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2013年2月 7日 (木)

般若寺 水仙花だより  2・7

 

◎水仙: ≪見ごろ:七分咲き≫ 

・開花:2月~3月上旬

寒さのため開花が一か月ほど遅れています。

これからが見ごろです。

・球根の数:1万~2万 

 

*滋賀県大津市に「義仲寺」(ぎちゅうじ)という小じんまりと愛らしいお寺があります。ここは名の通り木曽義仲の墓所があるお寺です。義仲は平家追討に兵をあげ京都へ入りました。しかし鎌倉の頼朝の命を受けた範頼、義経の軍勢に敗れ、大津の粟津の浜(あわづのはま)で討死します。付き従った唯一人の家臣、今井兼平は主に殉じて壮絶な自害を遂げます。今日のブログ「平家物語を読む」はその話です。

義仲の終焉の地は膳所のあたりの浜辺であったそうですが、墓は義仲寺の境内に古びた立派な宝篋印塔があります。寺の伝説では巴御前が尼となって墓を守っていたとされ、墓を木曽塚といい、寺を無名庵、巴寺とも言ったそうです。        室町時代に国守佐々木氏が再建し、俳聖芭蕉は木曽殿を慕い逗留したこともあり、いくつかの句を残しています。

「木曽の情 雪や生ぬく 春の草」芭蕉

芭蕉は元禄7年大阪で示寂した後、遺言により義仲寺の木曽塚の隣に葬られました。弟子又玄の句に、

「木曽殿と 背中合わせの 寒さかな」又玄

ちなみに木曽義仲は寿永3年(1184120日に享年31歳で亡くなっています。義仲寺には朝日将軍の名にちなんだ「朝日堂」に義仲、義高父子の木像、忠臣今井兼平のお位牌がまつられています。

 般若寺の鎌倉期中興上人の御一人、叡尊興正菩薩は義仲公の子孫とされ、一族の末裔は義仲の一字をとり「仲氏」を名乗っておられ、上人誕生の地大和郡山市白土町に健在です。

 

〔短歌〕

「この頃にて 長くなりたる 夕日あたり

         あかくしめらひ 見のしづけさや」

           木下利玄・一路

〔俳句〕

「水仙の 浜雨情立ち 夢二立つ」田中藤穂

〔和歌〕

「はる霞 かすみなれたる けしきかな

       むつきもあさき 日数と思ふに」

         従三位為子・玉葉6

「春霞はまあ、まるで霞むのには馴れ切っていますという様子だね。正月(陰暦、今の二月)になってまだ何程もたっていない日数だというのに。」

 

*『平家物語』を読む。

「木曽最期」の段、

「 今井四郎只一騎、五十騎ばかりが中へかけ入り、あぶみふンばりたちあがり、大音声あげて名のりけるは、〈日ごろは音にもききつらん、今は目にも見給へ、木曽殿の御めのと子、今井四郎兼平、生年三十三にまかりなる。さるものあるとは(そういう者が木曽殿の部下にあるとは)鎌倉殿までもしろしめされたるらんぞ。兼平うッて見参にいれよ(頼朝が御覧に入れよ)〉とて、ゐのこしたる八すじの矢を、さしつめ引きつめさんざんに射る。死生はしらず、やにわにかたき八騎ゐおとす。其後打物ぬいてあれに馳せあひ、これに馳せあひ、きッてまはるに、面をあはするものぞなき(正面から立ち向かえる者がない)。分どり(敵の武器などを奪うこと)あまたしたりけり。只〈ゐとれや〉とて、中にとりこめ、雨のふる様にゐけれども、鎧よければ裏かかず(裏まで通らない)、あき間をゐねば手もおはず(よろいのすき間を射ないから傷も受けない)。

 木曽殿は只一騎、粟津の松原へかけ給ふが、正月二十一日入相ばかりの事なるに(日没のころであった上に)、うす氷ははッたりけり、深田ありとも知らずして、馬をざッと打ち入れたれば、馬のかしらも見えざりけり(馬がもぐって頭も見えなくなってしまた)。あおれどもあおれども、うてどもうてどもはたらかず(いくらあぶみで馬の腹をあおっても、鞭で打っても、馬は動かない)。今井が行方のおぼつかなさに、ふりあふぎ給へるうち甲(かぶとの内側)を、三浦の石田次郎為久、おッかかッて(追いかかりて、追いついて)よッぴゐて(よく引いて)ひやう(矢が飛ぶ音)ふつ(物に当たる音)とゐる。いた手(致命傷)なれば、まッかう(真向まあは真甲、甲の鉢の前面)を馬のかしらにあててうつぶし給へる処に、石田の郎党二人落ちあふて、つゐに木曽殿の頸をばとッてんげり。太刀の先に貫き、高くさしあげ、大音声をあげて、〈この日来日本国に聞えさせ給ひつる木曽殿を、三浦の石田次郎為久がうち奉りたるぞや〉と名のりければ、今井四郎いくさしけるが、是をきき、〈いまはたれをかばはんとてかいくさをばすべき(誰を守るために戦をする必要があろうか)。是を見給へ、東国の殿原、日本一の甲の者(剛の者)の自害する手本〉とて、太刀のさきを口に含み、馬よりさかさまにとび落ち、つらぬ(貫)かッてぞう(失)せにける。さてこそ粟津のいくさはなかりけれ。(それで結局、粟津の合戦と名付けるような華々しいものはなかったのである)」

 (この段終わり)

 

*秋艸道人、会津八一先生の歌集より、奈良愛惜の歌。

『山光集』

〈歌碑 昭和十七年四月〉

「いしきりの いかなるをぢか わがうたを

         くちずさみつつ ほりつぎにけむ」

『鹿鳴集』

〈東京にかへるとて〉

「あをによし ならやまこへて さかるとも

         ゆめにしみえこ わかくさのやま」

〈東京にかへりて後に〉

「ならやまを さかりしひより あさにけに

         みてらみほとけ おもかげにたつ」

 「夢にまで見える若草山」「面影にたつ御寺御仏」はいつまでもたいせつに残しておきたいものです。

 

*今、若草山の北麓、浄瑠璃寺や正倉院、東大寺、春日山に近い「中ノ川・東鳴川」に奈良市のごみ焼却場を建設するというとんでもない計画があります。ここに焼却場ができ、高い煙突から煙が吐き出されることになれば、日本の宝、世界の宝である神聖な古都の風景と文化財が破壊されます。

悠久の大和、奈良の山々は日本人の心のふるさと、国のまほろばです。

 

「やまとは 国のまほろば たたなづく

青垣やまごもれる やまとしうるはし」

  日本武尊(やまとたけるのみこと)・古事記

 

この問題を詳しく知りたい方は、

ホームページ『奈良市クリーンセンター建設計画に関する課題について』をご覧ください。本計画の問題点が的確にまとめられています。Img_1560

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