般若寺 水仙花だより 2・3
◎水仙: ≪五分咲き≫
・開花:2月~3月上旬
今年は寒さのため一か月ほど遅れています。
・球根の数:1万~2万
*今日は節分です。節分は季節を分けることを言い、本当は立春、立夏、立秋、立冬のそれぞれ前の日をさしますから年四回あります。しかし昔から春の節分を重視しています。各寺では、星祭(ほしまつり)、節分会(せつぶんえ)、追儺会(ついなえ)といった行事があり、大きな寺では大がかりな「豆まき」があります。それぞれの法要にはいわれと起源がありますが、一年の「五穀豊穣、万民豊楽、転禍為福」を祈る行事です。
〔短歌〕
「日沈みて 藍くすみたる 夕べ空
底なきさむさを たたへたるかも」
木下利玄・一路
〔俳句〕
「水仙の ひとかたまりの 匂ひかな」黒川悦子
〔和歌〕
「ねやのうへは つもれる雪に をともせで
よこぎるあられ 窓たたく也」
前大納言為兼・玉葉1010
「寝室の屋根の上は、深く積もった雪に静まりかえって音もなく、突然横さまに降り来る霰が、激しく窓をたたく音が聞こえる。」
*『平家物語』を読む。
「河原合戦」の段、
「法皇大きに御感あッて、〈神妙也(しんべう、感心である)。義仲が余党なンどまいッて、狼藉もぞ仕る。なんぢら此の御所よくよくしゅごせよ〉と仰せければ、義経かしこまりうけ給はッて、四方の門をかためてまつほどに、兵物(つはもの)共馳せ集まッて、程なく一万騎ばかりになりにけり。
木曽はもしの事(万一の場合)あらば、法皇をとりまいらせて西国へ落ち下り、平家とひとつにならんとて、力者(力者法師の略、髪をそって力業に従事したもの。是を非常用に院の御所に配置していた。)二十人そろへてもッたりけれども、御所には九郎義経馳せまいッて守護したてまつる由聞えしかば、さらばとて、数万騎の大勢のなかへおめいてかけいる。すでにうたれんとする事度々に及ぶといへども(もう少しで討たれそうになることが何度もあったが)、駈け破り駈け破り通りけり。木曽涙をながいて、〈かかるべしとだに知りたりせば(こうなるだろうということをせめて前もって知っていたならば)、今井を勢田へはやらざらまし。幼少竹馬の昔より、死なば一所で死なんとこそ契りしに、ところどころで討たれん事こそかなしけれ。今井がゆくゑをきかばや〉とて、河原のぼりに駈くるほどに(河原の北に向かって馬を走らせているうちに)、六条河原と三条河原の間に、敵(かたき)おそッてかかればとッてかえしとッてかえし、わづかなる小勢にて、雲霞の如くなる敵の大勢を、五六度までぞお(追)ッかへす。鴨河ざッとうちわたし、粟田口(今の京都市左京区内。当時は三条白河橋の東をいい、ここから山科を経て近江の大津に出る道があった。)・松坂(京都市山科区日岡付近の坂道、日岡峠ともいう。)にもかかりけり。去年(こぞ)信濃をい出しには五万余騎と聞えしに、けふ四の宮(京都市山科区四の宮)河原をすぐるには、主従七騎になりにけり。まして中有の旅の空、おもひやられて哀れ也。(中有は人の死後四十九日の間、次の生を享けないでさまよっている状態。いわんや、中有の旅は七騎はおろかただ一人で行くのだから、義仲はそのさびしさが思いやられていっそう悲哀を感じた。)」
(この段終わり)
*秋艸道人、会津八一先生の歌集『鹿鳴集』より、奈良愛惜の歌。
〈山光集・紅日 昭和十七年三月
新に召に応ずる人に〉
「いにしへの ふみよみすてて みいくさに
いでたつひとの あごのそりぐひ」
〈東京にかへるとて〉
「あをによし ならやまこへて さかるとも
ゆめにしみえこ わかくさのやま」
〈東京にかへりて後に〉
「ならやまを さかりしひより あさにけに
みてらみほとけ おもかげにたつ」
「夢にまで見える若草山」「面影にたつ御寺御仏」はいつまでもたいせつに残しておきたいものです。
*今、若草山の北麓、浄瑠璃寺や正倉院、東大寺、春日山に近い「中ノ川・東鳴川」に奈良市のごみ焼却場を建設するというとんでもない計画があります。ここに焼却場ができ、高い煙突から煙が吐き出されることになれば、日本の宝、世界の宝である神聖な古都の風景と文化財が破壊されます。
悠久の大和、奈良の山々は日本人の心のふるさと、国のまほろばです。
「やまとは 国のまほろば たたなづく
青垣やまごもれる やまとしうるはし」
日本武尊(やまとたけるのみこと)・古事記
この問題を詳しく知りたい方は、
ホームページ『奈良市クリーンセンター建設計画に関する課題について』をご覧ください。本計画の問題点が的確にまとめられています。
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