりごひらけば 真上より

   野天の春日(はるひ) 握飯(むすび)を照らす」

      木下利玄・一路

〔俳句〕

「水仙を 挿してそっぽを 向かれゐて」窪田佳津子

〔和歌〕

「鳥の音も のどけき山の あさあけに

        霞の色は はるめきにけり」

          前大納言為兼・玉葉9

「小鳥のさえずりものどかに聞こえる、山の明け方に、立ちわたる霞の色はすっかり春らしくなったよ。」

 

*『平家物語』を読む。

「老馬」の段、

「 山の手と申すは鵯越(ひよどりごゑ、今の神戸市兵庫区内。丹波路を通って神戸に入る通路には当たるが、後に出るような[一の谷のうしろ]にはならない)のふもとなり。通盛卿(みちもり、清盛の弟教盛の嫡男)は能登殿の假屋に北の方むかへたてまッて、〈此の手はこはひ方とて教盛をむけられて候也。(こちらの方面は敵が強いので私をお向けになったのです)誠にこはう候べし。只今もうへの山より源氏ざッと落し候なば、とる物もとりあへ候はじ。たとひ弓をもッたりとも、矢をはげず([はぐ]は矢を弓の弦に引っ掛けること)はかなひがたし。たとひ矢をはげたりとも、引かずはなをあしかるべし。ましてさ様にうちとけさせ給ひては、なんの用にかたたせ給ふべき〉といさめられて、げにもとや思はれけん。いそぎ物の具して、人(妻のこと)をばかへし給ひけり。

 五日の暮がたに、源氏昆陽野をたッて、やうやう生田の森にせめちかづく(迫り近づいた)。雀の松原(神戸市東灘区魚崎町付近の海岸)・御影の松((魚崎の西隣))・昆陽野の方を見渡せば、源氏手ン手に陣をとッて(思い思いに陣地を設けて)、遠火をたく。ふけゆくままにながむれば、晴たる空の星の如し。平家も遠火たけやとて、生田の森にもかたのごとくぞ(ただ形式だけは)たいたりける。明行くままに見わたせば、山の端出づる月の如し。これやむかし沢辺の蛍と詠じ給ひけんも、今こそ思ひしられけれ。(昔の人が、漁師のたくいさり火を沢のほとりの蛍であろうかと詠んだというが、なるほど上手によんだと今こそ思い知られるのであった。『伊勢物語』八十七段と『新古今集』十七に

[晴るる夜の 星か河辺の 蛍かも わが住むかたの 海人のたく火か]

[河辺]は書陵部蔵鷹司本新古今集に[さはべ]とあり、平家物語と一致する。)源氏はあそこに陣とッて馬やすめ、ここに陣とッて馬かひなどしけるほどにいそがず。平家の方には今や寄する今や寄すると、やすい心もなかりけり。(今こそ寄せるだろうか、今こそ寄せるだろうかと思うと、落ち着いた心ももてなかった。敵の遠火によって戦う前に早くも圧倒された話は巻五富士川にも見られた。)」

 (つづく)

 

*秋艸道人、会津八一先生の歌集より、奈良愛惜の歌。

『山光集』

〈歌碑 昭和十七年四月〉

「ともとわが おりたつてらの にはのへに

         せまりてあをき たかまどのやま」

『鹿鳴集』

〈南京新唱 奈良坂にて〉

「ならさかの いしのほとけの おとかひに

         こさめなかるる はるはきにけり」

〈同 東京にかへるとて〉

「あをによし ならやまこへて さかるとも

         ゆめにしみえこ わかくさのやま」

〈同 東京にかへりて後に〉

「ならやまを さかりしひより あさにけに

         みてらみほとけ おもかげにたつ」

 「夢にまで見える若草山」「面影にたつ御寺御仏」はいつまでもたいせつに残しておきたいものです。

 

*今、若草山の北麓、浄瑠璃寺や正倉院、東大寺、春日山に近い「中ノ川・東鳴川」に奈良市のごみ焼却場を建設するというとんでもない計画があります。ここに焼却場ができ、高い煙突から煙が吐き出されることになれば、日本の宝、世界の宝である神聖な古都の風景と文化財が破壊されます。

悠久の大和、奈良の山々は日本人の心のふるさと、国のまほろばです。

 

「やまとは 国のまほろば たたなづく

青垣やまごもれる やまとしうるはし」

  日本武尊(やまとたけるのみこと)・古事記

 

この問題を詳しく知りたい方は、

ホームページ『奈良市クリーンセンター建設計画に関する課題について』をご覧ください。本計画の問題点が的確にまとめられています。Img_1675

Img_1665

Img_1672

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年2月12日 (火)

般若寺 水仙花だより  2・12

 

◎水仙: ≪見ごろ:八分咲き≫ 

・開花:2月~3月上旬

寒さのため開花が遅れました。

今が見ごろです。

・球根の数:1万~2万 

 

*連休は良いお天気にめぐまれ、当寺は水仙の花を観賞する参詣者でにぎわいました。今年はなかなか咲かなかったのですがようやく見ごろとなりました。いま境内には花の香りがただよっています。石ぼとけさまが花に囲まれほほえんでおられます。夕方まではお天気も持ちそうですが夜には雨です。

「ならさかの いしのほとけの おとかひに

        こさめなかるる はるはきにけり」八一

 

〔短歌〕

「このままに 真冬をとほす 常盤木の

         葉は青ぐろく ぢぢむさくあるも」

           木下利玄・一路

〔俳句〕

「水仙の 香りが留守の 家守る」柴田正子

〔和歌〕

「ここのへや 玉しく庭に むらさきの

         袖をつらぬる 千代の初春」

           皇太后宮大夫俊成・風雅2

「ここ、宮中では。球を敷きつめたような美しい庭に、紫色の位袍の袖を連ねて公卿殿上人が立ち並んでいる。それこそは千年も変わらない初春の、めでたい光景だ。」

・ここのへ=九重。宮中。皇居。

・むらさきの袖=束帯の袍の袖。衣服令により、古く一位深紫、二・三位朝紫、四位深緋以下の位袍の定めがあったが、10世紀末頃から、四位以上は紫になぞらえて黒を用いるように変化した。これを文飾としては「紫の袖」という。

 

*『平家物語』を読む。

「三草合戦」(みくさがつせん)の段、

 三草山の西には資盛(すけもり)が三千余騎を率いて陣取っていたが、義経はただちに夜討ちによって打ち破った。

「 平家の方にはその夜夜討に寄せんずるをば知らずして、〈いくさは定めて明日のいくさであらんずらん。いくさにもねぶ(眠)たいは大事のことぞ。よう寝ていくさせよ〉とて、先陣はをのづから用心するもありけれども、後陣のもの共、或は甲を枕にし、或は鎧の袖・ゑびらなどをまくらにして、前後もしらずぞふしたりける。夜半ばかり、源氏一万騎おしよせて、時をどッとつくる。平家の方にはあまりにあはてさはいで、弓とるものは矢をしらず、矢をとるものは弓をしらず、馬にあてられじと、なかをあけてぞとほしける(敵の馬に蹴られまいとして、中を開けて馬を通した)。源氏は落ち行くかたきをあそこにおッかけ、ここにおッつめせめければ、平氏の軍兵やにわに五百余騎うたれぬ。手おふものどもおほかりけり。大将軍小松の新三位中将・同少将・丹後侍従、面目なうや思はれけん、播磨国高砂より船にのッて、讃岐の八嶋へ渡り給ひぬ。備中守は平内兵衛・海老次郎を召し具して、一谷へぞまいられける。」

「老馬」(らうば)の段、

「 大臣殿は安芸右馬助能行(よしゆき)を使者で、平家の君達(きんだち)のかたがたへ、〈九郎義経こそ三草の手を責めおと(落)ひて、すでにみだれ入り候なれ。山の手は大事に候。おのおの向かはれ候へ。〉との給ひければ、みな辞し申されけり。能登殿(能登守教経)のもとへ〈たびたびの事で候へども、御へん向かはれ候ひなんや〉との給ひつかはされたりければ、能登殿の返事には、〈いくさをばわが身ひとつの大事ぞと思ふてこそよう候へ(戦というものは、我が身にとっての一大事だと真剣に考えて、初めて立派になしとげられるのです)。かり(狩)すなどり(漁)なンどのやうに、足だち(足の立つ所、足場)のよからう方へは向かはん、悪しからう方へは向かはじなンど候はんには、いくさに勝つ事よも候はじ。いくたびでも候へ、こはからう方(手ごわい方)へは教経うけ給はッてむかひ候はん。一方ばかりはうちやぶり候べし。御心やすうおぼしめされ候へ〉と、たのもしげにぞ申されける。大臣殿なのめならず悦びて、越中前司盛俊を先として、能登殿に一万余騎をぞつけられける。兄の越前三位通盛卿あひぐして山の手をぞかため給ふ。」

 (つづく)

 

*秋艸道人、会津八一先生の歌集より、奈良愛惜の歌。

『山光集』

〈歌碑 昭和十七年四月〉

「いしぶみに きざめるうたは みほとけの

         にはにはべりて のちのよもみむ」

『鹿鳴集』

〈東京にかへるとて〉

「あをによし ならやまこへて さかるとも

         ゆめにしみえこ わかくさのやま」

〈東京にかへりて後に〉

「ならやまを さかりしひより あさにけに

         みてらみほとけ おもかげにたつ」

 「夢にまで見える若草山」「面影にたつ御寺御仏」はいつまでもたいせつに残しておきたいものです。

 

*今、若草山の北麓、浄瑠璃寺や正倉院、東大寺、春日山に近い「中ノ川・東鳴川」に奈良市のごみ焼却場を建設するというとんでもない計画があります。ここに焼却場ができ、高い煙突から煙が吐き出されることになれば、日本の宝、世界の宝である神聖な古都の風景と文化財が破壊されます。

悠久の大和、奈良の山々は日本人の心のふるさと、国のまほろばです。

 

「やまとは 国のまほろば たたなづく

青垣やまごもれる やまとしうるはし」

  日本武尊(やまとたけるのみこと)・古事記

 

この問題を詳しく知りたい方は、

ホームページ『奈良市クリーンセンター建設計画に関する課題について』をご覧ください。本計画の問題点が的確にまとめられています。Img_1638

Dsc01108

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年2月11日 (月)

般若寺 水仙花だより  2・11

 

◎水仙: ≪見ごろ:八分咲き≫ 

・開花:2月~3月上旬

寒さのため開花が遅れました。

今が見ごろです。

・球根の数:1万~2万 

 

*今日は当寺の近くで「奈良市民マラソン大会」があります。周辺の道路は交通規制がありますのでご注意ねがいます。発着は鴻ノ池陸上競技場で「なら山大通り」を往復する5キロのコースです。910分スタートで10時ごろまでの予定だそうです。今は全国的にマラソン大会が盛んで毎週どこかでやっています。なら山のコースは短いですが、起伏に富んでいるから結構きつい走りだと思います。いにしえの平城山を東西に行き来することになります。子どもから高齢者まで何千人と走られるようですからさぞや壮観な景色になるでしょう。皆さん頑張ってください。

 

〔短歌〕

「胴体を 波に深くしずめ 軍艦の

       取りつくしまもなく 横たはりゐる」

         木下利玄・一路

〔俳句〕

「まつすぐな 葉の囲み咲く 水仙花」宮本道子

〔和歌〕

「世ははやも 春にしあれや 足曳の

         山べのどけみ 霞たなびく」

           新院御製(後伏見院)・玉葉8

「世間は早くもすっかり春なのだなあ。山のあたりをいかにものどかに感じさせるように、霞がたなびいている。」

 

*『平家物語』を読む。

「三草勢揃」の段、

「 さるほどに、小松の三位中将維盛卿は年へだたり日かさなるに隨ひて、ふるさとにとどめおき給ひし北方、おさなき人々の事をのみなげきかなしみ給ひけり。商人のたよりに、をのづから文なンどのかよふにも、北方の宮この御ありさま、心ぐるしうきき給ふに、さらばむかへとッて一ところでいかにもならばやとは思へども、わが身こそあらめ、人のためいたはしくてなンどおぼしめし、しのびてあかしくらし給ふにこそ、せめての心ざしのふかさの程もあらはれけれ。(じっとがまんして明かし暮らしておられるのには、かえって切ない御愛情の深い有様が表面に現れて、人にもそれと分かるのであった。)

 さる程に、源氏は四日よ(寄)すべかりしが、故入道相国の忌日と聞いて、仏事をとげさせんがためによせず。五日は西ふさがり、六日は道忌日(だうきにち、正しくは道虚日[どうこにち]。陰陽道で外出を嫌う日、毎月一日・六日・十二日・十八日・二十四日・晦日がそれである。)、七日の卯剋に、一の谷の東西の木戸口にて源平矢合とこそさだめけれ。さりながらも、四日は吉日なればとて、大手搦手の大将軍、軍兵二手にわかッて都をたつ。大手の大将軍は蒲御曹司範頼、相伴なふ人々、武田太郎信義・・・・・・・、侍大将には梶原平三景時・嫡子源太景季・・・・・・・・、都合其勢五万余騎、四日の辰の一点に都をたッて、其日申酉の剋に摂津国昆陽野(今の兵庫県伊丹市付近)に陣をとる。搦手の大将軍は九郎御曹司義経、同じく伴ふ人々、安田三郎義貞・大内太郎維義・・・、侍大将には土肥次郎実平・子息弥太郎遠平・・・・・・・熊谷次郎直実・・・・・武蔵坊弁慶を先として、都合其勢一万余騎、同日(おなじひ)の同時(おなじとき)に都をたッて丹波路にかかり、二日路を一日にうッて(馬で進み)、播磨と丹波のさかひなる三草(みくさ)の山(兵庫県の多紀郡と加東郡との境にある山)の東(ひんがし)の山口に、小野原(今、兵庫県多紀郡今田[こんだ]村に属す)にこそつきにけれ。」

 (この段終わり)

 

*秋艸道人、会津八一先生の歌集より、奈良愛惜の歌。

『山光集』

〈歌碑 昭和十七年四月〉

「かきもとの これのいしぶみ たまたまに

         あひしるひとの みつつしぬばむ」

『鹿鳴集』

〈東京にかへるとて〉

「あをによし ならやまこへて さかるとも

         ゆめにしみえこ わかくさのやま」

〈東京にかへりて後に〉

「ならやまを さかりしひより あさにけに

         みてらみほとけ おもかげにたつ」

 「夢にまで見える若草山」「面影にたつ御寺御仏」はいつまでもたいせつに残しておきたいものです。

 

*今、若草山の北麓、浄瑠璃寺や正倉院、東大寺、春日山に近い「中ノ川・東鳴川」に奈良市のごみ焼却場を建設するというとんでもない計画があります。ここに焼却場ができ、高い煙突から煙が吐き出されることになれば、日本の宝、世界の宝である神聖な古都の風景と文化財が破壊されます。

悠久の大和、奈良の山々は日本人の心のふるさと、国のまほろばです。

 

「やまとは 国のまほろば たたなづく

青垣やまごもれる やまとしうるはし」

  日本武尊(やまとたけるのみこと)・古事記

 

この問題を詳しく知りたい方は、

ホームページ『奈良市クリーンセンター建設計画に関する課題について』をご覧ください。本計画の問題点が的確にまとめられています。Img_1656

Img_1642

Img_1640

Img_1644

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年2月10日 (日)

般若寺 水仙花だより  2・10

 

◎水仙: ≪見ごろ:八分咲き≫ 

・開花:2月~3月上旬

寒さのため開花が遅れました。

今が見ごろです。

・球根の数:1万~2万 

 

*晴、けさも冷え込みましたが昼間は少し暖かくなりそうです。

 水仙の花は八分ていど咲いてきてあと少しで満開になりそうです。花はなんでもそうですが満開の一歩手前が一番きれいです。ことに水仙は花とともに匂いが魅力です。花からあたり一帯に甘くかぐわしい香りが立ちこめてきます。風があったらだめですが、今日は無風状態ですから絶好の日和です。

 ほかに遅れていたサザンカが満開、ワビスケ、ロウバイ、梅などが咲き出しています。早春の平城山を御散策ください。

 

〔短歌〕

「せせらぎの 音するところに 来かかりしが 

         また遠退(とほぞ)きて わが夜道すも」

           木下利玄・一路

〔俳句〕

「水仙の 萎ゆるも散れぬ さだめかな」中村華好

〔和歌〕

「鳥の声 松のあらしの をともせず

       山しづかなる 雪のゆう暮」

         永福門院・風雅826

「(いつもは聞える)鳥の声も、松の嵐の音もしない。全山、静寂に深く包まれた、雪の夕暮よ。」

 

*『平家物語』を読む。

「三草勢揃」の段、

「 大外記中原師直が子、周防介師純、大外記になる。兵部少輔正明、五位蔵人になされて蔵人少輔とぞいはれける。昔将門が東八ヶ国をうちしたがへて、下総国相馬郡に都をたて、我身を平親王(へいしんわう)と称して、百官をなしたりしには、暦博士ぞなかりける。是はそれには似るべからず。旧都をこそ落ち給ふといへども、主上三種の神器を帯して、万乗の位(ばんぜう、天子の位。天子は兵車万乗を出すとされる)にそなはり給へり。叙位除目おこなはれんも僻事(ひがごと、まちがったことではない)にはあらず。

 平氏すでに福原まで攻めのぼッて、都へかへり入るべきよしきこえしかば、故郷にのこりとどまる人々いさみよろこぶ事なのめならず。二位僧都全真は、梶井宮(梶井円徳院の門跡で当時は承仁法親王がこの地位にあった。円徳院は坂本にあったが、後に大原に移り明治以後三千院と称す)の年来(としごろ)の御同宿(ごどうじゅく、同じ寺に住み師について学ぶこと、またその僧侶)なりければ、風のたよりには申されけり(何かのついでには手紙を差し上げていた)。宮よりも又つねは御音づれありけり。〈旅の空のありさまおぼしめしやるこそ心ぐるしけれ。(想像しただけでもお気の毒です)都もいまだしづまらず〉なンどあそばひて、おくには一首の歌ぞありける。

 〈人しれず そなたをしのぶ こころをば

かたぶく月に たぐへてぞやる〉

(人に知られぬようにひそかに貴地に思いを馳せる私の心を西の方にかたむく月に伴わせてやりたいものです。新古今集十八にみえる。)

 僧都これをかほにをしあてて、かなしみの泪せきあえず。

 (つづく)

 

*秋艸道人、会津八一先生の歌集より、奈良愛惜の歌。

『山光集』

〈歌碑 昭和十七年四月〉

「しもくぼの いしやがさくら はるたけて

         いしのくだけと ちりまがひけむ」

『鹿鳴集』

〈東京にかへるとて〉

「あをによし ならやまこへて さかるとも

         ゆめにしみえこ わかくさのやま」

〈東京にかへりて後に〉

「ならやまを さかりしひより あさにけに

         みてらみほとけ おもかげにたつ」

 「夢にまで見える若草山」「面影にたつ御寺御仏」はいつまでもたいせつに残しておきたいものです。

 

*今、若草山の北麓、浄瑠璃寺や正倉院、東大寺、春日山に近い「中ノ川・東鳴川」に奈良市のごみ焼却場を建設するというとんでもない計画があります。ここに焼却場ができ、高い煙突から煙が吐き出されることになれば、日本の宝、世界の宝である神聖な古都の風景と文化財が破壊されます。

悠久の大和、奈良の山々は日本人の心のふるさと、国のまほろばです。

 

「やまとは 国のまほろば たたなづく

青垣やまごもれる やまとしうるはし」

  日本武尊(やまとたけるのみこと)・古事記

 

この問題を詳しく知りたい方は、

ホームページ『奈良市クリーンセンター建設計画に関する課題について』をご覧ください。本計画の問題点が的確にまとめられています。Img_1634

Img_1594

Img_1592

Img_1636

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年2月 9日 (土)

般若寺 水仙花だより  2・9

 

◎水仙: ≪見ごろ:七分咲き≫ 

・開花:2月~3月上旬

寒さのため開花が遅れました。

今が見ごろです。

・球根の数:1万~2万 

 

*晴、少し曇っています。きのうの冷たい風はおさまったようです。きのうは時折突風のような強い風が吹いていました。風があると野外で長く居れません。顔や手がかじかんできて体温が奪われていくのがよく分かります。

北国の海風や山おろしのからっ風の強い所は本当に厳しいですね。昔行った能登半島の海岸での絶間ない海風は今でも記憶に生々しいです。また東北の奥羽山脈の東側では「地ふぶき」と呼ばれる強風があるので道路端には暴風壁がつくられるそうです。春に訪れた時は外されていましたが、真冬にはこれがないと自動車が転倒してしまうと、地元の方のお話でした。日本列島は長いのでもう春が来ているところもあれば極寒の地もあります。あと少し、寒さに耐えて行きましょう。

 

〔短歌〕

「夜さむ道 向うにきこえそめし せせらぎに

        歩みは近より 音のところを通る」

          木下利玄・一路

〔俳句〕

「針月の 匂ひこぼせり 水仙花」柿沼盟子

〔和歌〕

「いつしかも かすみにけらし みよしのの

         やまだふる年の 雪もけなくに」

           前関白太政大臣(鷹司基忠)

「もう早速に霞んでしまったようだよ。ここ、吉野山では、まだ去年降り積もった雪も消えないというのに。」

・いつしかも=早速にも。

・みよしの=大和の枕詞、吉野山。雪と桜の名所。

・ふる年=旧年。昨年。「ふる」は「雪」の縁語。

 

*『平家物語』を読む。

「六ヶ度軍」(ろっかどのいくさ)の段、

 源氏に味方をする阿波讃岐の者どもが備前の平家を襲い、逆に能登守教経(のりつね)のために敗れた。

 伊予の河野道信(みちのぶ)は安芸の沼田次郎と呼応して平家に反抗したが、沼田は平家に降った。

 淡路紀伊豊後なども平家に従わないが、中国地方は大体平家の勢力下にあった。

「三草勢揃」(みくさせいぞろへ)の段、

「 (寿永四年)正月二十九日、範頼・義経院参して、平家追討のために西国へ発向すべきよし奏聞しけるに、〈本朝には神代よりつたはれる三つの御宝あり。内侍所(神鏡)・神璽・宝剣これ也。相構て事ゆへなく返し入れたたまつれ(よく注意して、事故を起こさないで、神器を都へ戻し入れ申上げよ)〉と仰せ下さる。両人かしこまりうけ給はッてまかり出でぬ。

 同二月四日、福原には、故入道相国に忌日とて、仏事形の如くおこなはる。朝夕のいくさだちに(戦場に出かけること)、過ぎ行く月日はしらねども、こぞ(去年)は今年に廻りきて、う(憂)かりし春にも成りにけり。世の世にてあらましかば(時世が彼らの自由になるものであったならば)いかなる起立塔婆(故人の供養に卒塔婆を立てること)のくはたて、供佛施僧(仏に物を供え、僧に物を施すこと)のいとなみもあるべかりしか共、ただ男女の君達(きんだち)さしつどひて泣くより外の事ぞなき。其次(つい)でに叙位除目おこなはれて、僧も俗もみな司なされけり。(官位の昇進をしてもらった。このことだけが清盛への供養のための唯一の行事だったのである。)門脇中納言(教盛)、正二位大納言に成り給ふべきよし、大臣殿(おおいとの)より仰せられければ、

教盛卿、

   〈けふまでも あればあるかの わが身かは

        夢のうちにも 夢をみるかな〉

(我身は本来今日まで無事に生き長らえていられる身であったろうか。生き長らえたのがすでに夢のようなものである。この際もし官位を昇進させていただいても、それこそ夢の中で夢を見るような空しいものである。『千載集』慈円の歌〈旅の世にまた旅寝して草枕 夢の中にも夢を見るかな〉に拠っている。)

と御返事申させ給ひて、遂に大納言にもなり給はず。」

 (つづく)

 

*秋艸道人、会津八一先生の歌集より、奈良愛惜の歌。

『山光集』

〈歌碑 昭和十七年四月〉

「たがねうつ いしのひびきに みだれとぶ

         ひばなのすゑに なりいでにけむ」

『鹿鳴集』

〈東京にかへるとて〉

「あをによし ならやまこへて さかるとも

         ゆめにしみえこ わかくさのやま」

〈東京にかへりて後に〉

「ならやまを さかりしひより あさにけに

         みてらみほとけ おもかげにたつ」

 「夢にまで見える若草山」「面影にたつ御寺御仏」はいつまでもたいせつに残しておきたいものです。

 

*今、若草山の北麓、浄瑠璃寺や正倉院、東大寺、春日山に近い「中ノ川・東鳴川」に奈良市のごみ焼却場を建設するというとんでもない計画があります。ここに焼却場ができ、高い煙突から煙が吐き出されることになれば、日本の宝、世界の宝である神聖な古都の風景と文化財が破壊されます。

悠久の大和、奈良の山々は日本人の心のふるさと、国のまほろばです。

 

「やまとは 国のまほろば たたなづく

青垣やまごもれる やまとしうるはし」

  日本武尊(やまとたけるのみこと)・古事記

 

この問題を詳しく知りたい方は、

ホームページ『奈良市クリーンセンター建設計画に関する課題について』をご覧ください。本計画の問題点が的確にまとめられています。Img_1583

Img_1553

Dsc01083

Dsc01085

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年2月 8日 (金)

般若寺 水仙花だより  2・8

 

◎水仙: ≪見ごろ:七分咲き≫ 

・開花:2月~3月上旬

寒さのため開花が遅れました。

今が見ごろです。

・球根の数:1万~2万 

 

*晴、しかし寒いです。ここしばらくは寒の戻りで寒い日がつづきます。この時期は三寒四温のお天気になり春は行きつ戻りつです。奈良ではまだこれから東大寺二月堂の「お水取り」があります。この行法が終わらないと本当の春にはなりません。錬行衆の方々のご健勝をお祈りいたします。

 

〔短歌〕

「冬丘の 萱生(かやふ)地肌の 雨じめり

夕日長きに 踏みのぼり見ゆ 」

      木下利玄・一路

〔俳句〕

「水仙の 芯の強さの 匂ひけり」白井墨絵

〔和歌〕

「降るままに ひばらもいとど こもりえの

         はつせの山は 雪つもるらし」

           民部卿為定・風雅825

「降るにつれて、檜原もいよいよ〈こもり江〉の名にふさわしくかくれてしまい、初瀬の山はしんしんと雪が積るようだ。」

・ひばらもいとど=「初瀬」の枕詞「こもりえ」(こもりくの訛、山の中にこもた所)をかけて、ただでさえ人目に立たぬ場所の檜原がますます雪に埋もれてかくれる、とする趣向。

 

*『平家物語』を読む。

「樋口被討罰」(ひぐちのきられ)の段、

 今井兼平の兄、樋口兼光は紀伊國から都に引き返す途中で義仲の戦死を知り、最後の一戦を試みた。彼は児玉党に勧められて降参したが、公家に対する評判が悪く死罪に決まった。

 都ではまた政変。兼光は範頼、義経らの助命運動もむなしく、ついに切られた。そのころ平家は讃岐から摂津に渡り、十万余騎を擁して旧都福原に拠った。

 

「 平家はこぞの冬の比より、讃岐国八嶋の磯を出でて、摂津国難波潟へをしわたり、福原の旧都に居住して、西は一の谷を城郭に構へ、東は生田の森を大手の木戸口とぞさだめたる。其内福原・兵庫・板屋ど・須磨にこもる勢、これは山陽道八ヶ国、南海道六ヶ国、都合十四ヶ国をうちしたがへてめさるるところの軍兵也。十万余騎とぞ聞えし。一谷は北は山、南は海、口はせばくて奥ひろし。岸たかくして屏風をたてたるにことならず。北の山ぎはより南の海の遠浅まで、大石をかさねあげ、大木を切って逆茂木に引き、深きところには大船どもをそばだてて、かいだて(垣楯)にかき、城の面の高矢倉には、一人当千ときこゆる四国鎮西の兵(つはもの)共、甲冑弓箭を帯して、雲霞の如くになみ居たり。矢倉のしたには、鞍置馬共十重二十重にひッたてたり。つねに太鼓をうッて乱声(鐘や太鼓を乱れ打つこと)をす。一張の弓のいきおひは半月胸のまへにかかり、三尺の剣の光は秋の霜腰の間に横だへたり。高きところには赤旗おほくうちたてたれば、春風に吹かれて天に飜るは、火炎のもえあがるにことならず。」

 (この段終わり)

 

*秋艸道人、会津八一先生の歌集より、奈良愛惜の歌。

『山光集』

〈歌碑 昭和十七年四月〉

「いしきりの のみのひびきの いくひありて

         いしにいりけむ あはれわがうた」

『鹿鳴集』

〈東京にかへるとて〉

「あをによし ならやまこへて さかるとも

         ゆめにしみえこ わかくさのやま」

〈東京にかへりて後に〉

「ならやまを さかりしひより あさにけに

         みてらみほとけ おもかげにたつ」

 「夢にまで見える若草山」「面影にたつ御寺御仏」はいつまでもたいせつに残しておきたいものです。

 

*今、若草山の北麓、浄瑠璃寺や正倉院、東大寺、春日山に近い「中ノ川・東鳴川」に奈良市のごみ焼却場を建設するというとんでもない計画があります。ここに焼却場ができ、高い煙突から煙が吐き出されることになれば、日本の宝、世界の宝である神聖な古都の風景と文化財が破壊されます。

悠久の大和、奈良の山々は日本人の心のふるさと、国のまほろばです。

 

「やまとは 国のまほろば たたなづく

青垣やまごもれる やまとしうるはし」

  日本武尊(やまとたけるのみこと)・古事記

 

この問題を詳しく知りたい方は、

ホームページ『奈良市クリーンセンター建設計画に関する課題について』をご覧ください。本計画の問題点が的確にまとめられています。

Img_1571

Img_1561

Img_1563

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年2月 7日 (木)

般若寺 水仙花だより  2・7

 

◎水仙: ≪見ごろ:七分咲き≫ 

・開花:2月~3月上旬

寒さのため開花が一か月ほど遅れています。

これからが見ごろです。

・球根の数:1万~2万 

 

*滋賀県大津市に「義仲寺」(ぎちゅうじ)という小じんまりと愛らしいお寺があります。ここは名の通り木曽義仲の墓所があるお寺です。義仲は平家追討に兵をあげ京都へ入りました。しかし鎌倉の頼朝の命を受けた範頼、義経の軍勢に敗れ、大津の粟津の浜(あわづのはま)で討死します。付き従った唯一人の家臣、今井兼平は主に殉じて壮絶な自害を遂げます。今日のブログ「平家物語を読む」はその話です。

義仲の終焉の地は膳所のあたりの浜辺であったそうですが、墓は義仲寺の境内に古びた立派な宝篋印塔があります。寺の伝説では巴御前が尼となって墓を守っていたとされ、墓を木曽塚といい、寺を無名庵、巴寺とも言ったそうです。        室町時代に国守佐々木氏が再建し、俳聖芭蕉は木曽殿を慕い逗留したこともあり、いくつかの句を残しています。

「木曽の情 雪や生ぬく 春の草」芭蕉

芭蕉は元禄7年大阪で示寂した後、遺言により義仲寺の木曽塚の隣に葬られました。弟子又玄の句に、

「木曽殿と 背中合わせの 寒さかな」又玄

ちなみに木曽義仲は寿永3年(1184120日に享年31歳で亡くなっています。義仲寺には朝日将軍の名にちなんだ「朝日堂」に義仲、義高父子の木像、忠臣今井兼平のお位牌がまつられています。

 般若寺の鎌倉期中興上人の御一人、叡尊興正菩薩は義仲公の子孫とされ、一族の末裔は義仲の一字をとり「仲氏」を名乗っておられ、上人誕生の地大和郡山市白土町に健在です。

 

〔短歌〕

「この頃にて 長くなりたる 夕日あたり

         あかくしめらひ 見のしづけさや」

           木下利玄・一路

〔俳句〕

「水仙の 浜雨情立ち 夢二立つ」田中藤穂

〔和歌〕

「はる霞 かすみなれたる けしきかな

       むつきもあさき 日数と思ふに」

         従三位為子・玉葉6

「春霞はまあ、まるで霞むのには馴れ切っていますという様子だね。正月(陰暦、今の二月)になってまだ何程もたっていない日数だというのに。」

 

*『平家物語』を読む。

「木曽最期」の段、

「 今井四郎只一騎、五十騎ばかりが中へかけ入り、あぶみふンばりたちあがり、大音声あげて名のりけるは、〈日ごろは音にもききつらん、今は目にも見給へ、木曽殿の御めのと子、今井四郎兼平、生年三十三にまかりなる。さるものあるとは(そういう者が木曽殿の部下にあるとは)鎌倉殿までもしろしめされたるらんぞ。兼平うッて見参にいれよ(頼朝が御覧に入れよ)〉とて、ゐのこしたる八すじの矢を、さしつめ引きつめさんざんに射る。死生はしらず、やにわにかたき八騎ゐおとす。其後打物ぬいてあれに馳せあひ、これに馳せあひ、きッてまはるに、面をあはするものぞなき(正面から立ち向かえる者がない)。分どり(敵の武器などを奪うこと)あまたしたりけり。只〈ゐとれや〉とて、中にとりこめ、雨のふる様にゐけれども、鎧よければ裏かかず(裏まで通らない)、あき間をゐねば手もおはず(よろいのすき間を射ないから傷も受けない)。

 木曽殿は只一騎、粟津の松原へかけ給ふが、正月二十一日入相ばかりの事なるに(日没のころであった上に)、うす氷ははッたりけり、深田ありとも知らずして、馬をざッと打ち入れたれば、馬のかしらも見えざりけり(馬がもぐって頭も見えなくなってしまた)。あおれどもあおれども、うてどもうてどもはたらかず(いくらあぶみで馬の腹をあおっても、鞭で打っても、馬は動かない)。今井が行方のおぼつかなさに、ふりあふぎ給へるうち甲(かぶとの内側)を、三浦の石田次郎為久、おッかかッて(追いかかりて、追いついて)よッぴゐて(よく引いて)ひやう(矢が飛ぶ音)ふつ(物に当たる音)とゐる。いた手(致命傷)なれば、まッかう(真向まあは真甲、甲の鉢の前面)を馬のかしらにあててうつぶし給へる処に、石田の郎党二人落ちあふて、つゐに木曽殿の頸をばとッてんげり。太刀の先に貫き、高くさしあげ、大音声をあげて、〈この日来日本国に聞えさせ給ひつる木曽殿を、三浦の石田次郎為久がうち奉りたるぞや〉と名のりければ、今井四郎いくさしけるが、是をきき、〈いまはたれをかばはんとてかいくさをばすべき(誰を守るために戦をする必要があろうか)。是を見給へ、東国の殿原、日本一の甲の者(剛の者)の自害する手本〉とて、太刀のさきを口に含み、馬よりさかさまにとび落ち、つらぬ(貫)かッてぞう(失)せにける。さてこそ粟津のいくさはなかりけれ。(それで結局、粟津の合戦と名付けるような華々しいものはなかったのである)」

 (この段終わり)

 

*秋艸道人、会津八一先生の歌集より、奈良愛惜の歌。

『山光集』

〈歌碑 昭和十七年四月〉

「いしきりの いかなるをぢか わがうたを

         くちずさみつつ ほりつぎにけむ」

『鹿鳴集』

〈東京にかへるとて〉

「あをによし ならやまこへて さかるとも

         ゆめにしみえこ わかくさのやま」

〈東京にかへりて後に〉

「ならやまを さかりしひより あさにけに

         みてらみほとけ おもかげにたつ」

 「夢にまで見える若草山」「面影にたつ御寺御仏」はいつまでもたいせつに残しておきたいものです。

 

*今、若草山の北麓、浄瑠璃寺や正倉院、東大寺、春日山に近い「中ノ川・東鳴川」に奈良市のごみ焼却場を建設するというとんでもない計画があります。ここに焼却場ができ、高い煙突から煙が吐き出されることになれば、日本の宝、世界の宝である神聖な古都の風景と文化財が破壊されます。

悠久の大和、奈良の山々は日本人の心のふるさと、国のまほろばです。

 

「やまとは 国のまほろば たたなづく

青垣やまごもれる やまとしうるはし」

  日本武尊(やまとたけるのみこと)・古事記

 

この問題を詳しく知りたい方は、

ホームページ『奈良市クリーンセンター建設計画に関する課題について』をご覧ください。本計画の問題点が的確にまとめられています。Img_1560

Img_1575

Img_1582

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年2月 6日 (水)

般若寺 水仙花だより  2・6

 

◎水仙: ≪見ごろ:七分咲き≫ 

・開花:2月~3月上旬

今年は寒さのため開花が一か月ほど遅れました。

これからが見ごろです。

・球根の数:1万~2万 

 

*きのうの天気予報ははずれ、積雪五センチが雨となってしまいました。夕方から一時間かけて作った雪よけネットが無駄になりました。朝からその片づけにかかります。自然現象を予測するのはむつかしいですね。農家の方の御苦労がよくわかります。冬の間は霜、強風、雪などに悩まされます。しかし雪があってこそ春が来るし、水の補給になります。季節が順調にうつることを佛天の御加護と感謝しましょう

 

〔短歌〕

「寒あけの 雨後おもき くもり空

        大地の凍ては あまねくとけつ」

          木下利玄・一路

〔俳句〕

「水仙花 主のをらぬ 館かな」三崎由紀子

〔和歌〕

「ゆくさきは 雪のふぶきに とぢこめて

         雲に分けいる 志賀の山ごえ」

           前大納言為兼・風雅822

「行く方向は、(花吹雪ならぬ)雪の烈しい吹き降りにとじこめられて全く見えず、さながら雲の中に分け行って行くような、志賀の山越えの道よ。」

・志賀の山ごえ=京都の北白河から如意が峯を越え、近江崇福寺へ出る道。花吹雪が賞される。

 

*『平家物語』を読む。

「木曽最期」の段、

「 今井四郎、木曽殿、只主従二騎になッての給ひけるは、〈日ごろはなにともおぼえぬ鎧が、けふはおも(重)うなッたるぞや〉。今井四郎申しけるは、〈御身も未だつか(疲)れさせ給はず、御馬も弱り候はず。なにによッてか一両の御きせなが(両は領とも書き、よろいなどを数える時に用いる。着背長はよろいの別称、特に大将が着る場合に用いる)をおもうは思し召し候べき。それは御方に御勢が候はねば、臆病でこそさはおぼしめし候へ(きっと気落ちがして、そうお思いになるのでしょう。)兼平一人候とも(たとえ一人なりとも)、余の武者千騎とおぼしめせ。矢七八候へば、しばらくふせぎ矢仕らん。あれに見え候、粟津の松原と申す(そこにみえるのが粟津の松原というのです、大津市膳所付近)。あの松原の中で御自害候へ〉」とて、うッて行程に、又新手の武者五十騎ばかりい出きたり。〈君はあの松原へ入らせ給へ。兼平は此の敵防ぎ候はん〉と申しければ、木曽殿の給ひけるは、〈義仲宮こにていかにもなるべかりつるが(命を落とすべきであったが)、これまでのがれくるは、汝と一所で死なんとおもふため也。ところどころでうたれんよりも、ひとところでこそ打死にをもせめ〉とて、馬の鼻をならべて駈けんとし給へば、今井四郎馬より飛び降り、主の馬の口にとりつゐて申しけるは、〈弓矢とりは年来(としごろ)日来(ひごろ)いかなる高名候へども、最後の時不覚しつればながき疵にて候也。御身は疲れさせ給ひて候。続く勢は候はず。敵にをし隔てられ、いふかひなき人の郎党(とるに足りない誰かの家来。)にくみおとされさせ給ひて、うたれさせ給ひなば、[さばかり日本国にきこえさせ給ひつる木曽殿をば、それがしが郎党の討ちたてまッたる]なンど申さん事こそ口惜しう候へ。ただあの松原へいらせ給へ〉と申しければ、木曽さらばとて、粟津の松原へぞ駈け給ふ。」

 (つづく)

 

*秋艸道人、会津八一先生の歌集『鹿鳴集』より、奈良愛惜の歌。

〈山光集・歌碑 昭和十七年四月

「ちかづきて あふぎみれども みほとけの 

みそなはすとも あらぬさびしさ」

といふは新薬師寺香薬師を詠みしわが旧作なりちか頃ある人の請に任せて自らこれを書しこれを石に刻ましめその功もまさに畢りたれば相知る誰彼を誘ひ行きてこれを堂前に立てむとするに遽に病を獲て発するを得ずたまたま寺僧の拓して送れる墨本を草慮の壁上にかかげしめわづかにその状を想像して幽悶をなぐさむるのみいよいよ感応の易からざるをさとれり。

「めぐりゐて ともとわがみる まなかひに

         いしぶみあをく あらはれたつも」

〈東京にかへるとて〉

「あをによし ならやまこへて さかるとも

         ゆめにしみえこ わかくさのやま」

〈東京にかへりて後に〉

「ならやまを さかりしひより あさにけに

         みてらみほとけ おもかげにたつ」

 「夢にまで見える若草山」「面影にたつ御寺御仏」はいつまでもたいせつに残しておきたいものです。

 

*今、若草山の北麓、浄瑠璃寺や正倉院、東大寺、春日山に近い「中ノ川・東鳴川」に奈良市のごみ焼却場を建設するというとんでもない計画があります。ここに焼却場ができ、高い煙突から煙が吐き出されることになれば、日本の宝、世界の宝である神聖な古都の風景と文化財が破壊されます。

悠久の大和、奈良の山々は日本人の心のふるさと、国のまほろばです。

 

「やまとは 国のまほろば たたなづく

青垣やまごもれる やまとしうるはし」

  日本武尊(やまとたけるのみこと)・古事記

 

この問題を詳しく知りたい方は、

ホームページ『奈良市クリーンセンター建設計画に関する課題について』をご覧ください。本計画の問題点が的確にまとめられています。Img_1547_2

Img_1551

Img_1550

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年2月 5日 (火)

般若寺 水仙花だより  2・5

 

◎水仙: ≪五分咲き≫ 

・開花:2月~3月上旬

今年は寒さのため開花が遅れていましたが、

ようやく見ごろになってきました。

・球根の数:1万~2万 

 

*今朝はくもり空、それほど寒くはないですが冬空に戻っています。天気予報では今晩は雪になるそうです。この辺でも5センチの積雪予想です。

 水仙の花はようやく見ごろになってきました。花に雪はつらいです。積もれば花を押さえるので養生してやる必要があります。夕方から枠を立て黒いネットをかぶせますので景色が変わってしまうと思いますが、いっときのことなのでご辛抱願います。

明日の雪景色を楽しみにしてください。念のため足元ご用心ください。

 

〔短歌〕

「これはこれ 櫟(くぬぎ)の立木 枝わかれ

         細かき梢(うれ)の 冬空させる」

           木下利玄・一路

〔俳句〕

「水仙の 匂ひも描く つもりなり」泉田秋硯

〔和歌〕

「春きぬと おもひなしぬる 朝けより

        空も霞の 色になりゆく」

          伏見院御製・玉葉5

「ああ、春が来た、と心に決めたその朝から、空だってほんのりとした霞の色になって行くのだよ。」

・おもひなす=考えて…だと決める。心の働きを示す、京極派好みの表現。

・朝け=「朝明け」の約。

*『平家物語』を読む。

「木曽左馬頭(さまのかみ)、其日の装束には、赤地の錦の直垂に、唐綾おどしの鎧きて、鍬形うッたる甲の緒しめ、いか物づくりのおほ太刀はき、石打(鷲の尾の両端の羽。強いので矢の羽として珍重された)の矢の、其日のいくさに射て少々残ッたるを、かしらだか(頭高)にお(負)いなし(矢を入れたえびらを高目に背負う)、しげどうの弓もッて、きこゆる木曽の鬼葦毛(有名な木曽義仲の馬[おにあしげ]。鬼は強いのでこう名付けられた。葦毛は白に黒または濃褐色の混った毛色)といふ馬の、きはめて太うたくましゐに、黄覆輪の鞍置いてぞのッたりける。あぶみふンばり立ち上がり、大音声をあげて名のりけるは、〈昔はききけん物を、木曽の冠者、今はみるらん、佐馬頭兼伊予守、朝日の将軍源義仲ぞや。甲斐の一條次郎とこそきけ。たがいによい敵ぞ。義仲うッて兵衛佐に見せよや〉とて、おめいてかく。一條次郎、〈只今なのるは大将軍ぞ。あますなもの共、もらすな若党、うてや〉とて、大勢の中に取り籠めて、我うッとらんとぞすすみける。木曽三百余騎、六千余騎が中をたてさま・よこさま・蜘手・十文字に駈けわ(破)ッて、うしろへつッといでたれば、五十騎ばかりになりにけり。そこをやぶッて行くほどに、土肥次郎実平二千余騎でささへたり。其れをもやぶッて行くほどに、あそこででは四五百騎、ここでは二三百騎、百四五十騎、百騎ばかりが中をかけまわりかけまわりゆくほどに、主従五騎にぞなりにける。五騎がうちまでともゑは討たれざりけり。木曽殿〈おのれは疾う疾う、女なればいづちへも行け(お前は女だから早くどこへなりと行け)。我は打死にせんと思ふなり。もし人手にかからば自害をせんずれば(万一人手にかかったら、その時は自害しようと思っているのだから)、木曽殿の最後のいくさに、女を具せられたりけりなンどいはれん事も然るべからず〉との給ひけれ共、猶落ちゆかざりけるが、あまりにいはれ奉りて、〈あッぱれ、よかろうかたきがな(ああ、よい敵がほしい)。最後のいくさしてみせ奉らん(義仲にお見せしよう)〉とて、ひかへたるところに(馬を立てていると、そこのところに)、武蔵国に、聞えたる大ぢから、をん田の八郎師重、三十騎ばかりで出できたり。ともゑそのなかへかけ入り、をん田の八郎におしならべ、むずととッて引き落とし、我が乗ったる鞍の前輪にをしつけて、ちッともはたらかさず(相手を少しも身動きさせず)、頸ねぢきッて捨ててンげり。其の後物の具ぬぎすて、東国の方へ落ちぞ行く。手塚太郎打死にす。手塚の別当落ちにけり。」

 (つづく)

 

*秋艸道人、会津八一先生の歌集『鹿鳴集』より、奈良愛惜の歌。

〈山光集・紅日 昭和十七年三月

        新に召に応ずる人に〉

「いくとせの いのちまさきく このかどに

         きみをしまたむ われおいぬとも」

〈東京にかへるとて〉

「あをによし ならやまこへて さかるとも

         ゆめにしみえこ わかくさのやま」

〈東京にかへりて後に〉

「ならやまを さかりしひより あさにけに

         みてらみほとけ おもかげにたつ」

 「夢にまで見える若草山」「面影にたつ御寺御仏」はいつまでもたいせつに残しておきたいものです。

 

*今、若草山の北麓、浄瑠璃寺や正倉院、東大寺、春日山に近い「中ノ川・東鳴川」に奈良市のごみ焼却場を建設するというとんでもない計画があります。ここに焼却場ができ、高い煙突から煙が吐き出されることになれば、日本の宝、世界の宝である神聖な古都の風景と文化財が破壊されます。

悠久の大和、奈良の山々は日本人の心のふるさと、国のまほろばです。

 

「やまとは 国のまほろば たたなづく

青垣やまごもれる やまとしうるはし」

  日本武尊(やまとたけるのみこと)・古事記

 

この問題を詳しく知りたい方は、

ホームページ『奈良市クリーンセンター建設計画に関する課題について』をご覧ください。本計画の問題点が的確にまとめられています。

Img_1470

Img_1468

Img_1463

Img_1462

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年2月 4日 (月)

般若寺 水仙花だより  2・4

 

◎水仙: ≪五分咲き≫ 

・開花:2月~3月上旬

今年は寒さのため一か月ほど遅れています。

・球根の数:1万~2万 

 

*立春。暖かい朝でした。でもきょうは一日雨模様です。

「さざ波は 立春の譜を ひろげたり」渡辺水巴

「竹の穂の 春立つ光 ふりこぼす」水原秋桜子

おくれていた春の花々が咲き出しました。ロウバイ、福寿草につづいて侘助も咲いています。もちろん水仙、サザンカも見ごろです。立春という暦を聞くだけで気分は明るくなります。長い冬もようやく明けそうです。

 

〔短歌〕

「日の暮の きびしき寒さ ややにゆるび

        空つゆじめる 月夜になりつ」

          木下利玄・一路

〔俳句〕

「出そびれて をり合唱の 水仙花」大槻きみ

〔和歌〕

「旅人の さきだつ道は あまたにて

       跡なきよりも まよふ雪かな」

         藤原為守・風雅820

「旅人の、先立って踏みつけて行った道は諸方に分かれていて、(一体どれをたどって行けば目的地に着けるのか)足跡の全くない白一色、というのよりもかえって迷ってしまう、雪の旅路だなあ。」

 

*『平家物語』を読む。

「木曽最期」(きそのさいご)の段、

「 木曽殿は信濃より、ともゑ(巴)・山吹とて、二人の便女(びんぢよ、美女)を具せられたり。山吹はいたは(労)りあッて(病むところがあって)、都にとどまりぬ。中にもともゑは色白く髪長く、容顔まことにすぐれたり。ありがたきつよ弓(めったにない剛弓を引く者)、精兵、馬のうへ、かちだち。うち物もッては鬼にも神にもあはふどいふ一人当千の兵(つはもの)也。(乗馬していようと、徒歩であろうと、刀剣を持っておれば鬼にでも神にでも立ち向かおうという。)究竟(くッきやう)の荒馬乗り、悪所落し(荒馬に乗れる者、険しい所を下ることができる者)、いくさといへば、さね(鉄又は皮でできたよろいの材料の小板)よき鎧きせ、おほ太刀・つよ弓もあせて、まづ一方の大将にはむけられけり。度々の高名、肩を並ぶるものなし。されば今度も、おほくのものども落ちゆきうたれける中に、七騎が内までともゑはうたれざりけり。

木曽は長坂(京都から丹波国への通路に当たり、北区鷹峰に長坂という地名あり)を経て丹波路へおもくともきこえけり。又龍花越(りうげごへ、北陸街道の京都府と滋賀県との境で、途中越ともいう)にかかッて北国へともきこえけり。かかりしかども、今井が行ゑをきかばやとて、勢田の方へおちゆくほどに、今井四郎兼平も、八百余騎で勢田をかためたりけるが、わづかに五十騎ばかりにうちなされ、旗をばまかせて、主のおぼつかなきに、宮こへとッてかへすほどに、大津の打出の浜にて、木曽殿にゆきあひたてまつる。互になか一町ばかりよりそれと見知ッて、主従駒をはやめてよりあふたり。木曽殿今井が手をとッての給ひけるは、〈義仲六条河原でいかにもなるべかりつれども、、なんぢがゆくへの恋しさに、おほくの敵の中をかけまわッて、是まではのがれたる也〉。今井四郎、〈御諚(ごぢやう、おことば、)まことに忝なう候。兼平も勢田で打死つかまつるべう候つれども、御行えのおぼつかなさに、これまでまいッて候〉とぞ申ける。木曽殿〈契りはいまだくちせざりけり(前世の因縁はまだ尽きていなかった)。義仲が勢は敵にをしへだてられ、山林に馳せちッて、此辺にもあるらんぞ。汝がまかせてもたせたる旗あげさせよ〉との給へば、今井が旗をさしあげたり。京よりおつる勢ともなく、勢田よりおつるものともなく、今井が旗を見つけて三百余騎ぞはせ集まる。木曽大きに悦びて、〈此勢あらばなどか最後のいくさせざるべき。ここにしぐらうで見ゆるはたが手やらん(あそこに密集しているのはだれの軍隊だろう)〉。〈甲斐の一條次郎殿とこそ承り候へ〉。〈勢はいくらほどあるやらん〉。〈六千余騎とこそ聞え候へ〉。〈さてはよい敵(かたき)ござんなれ。おなじう死なば、よかろう敵に駈け合ふて、大勢の中でこそ打死をもせめ〉とて、まッさきにこそすすみけれ。」

(つづく)

 

*秋艸道人、会津八一先生の歌集『鹿鳴集』より、奈良愛惜の歌。

〈山光集・紅日 昭和十七年三月

新に召に応ずる人に〉

「いくとせの おほみいくさを かへりきて

         またよみつがむ いにしへのふみ」

〈南京新唱・東京にかへるとて〉

「あをによし ならやまこへて さかるとも

         ゆめにしみえこ わかくさのやま」

〈南京新唱・東京にかへりて後に〉

「ならやまを さかりしひより あさにけに

         みてらみほとけ おもかげにたつ」

 「夢にまで見える若草山」「面影にたつ御寺御仏」はいつまでもたいせつに残しておきたいものです。

 

*今、若草山の北麓、浄瑠璃寺や正倉院、東大寺、春日山に近い「中ノ川・東鳴川」に奈良市のごみ焼却場を建設するというとんでもない計画があります。ここに焼却場ができ、高い煙突から煙が吐き出されることになれば、日本の宝、世界の宝である神聖な古都の風景と文化財が破壊されます。

悠久の大和、奈良の山々は日本人の心のふるさと、国のまほろばです。

 

「やまとは 国のまほろば たたなづく

青垣やまごもれる やまとしうるはし」

  日本武尊(やまとたけるのみこと)・古事記

 

この問題を詳しく知りたい方は、

ホームページ『奈良市クリーンセンター建設計画に関する課題について』をご覧ください。本計画の問題点が的確にまとめられています。Img_1430

Img_1439

Img_1435

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年2月 3日 (日)

般若寺 水仙花だより  2・3

 

◎水仙: ≪五分咲き≫ 

・開花:2月~3月上旬

今年は寒さのため一か月ほど遅れています。

・球根の数:1万~2万 

 

*今日は節分です。節分は季節を分けることを言い、本当は立春、立夏、立秋、立冬のそれぞれ前の日をさしますから年四回あります。しかし昔から春の節分を重視しています。各寺では、星祭(ほしまつり)、節分会(せつぶんえ)、追儺会(ついなえ)といった行事があり、大きな寺では大がかりな「豆まき」があります。それぞれの法要にはいわれと起源がありますが、一年の「五穀豊穣、万民豊楽、転禍為福」を祈る行事です。

 

〔短歌〕

「日沈みて 藍くすみたる 夕べ空

        底なきさむさを たたへたるかも」

          木下利玄・一路

〔俳句〕

「水仙の ひとかたまりの 匂ひかな」黒川悦子

〔和歌〕

「ねやのうへは つもれる雪に をともせで

          よこぎるあられ 窓たたく也」

            前大納言為兼・玉葉1010

「寝室の屋根の上は、深く積もった雪に静まりかえって音もなく、突然横さまに降り来る霰が、激しく窓をたたく音が聞こえる。」  

 

*『平家物語』を読む。

「河原合戦」の段、

「法皇大きに御感あッて、〈神妙也(しんべう、感心である)。義仲が余党なンどまいッて、狼藉もぞ仕る。なんぢら此の御所よくよくしゅごせよ〉と仰せければ、義経かしこまりうけ給はッて、四方の門をかためてまつほどに、兵物(つはもの)共馳せ集まッて、程なく一万騎ばかりになりにけり。

 木曽はもしの事(万一の場合)あらば、法皇をとりまいらせて西国へ落ち下り、平家とひとつにならんとて、力者(力者法師の略、髪をそって力業に従事したもの。是を非常用に院の御所に配置していた。)二十人そろへてもッたりけれども、御所には九郎義経馳せまいッて守護したてまつる由聞えしかば、さらばとて、数万騎の大勢のなかへおめいてかけいる。すでにうたれんとする事度々に及ぶといへども(もう少しで討たれそうになることが何度もあったが)、駈け破り駈け破り通りけり。木曽涙をながいて、〈かかるべしとだに知りたりせば(こうなるだろうということをせめて前もって知っていたならば)、今井を勢田へはやらざらまし。幼少竹馬の昔より、死なば一所で死なんとこそ契りしに、ところどころで討たれん事こそかなしけれ。今井がゆくゑをきかばや〉とて、河原のぼりに駈くるほどに(河原の北に向かって馬を走らせているうちに)、六条河原と三条河原の間に、敵(かたき)おそッてかかればとッてかえしとッてかえし、わづかなる小勢にて、雲霞の如くなる敵の大勢を、五六度までぞお(追)ッかへす。鴨河ざッとうちわたし、粟田口(今の京都市左京区内。当時は三条白河橋の東をいい、ここから山科を経て近江の大津に出る道があった。)・松坂(京都市山科区日岡付近の坂道、日岡峠ともいう。)にもかかりけり。去年(こぞ)信濃をい出しには五万余騎と聞えしに、けふ四の宮(京都市山科区四の宮)河原をすぐるには、主従七騎になりにけり。まして中有の旅の空、おもひやられて哀れ也。(中有は人の死後四十九日の間、次の生を享けないでさまよっている状態。いわんや、中有の旅は七騎はおろかただ一人で行くのだから、義仲はそのさびしさが思いやられていっそう悲哀を感じた。)」

 (この段終わり)

 

*秋艸道人、会津八一先生の歌集『鹿鳴集』より、奈良愛惜の歌。

〈山光集・紅日 昭和十七年三月

 新に召に応ずる人に〉

「いにしへの ふみよみすてて みいくさに

         いでたつひとの あごのそりぐひ」

〈東京にかへるとて〉

「あをによし ならやまこへて さかるとも

         ゆめにしみえこ わかくさのやま」

〈東京にかへりて後に〉

「ならやまを さかりしひより あさにけに

         みてらみほとけ おもかげにたつ」

 「夢にまで見える若草山」「面影にたつ御寺御仏」はいつまでもたいせつに残しておきたいものです。

 

*今、若草山の北麓、浄瑠璃寺や正倉院、東大寺、春日山に近い「中ノ川・東鳴川」に奈良市のごみ焼却場を建設するというとんでもない計画があります。ここに焼却場ができ、高い煙突から煙が吐き出されることになれば、日本の宝、世界の宝である神聖な古都の風景と文化財が破壊されます。

悠久の大和、奈良の山々は日本人の心のふるさと、国のまほろばです。

 

「やまとは 国のまほろば たたなづく

青垣やまごもれる やまとしうるはし」

  日本武尊(やまとたけるのみこと)・古事記

 

この問題を詳しく知りたい方は、

ホームページ『奈良市クリーンセンター建設計画に関する課題について』をご覧ください。本計画の問題点が的確にまとめられています。Img_1421

Img_1425

Img_1424

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年2月 2日 (土)

般若寺 水仙花だより  2・2

 

◎水仙: ≪三分咲き≫ 

・開花:2月~3月上旬

今年は寒さのため一か月ほど遅れています。

・球根の数:1万~2万 

 

*昨夜の雨も上がり今朝は温い朝となりました。前日に比べ10度ほど高い気温です。先ほどの気象情報では、暖かい南風が入り、三月下旬から四月上旬の気候となっているそうです。

 水仙の花は昨日から三分咲きになっていますが、この春の陽気で一気に見ごろから満開へと進みそうです。ロウバイは花開き、梅の莟もふくらんできました。福寿草やフキノトウもつぼみをつけだしました。みんな春を待ちかねていたのでしょう。自然界に誘われるように人間も動きが活発になっています。

 

〔短歌〕

「汽車に寝て 三河あたりか 大霜に

        早出の百姓 道ゆくが見ゆ」

         木下利玄・一路

〔俳句〕

「水仙の 凍れる花に 夜明けたり」伊丹さち子

〔和歌〕

「ささの葉の うへばかりには ふりをけど

         道もかくれぬ 野べのうす雪」

           藤原朝定・風雅815

「笹の葉の上だけには降り置いているけれど、道もかくれない程度の、ほのかな野の薄雪よ。」

 

*『平家物語』を読む。

「河原合戦」の段、

「 大将軍九郎義経、軍兵共にいくさをばせさせ、院御所のおぼつかなきに(法皇の御所が心配になるので)、主語し奉らんとて、まづ我身ともにひた甲(よろいかぶとに身を固めること)五六騎、六条殿へ馳せまいる。御所には大膳大夫成忠、御所の東の築垣の上にのぼッて、わななくわななくみまはせば、しら旗ざッとさしあげ、武士ども五六騎のけかぶとにたたかいなッて(かぶとが後ろに傾くこと。敵と戦う時にはこの反対に前に傾けて身を守る姿勢をとる。ここは奮戦したそのままの姿でとりあえず駈けつけた状況)、射向けの袖(よろいの左の袖)ふきなびかせ、くろ煙けたててはせまいる。成忠〈又木曽がまいり候。あなあさまし(さあ大変だ)と申しければ、今度ぞ世のうせはてとて、君も臣もさはがせ給ふ。成忠かさねて申しけるは、〈只今はせまいる武士どもは、笠印のかはッて候。今日都へ入る東国の勢と覚え候〉と、申しもはてねば、九郎義経門前へ馳せまいッて、馬よりおり、門をたたかせ、大音声をあげて、〈東国より前兵衛佐頼朝が舎弟、九郎義経こそまいッて候へ。あけさせ給へ〉と申しければ、成忠あまりのうれしさに、つゐ垣よりいそぎおどりおるるとて、腰をつき損じたりけれども(腰を地につけ損じて)、いたさはうれしさにまぎれておぼえず(痛さを感じなかった)、は(這)うはうまいッて此の由奏聞しければ、法皇大きに御感あッて(感心の意を表して)、やがて門を開かせて入れられけり。」

 九郎義経其日の装束には、赤地の錦の直垂(ひたたれ)に、紫すそごの鎧きて、鍬形うッたる甲(鍬形はかぶとの前立[まえだて]の一種。かぶとの眉庇[まびさし]の上から角のように突き出たもの。)の緒しめ、黄金づくりの太刀をはき、きりう(切斑、矢の羽で、白に数条の黒い斑紋のあるもの)の矢おひ、しげ藤の弓の鳥打(とりうち、弓の中程から少し下の左手で握るところ)を、紙をひろさ一寸ばかりにきッて、左まきにぞまいたりける。今日の大将軍のしるしとぞみえし。法皇は中門の連子より叡覧あッて、〈ゆゆしげなるもの共哉(頼もしそうな者どもだな)。みな名乗らせよ〉と仰せければ、まづ大将軍九郎義経、次に安田三郎義定、畠山庄司次郎重忠、梶原源太景季、佐々木四郎高綱、渋谷馬允重資とこそ名のッたれ。義経具して、武士は六人、鎧はいろいろなりけれども(よろいのおどしは様々な色であるが)、つらだましゐ(面魂、強い精神が現れた顔つき)事がら(骨柄)いづれもおとらず。大膳大夫成忠仰せを承って、九郎義経を大床(おほゆか、寝殿造の庇間の広いもの)のきはへ召して、合戦の次第をくはしく御尋ねあれば、義経かしこまッて申しけるは、〈義仲が謀反の事、頼朝大きにおどろき、範頼・義経をはじめとして、むねとの(主だった)兵物(つはもの)三十余人、其勢六万余騎をまいらせ候。範頼は勢田よりまはり候が、いまだまいり候はず。義経は宇治の手(手は一方面の軍隊)を攻めおといて、まづ此の御所守護のために馳せ参じて候。義仲は河原をのぼりに(賀茂河原を北に行って)落ち候つるを、兵物(つはもの)共におはせ候ひつれば(追討をいいつけましたから)、今は定めてうッとり候ひぬらん〉と、いと事もなげにぞ申したる。」

(つづく)

 

*秋艸道人、会津八一先生の歌集『鹿鳴集』より、奈良愛惜の歌。

〈山光集・観音院 東大寺観音院にいたり

前住稲垣僧正をおもふ〉

「てらにはの ひるはしづけし みづみてて

         いしにすゑたる みんげいのかめ」

〈東京にかへるとて〉

「あをによし ならやまこへて さかるとも

         ゆめにしみえこ わかくさのやま」

〈東京にかへりて後に〉

「ならやまを さかりしひより あさにけに

         みてらみほとけ おもかげにたつ」

 「夢にまで見える若草山」「面影にたつ御寺御仏」はいつまでもたいせつに残しておきたいものです。

 

*今、若草山の北麓、浄瑠璃寺や正倉院、東大寺、春日山に近い「中ノ川・東鳴川」に奈良市のごみ焼却場を建設するというとんでもない計画があります。ここに焼却場ができ、高い煙突から煙が吐き出されることになれば、日本の宝、世界の宝である神聖な古都の風景と文化財が破壊されます。

悠久の大和、奈良の山々は日本人の心のふるさと、国のまほろばです。

 

「やまとは 国のまほろば たたなづく

青垣やまごもれる やまとしうるはし」

  日本武尊(やまとたけるのみこと)・古事記

 

この問題を詳しく知りたい方は、

ホームページ『奈良市クリーンセンター建設計画に関する課題について』をご覧ください。本計画の問題点が的確にまとめられています。

Img_1288

Img_1089

Img_1086

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年2月 1日 (金)

般若寺 水仙花だより  2・1

 

◎水仙: ≪三分咲き≫ 

・開花:2月~3月上旬

今年は寒さのため一か月ほど遅れています。

・球根の数:1万~2万 

 

*今日から二月、ここ二三日暖かい日が続きます。朝晩は冷え込みますが、昼間は10度を超えています。昨日など少し動けば暑くなって着ている物を一枚脱ぎました。しかしまだ油断できません、また寒気が戻ってくるそうです。今日一日はしばしの春を楽しみましょう。水仙も動きだしました。花数が増えています。それで今日の開花状況は≪三分咲き≫にしました。この週末から≪見ごろ≫を迎えそうです。ことしは随分お待たせでした。

 

〔短歌〕

「街道の 霜に跡つけ きびきびしく

       百姓車が 町に出て行く」

         木下利玄・一路

〔俳句〕

「星磨く ものの一つに 白水仙」野口香葉

〔和歌〕

「ときうつり 月日つもれる 程なさよ

         花見し庭に ふれる白雪」

           前大納言為家・玉葉957

「時が移り変り、月日がたって行くことの何という早さだろう。つい先頃花を見ていた庭に、花にかわって降り積もる雪よ。」

・つもれる=「雪」の縁語。

 

*『平家物語』を読む。

「河原合戦(かはらがつせん)の段、

「 いくさやぶれにければ(義仲の軍が敗れたので)、鎌倉殿へ飛脚をもッて、合戦の次第をしるし申されけるに(帳簿に記録して報告した)、鎌倉殿まづ御使いに、〈佐々木はいかに〉と御尋ねありければ、〈宇治河のまッさき候〉と申す。日記(飛脚がもってきた戦の記録)をひらいて御らんずれば、〈宇治河の先陣、佐々木四郎高綱、二陣梶原源太景季〉とこそ書かれたれ。

 宇治・勢田やぶれぬと聞えしかば、木曽左馬頭、最後のいとま申さんとて、院の御所六条殿へ馳せまいる。御所には法皇をはじめまいらせて、公卿殿上人、〈世は只今うせなんず(この世はいよいよ破滅だろう)。いかがせん〉とて、手をにぎり、たてぬ願もましまさず(立てられる限りのあらゆる願を立てた)。木曽門前までまいりたれども、東国の勢すでに河原(賀茂の河原)までせめ入りたるよし聞えしかば、さいて奏する旨もなくてとッてかへす(特にこれといって法皇に申し上げることもなく引き返していった)。六条高倉なるところに、はじめて見そめたる女房のおはしければ、それへうちいり(その女房の家にちょっと入って)最後の名ごりおしまんとて、とみにいで(出)もやらざりけり。今参りしたりける(新参の家来)越後中太家光といふものあり。〈いかにかうはうちとけてわたらせ給ひ候ぞ。御敵すでに河原まで攻め入りて候に、犬死せさせ給ひなんず〉と申しけれども、なを出でもやらざりければ、〈さ候はばまづ先立ちまいらせえ、四手の山(死出の山、冥途にあって死後越えるといわれる山)でこそ待ちまいらせ候はめ〉とて、腹かききッてぞ死ににける。木曽殿〈われをすすむる自害にこそ(私を励ますための自害だ)〉とて、やがてうッたちけり。上野国の住人那波太郎広純を先として、其勢百騎ばかりにはすぎざりけり。六条河原にうちいでてみれば、東国の勢とおぼしくて、まづ三十騎ばかりい出きたり。そのなかに武者二騎すすんだり。一騎は塩屋の五郎維広(これひろ、塩谷氏は武蔵の児玉党に属す)、一騎は勅使河原の五三郎有直(ありなお、勅使河原氏は丹党に属す)なり。塩屋が申しけるは、〈後陣の勢をや待つべき〉。勅使河原が申しけるは、〈一陣やぶれぬれば残党まッたからず。ただかけよ〉とておめいてかく。木曽はけふをかぎりとたたかへば、東国の勢はわれう(討)ッとらんとぞすすみける。」

 (つづく)

 

*秋艸道人、会津八一先生の歌集『鹿鳴集』より、奈良愛惜の歌。

〈山光集・観音院 東大寺観音院にいたり

前住稲垣僧正をおもふ〉

「むかしきて かたりしそうの おもかげの

         しろきふすまを さりがてぬかも」

〈東京にかへるとて〉

「あをによし ならやまこへて さかるとも

         ゆめにしみえこ わかくさのやま」

〈東京にかへりて後に〉

「ならやまを さかりしひより あさにけに

         みてらみほとけ おもかげにたつ」

 「夢にまで見える若草山」「面影にたつ御寺御仏」はいつまでもたいせつに残しておきたいものです。

 

*今、若草山の北麓、浄瑠璃寺や正倉院、東大寺、春日山に近い「中ノ川・東鳴川」に奈良市のごみ焼却場を建設するというとんでもない計画があります。ここに焼却場ができ、高い煙突から煙が吐き出されることになれば、日本の宝、世界の宝である神聖な古都の風景と文化財が破壊されます。

悠久の大和、奈良の山々は日本人の心のふるさと、国のまほろばです。

 

「やまとは 国のまほろば たたなづく

青垣やまごもれる やまとしうるはし」

  日本武尊(やまとたけるのみこと)・古事記

 

この問題を詳しく知りたい方は、

ホームページ『奈良市クリーンセンター建設計画に関する課題について』をご覧ください。本計画の問題点が的確にまとめられています。Img_1399

Img_1391

Img_1397

Img_1388

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2013年1月 | トップページ | 2013年3月 »