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2013年7月

2013年7月31日 (水)

般若寺 季節の花だより 7・31

 

《いま咲いている花》

○黄花コスモス(サルフレアス種):≪咲きはじめ≫赤・黄・橙色、6種類。

○ヒツジ草:≪見ごろ≫ まっ白な可憐な水辺の花。日本の山地にある泉や池に自生する睡蓮の原生種。これから初秋まで咲き続けます。花は56センチの大きさ。

○秋海棠(しゅうかいどう): ≪咲きはじめ≫9月中旬まで咲く。 ハート形の緑色の大きい葉っぱに、ピンク色の小さい花が涼しげです。別名、瓔珞草(ようらくそう)とも。ベコニア属。江戸初期、中国から長崎へ園芸観賞用に伝えられたのがはじまり。全国に広まり、俳画などの画題に好まれている。

○百日紅(サルスベリ):≪五分咲き≫燃え立つような真っ赤な花が夏空に映えています。

《秋に咲く花》

○紫苑(シオン):9月中旬

○彼岸花:9月中旬

◎秋コスモス:9月中旬~11月中旬。35種類。10万本。

ビピンナタス種―29種類、サルフレアス種―6種類。

秋のコスモスは咲く時期で「早咲き種」と「秋咲き種」に分けられ、「早咲き種」は8月下旬から咲きますが、コスモス本来の「短日性開花」の性質を残している「秋咲き種」は9月下旬が開花時期です。当寺では種まきの日程をずらしているので秋らしい気候になる9月中旬から11月中旬ごろまで見ごろがつづきます。最盛期は10月です。

 

〔短歌〕

「波のうね つづきとほるに 潮の上の

        岩の頭の かわきあへなく」

          木下利玄・紅玉

〔俳句〕

「沙羅の散る 音は浄土に 還る音」宮崎稔子

〔和歌〕

「こぼれおつる 池の蓮(はちす)の 白露は

          うきはの玉と 又なりにけり」

            伏見院御製・玉葉422

「池の蓮の花びらからこぼれ落ちる白露は、水面に浮いた葉の上でもう一度、ころころと転ぶ白玉になったよ。」

 

*秋艸道人、会津八一先生の歌集『鹿鳴集』より、奈良愛惜の歌。

〈山中高歌 大正九年五月

 山田温泉は長野県豊野駅の東四里の谿間にあり山色浄潔にして嶺上の白雲も以て餐ふべきをおもはしむかつて憂患懐きて此所に来たり遊ぶこと五六日にして帰れり爾来潭声のなほ耳にあるを覚ゆ〉

「あをぞらの ひるのうつつに あらはれて

         われにこたへよ いにしへのかみ」

〈東京にかへるとて〉

「あをによし ならやまこへて さかるとも

         ゆめにしみえこ わかくさのやま」

〈東京にかへりて後に〉

「ならやまを さかりしひより あさにけに

         みてらみほとけ おもかげにたつ」

 「夢にまで見える若草山」「面影にたつ御寺御仏」はいつまでもたいせつに残しておきたいものです。

 

*「南朝御聖蹟を顕彰する」107

『太平記』巻第七「出羽入道道蘊(どううん)芳野を攻むる事」

・本文:〈されども、立ちたる矢をもぬかれず、流るる血をも拭(のご)はれず、敷皮の上に立たせ給ひながら、大盃を以て、三度傾けさせ給へば、木寺相模(こでらのさがみ)、四尺三寸の太刀の鋒(さき)に、敵の首をさし貫いて、宮の御前に畏まり、「戈鋋剣戟(かせんけんげき、矛と刀)を雨(ふら)すことは、春の雨に異ならず。盤石(ばんじゃく)の岩を飛ばす事は、冬の雪に相同じ。しかりといへども、天帝尺(てんたいしゃく)の身には近付かで、修羅彼がために破らる」と打ち上げて、冑の袖をゆり合はせて、一時が程ぞ舞つたりける。その有様は、ただよく漢楚の鴻門に会せし時、楚の項伯と項荘が剣を抜いて舞ひしに、樊噲(はんくわい)庭に立ちながら、帷幕(ゐばく)を挑(かか)げて、項王を睨みし勢もかくやと覚えて勇(いさみ)あり。〉

・訳(けれども、突き立った矢すらお抜きにならず、流れる血をもぬぐわれず、敷皮の上にお立ちなさりながら、大坏を使って三度お傾けになると、木寺相模が四尺三寸の太刀の切っ先に敵の首を刺し貫いて、宮の御前にかしこまった。

木寺は、「刀剣を振るうことは春の雨と同じでやむときがない。また大岩が砕けて石を飛び散らせる光景は冬の雪景色を思わせる。そうではあるが、阿修羅の攻撃は帝釈天には及ばずに、阿修羅は帝釈天に敗れ去った」と謡い終わって、鎧の袖を揺すり合わせながら、しばらくの間舞ったのである。その有様は、漢王高祖と楚王項羽とが鴻門で会見したとき、楚の項伯と項荘とが剣を抜いて舞ったときに、高祖の臣樊噲が庭に立ったまま幕を引き上げて、項王を睨みつけた勢いもまるでこのようであったろうと思われるほど、木寺の舞は雄々しいものであった。)

 

《当尾の里 浄瑠璃寺・岩船寺を奈良市の暴挙から守るために》

 

『土門拳 古寺を訪ねて 斑鳩から奈良へ』所収のエッセイより。

「浄瑠璃寺と石仏」

〈浄瑠璃寺の仏像

浄瑠璃寺は別に九体寺(くたいじ)とも、九品寺とも呼ばれている。九体寺とは西方極楽浄土の教主阿弥陀如来を意味し、現実に九体の阿弥陀像をまつっている。浄瑠璃寺の九体阿弥陀像は中尊一体だけが特に大きく像高は二・五メートルで、左右の八体は一・四メートルとわりあいに小さな寄木造で漆箔がおかれている。中尊は上品下生(じょうぼんげしょう)の印で、他の八体はすべて膝の上に両手の指を組み合わせた定印(じょういん)である。九体阿弥陀像は阿弥陀信仰の盛んであった藤原時代につくられたものである。

 浄瑠璃寺に現存する他の仏像のうち、正月と春秋二季だけ開帳する有名な吉祥天立像(建暦二年=1212)がある。木彫極彩色で藤原的であるが、奈良時代あたりの古像を手本にしてつくったとみられ、その美しい衣裳などの彩色文様は古風である。その厚化粧をした丸ポチャの麗人といった面貌は、不気味さを感じさせるほどの美しさである。

 吉祥天像の顔はうんと小さい。その顔は掌(てのひら)でつかめるほどの大きさである。

しもぶくれの頬に刻まれた切れ長の目は一番の魅力であろう。眼目広長にして顔貌静寂(がんぼうせいじゃく)。小さな唇は見るものに忘れがたい魅力を与える。仏像のうちでは、恐らく日本一の美人であろう。われわれはこの小さな仏像の魅力を永久に忘れないであろう。〉

 

*今、若草山の北麓、、正倉院、東大寺、春日山にも近く、京都府木津川市浄瑠璃寺南隣の「中ノ川・東鳴川」の地に、奈良市のごみ焼却場を建設するという古都破壊のとんでもない計画があります。          

 建設候補地は奈良市側ではありますが、京都府の浄瑠璃寺まで数百メートルの至近距離です。ここに焼却場ができ、高い煙突(計画の高さ80m)から煙が吐き出されることになれば、奈良側からの古都の歴史景観は台無しです。まるで若草山頂上から噴火したように見えます。また風向きによっては正倉院、東大寺にも煙が流れます。

そして当尾の里・浄瑠璃寺は平安時代の神聖な浄土庭園と国宝の堂塔、仏像文化財が排煙にまみれることになります。

このような事態は考えるのもおぞましいことで、最悪無謀な文化破壊です。

奈良市の策定委員会と奈良市長は計画を即刻白紙撤回すべきです。

この地域は、いにしえの奈良山丘陵でもあります。歴史ゆたかな青垣の山々を愛し、心のふるさととして心癒されている日本人がどれだけ大勢いることか、為政者は思いを致すべきです。

「やまとは 国のまほろば たたなづく

青垣やまごもれる やまとしうるはし」

  日本武尊(やまとたけるのみこと)・古事記

悠久の大和、奈良の山々は日本人の心のふるさと、国のまほろばです。

 

*奈良市長仲川元庸殿へ。

貴殿が選挙中に出された公約、ビジョンは、「世界から尊敬される国際観光経済都市NARA」でした。もしこのビジョンを市政目標とされるのであれば、現在の「ごみ焼却場」の中の川・東鳴川への移設計画は「国際観光経済都市」にふさわしくないのではありませんか。当尾の里は京都府ではありますが奈良観光の一大拠点です。ほんとうに観光を重視するのであれば、観光地の入口にゴミ焼却工場はおかしいでしょう。京都の東山や嵐山にごみ工場が存在しますか。鎌倉の有名観光地でごみを焼いていますか。もし観光地にごみ工場があっても何ら支障ないとお考えなら、いっそのこと奈良公園か平城宮跡にでも立地されたらいかがでしょうか。交通の便はいいと思いますよ。

第二期市政発足に当り、「観光経済都市奈良」を本気で目ざされるのであれば、古都奈良の文化遺産を守り未来へ活かすこと、千数百年の歴史があり奈良の精神文化の柱でありつづけた伝統宗教の尊厳に配慮することは必須条件です。その姿勢が「世界から尊敬される国際観光経済都市」へつながります。

この立派なビジョン実現のためには、ごみ工場の現計画は障碍となります。英断をもって現計画を白紙に戻し、一から候補地選定をやり直すべきです。

貴殿の後援会長は華厳宗前管長東大寺前別当の夫人、北河原孝子さんだそうですが、東大寺さんは現候補地で承諾しておられるのでしょうか。

市長さん、住民や宗教界の反対意見を無視してでも工事を強行されるのですか。そのようなことで「世界から尊敬される」ことになるのでしょうか。

 この問題を詳しく知りたい方は、

ホームページ『奈良市クリーンセンター建設計画に関する課題について』をご覧ください。本計画の問題点が的確にまとめられています。HP「般若寺」からリンクされています。Img_6220

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2013年7月30日 (火)

般若寺 季節の花だより 7・30

 

《いま咲いている花》

○黄花コスモス(サルフレアス種):≪咲きはじめ≫赤・黄・橙色、6種類。

○ヒツジ草:≪見ごろ≫ まっ白な可憐な水辺の花。日本の山地にある泉や池に自生する睡蓮の原生種。これから初秋まで咲き続けます。花は56センチの大きさ。

○秋海棠(しゅうかいどう): ≪咲きはじめ≫9月中旬まで咲く。 ハート形の緑色の大きい葉っぱに、ピンク色の小さい花が涼しげです。別名、瓔珞草(ようらくそう)とも。ベコニア属。江戸初期、中国から長崎へ園芸観賞用に伝えられたのがはじまり。全国に広まり、俳画などの画題に好まれている。

○百日紅(サルスベリ):≪五分咲き≫燃え立つような真っ赤な花が夏空に映えています。

《秋に咲く花》

○紫苑(シオン):9月中旬

○彼岸花:9月中旬

◎秋コスモス:9月中旬~11月中旬。35種類。10万本。

ビピンナタス種―29種類、サルフレアス種―6種類。

秋のコスモスは咲く時期で「早咲き種」と「秋咲き種」に分けられ、「早咲き種」は8月下旬から咲きますが、コスモス本来の「短日性開花」の性質を残している「秋咲き種」は9月下旬が開花時期です。当寺では種まきの日程をずらしているので秋らしい気候になる9月中旬から11月中旬ごろまで見ごろがつづきます。最盛期は10月です。

 

〔短歌〕

「はがね色の 湾一面の とがり波

         西日きららに 風すさぶかも」

           木下利玄・紅玉

〔俳句〕

「朝曇 蓮咲く景を 置きにけり」久保田万太郎

〔和歌〕

「ゆふだちの 雲吹きをくる 追風に

         梢の露ぞ また雨とふろ」

          宣光門院新右衛門督・風雅412

「夕立の雲を彼方に吹き送る、その追風のために、(雨はすでに止んだのに)梢にたまった露が又雨のように降って来る。」

・追風=背後から追うように吹く風。

 

*秋艸道人、会津八一先生の歌集『鹿鳴集』より、奈良愛惜の歌。

〈山中高歌 大正九年五月

 山田温泉は長野県豊野駅の東四里の谿間にあり山色浄潔にして嶺上の白雲も以て餐ふべきをおもはしむかつて憂患懐きて此所に来たり遊ぶこと五六日にして帰れり爾来潭声のなほ耳にあるを覚ゆ〉

「いにしへの ヘラスのくにの おほがみを

 あふぐがごとき くものまはしら」

〈東京にかへるとて〉

「あをによし ならやまこへて さかるとも

         ゆめにしみえこ わかくさのやま」

〈東京にかへりて後に〉

「ならやまを さかりしひより あさにけに

         みてらみほとけ おもかげにたつ」

 「夢にまで見える若草山」「面影にたつ御寺御仏」はいつまでもたいせつに残しておきたいものです。

 

*「南朝御聖蹟を顕彰する」106

『太平記』巻第七 「出羽入道道蘊(どううん)芳野を攻むる事

・本文:〈 さる程に、搦手の兵、思ひ寄らぬ勝手明神(かつてのみやうじん、吉野山八社明神の一神、蔵王権現の眷属神で本地は毘沙門天、武神である)の前より押し寄せて、宮の御座ありける蔵王堂へ打って懸かりける間、大塔宮(おほたふのみや)、今は遁れぬところなりとて、思し食(め)しきつて、赤地の錦の直垂に火威(ひをどし)の冑、同じ毛の五枚甲の緒をしめ、白檀琢(みが)きの臑当(すねあて)に、三尺五寸の長刀を脇に挟み、劣らぬ兵二十余人、前後左右に随へて、敵のたなびき引(ひか)へたる中へ破(わ)つて入り、東西を払ひ南北へ追ひまはし、黒煙を立てて切つて廻らせ給ふに、寄手大勢なりといへども、宮の怪力に僻易(へきえき)して、木の葉の風に散るが如く、四方の谷へ颯(さつ)と引く。敵引けば、宮は蔵王堂の大庭に幷居(なみゐ)させ給ひて、油幕を掲げさせ、閑かに最後の御酒盛ありけり。宮の御鎧に立つところの矢七筋、御頬さき、二の腕、二所まで突かれさせ給ひて、ながるる血なのめならず。〉

・訳(さて、裏手の兵たちが、予想もしなかった勝手明神の前から押し寄せて、大塔宮がおいでになられる蔵王堂へ打ちかかったので、宮は、もう逃れられないと、すっかり決心なさった。宮は、赤地の錦の直垂に鮮やかな緋色で縅(おど)した鎧を着、同じ縅毛の五枚しころの兜の緒を締め、白檀磨きのすね当てをつけ、三尺五寸の長刀を脇に挟んで、宮に劣らね勇士二十余人を前後左右に従えて、群がって待ち構えている敵の中へ割って入り、東西へ払いのけ、南北に追いまわして、土煙をあげて斬ってまわられた。寄せ手は大勢だとはいっても、大塔宮の怪力に恐れたじろぎ、まるで木の葉が風に舞い散るように、蔵王堂の四方の谷へさっと退いた。敵が退くと、宮は蔵王堂の広庭に兵たちを並んで座らせなさって、油引きの天幕を張らせて、心静かに最後の御酒盛りをなされた。

 宮の御鎧に立つ矢は七本、御頬先と二の腕二ヶ所まで敵に突かれなされて、流れる血はたいへんなものであった。)

 

《当尾の里 浄瑠璃寺・岩船寺を奈良市の暴挙から守るために》

 

『土門拳 古寺を訪ねて 斑鳩から奈良へ』所収のエッセイより。

「浄瑠璃寺と石仏」

〈浄瑠璃寺の仏像

浄瑠璃寺は別に九体寺(くたいじ)とも、九品寺とも呼ばれている。九体寺とは西方極楽浄土の教主阿弥陀如来を意味し、現実に九体の阿弥陀像をまつっている。浄瑠璃寺の九体阿弥陀像は中尊一体だけが特に大きく像高は二・五メートルで、左右の八体は一・四メートルとわりあいに小さな寄木造で漆箔がおかれている。中尊は上品下生(じょうぼんげしょう)の印で、他の八体はすべて膝の上に両手の指を組み合わせた定印(じょういん)である。九体阿弥陀像は阿弥陀信仰の盛んであった藤原時代につくられたものである。

 浄瑠璃寺に現存する他の仏像のうち、正月と春秋二季だけ開帳する有名な吉祥天立像(建暦二年=1212)がある。木彫極彩色で藤原的であるが、奈良時代あたりの古像を手本にしてつくったとみられ、その美しい衣裳などの彩色文様は古風である。その厚化粧をした丸ポチャの麗人といった面貌は、不気味さを感じさせるほどの美しさである。

 吉祥天像の顔はうんと小さい。その顔は掌(てのひら)でつかめるほどの大きさである。

しもぶくれの頬に刻まれた切れ長の目は一番の魅力であろう。眼目広長にして顔貌静寂(がんぼうせいじゃく)。小さな唇は見るものに忘れがたい魅力を与える。仏像のうちでは、恐らく日本一の美人であろう。われわれはこの小さな仏像の魅力を永久に忘れないであろう。〉

 

*今、若草山の北麓、、正倉院、東大寺、春日山にも近く、京都府木津川市浄瑠璃寺南隣の「中ノ川・東鳴川」の地に、奈良市のごみ焼却場を建設するという古都破壊のとんでもない計画があります。          

 建設候補地は奈良市側ではありますが、京都府の浄瑠璃寺まで数百メートルの至近距離です。ここに焼却場ができ、高い煙突(計画の高さ80m)から煙が吐き出されることになれば、奈良側からの古都の歴史景観は台無しです。まるで若草山頂上から噴火したように見えます。また風向きによっては正倉院、東大寺にも煙が流れます。

そして当尾の里・浄瑠璃寺は平安時代の神聖な浄土庭園と国宝の堂塔、仏像文化財が排煙にまみれることになります。

このような事態は考えるのもおぞましいことで、最悪無謀な文化破壊です。

奈良市の策定委員会と奈良市長は計画を即刻白紙撤回すべきです。

この地域は、いにしえの奈良山丘陵でもあります。歴史ゆたかな青垣の山々を愛し、心のふるさととして心癒されている日本人がどれだけ大勢いることか、為政者は思いを致すべきです。

「やまとは 国のまほろば たたなづく

青垣やまごもれる やまとしうるはし」

  日本武尊(やまとたけるのみこと)・古事記

悠久の大和、奈良の山々は日本人の心のふるさと、国のまほろばです。

 

*奈良市長仲川元庸殿へ。

貴殿が選挙中に出された公約、ビジョンは、「世界から尊敬される国際観光経済都市NARA」でした。もしこのビジョンを市政目標とされるのであれば、現在の「ごみ焼却場」の中の川・東鳴川への移設計画は「国際観光経済都市」にふさわしくないのではありませんか。当尾の里は京都府ではありますが奈良観光の一大拠点です。ほんとうに観光を重視するのであれば、観光地の入口にゴミ焼却工場はおかしいでしょう。京都の東山や嵐山にごみ工場が存在しますか。鎌倉の有名観光地でごみを焼いていますか。もし観光地にごみ工場があっても何ら支障ないとお考えなら、いっそのこと奈良公園か平城宮跡にでも立地されたらいかがでしょうか。交通の便はいいと思いますよ。

第二期市政発足に当り、「観光経済都市奈良」を本気で目ざされるのであれば、古都奈良の文化遺産を守り未来へ活かすこと、千数百年の歴史があり奈良の精神文化の柱でありつづけた伝統宗教の尊厳に配慮することは必須条件です。その姿勢が「世界から尊敬される国際観光経済都市」へつながります。

この立派なビジョン実現のためには、ごみ工場の現計画は障碍となります。英断をもって現計画を白紙に戻し、一から候補地選定をやり直すべきです。

貴殿の後援会長は華厳宗前管長東大寺前別当の夫人、北河原孝子さんだそうですが、東大寺さんは現候補地で承諾しておられるのでしょうか。

市長さん、住民や宗教界の反対意見を無視してでも工事を強行されるのですか。そのようなことで「世界から尊敬される」ことになるのでしょうか。

 この問題を詳しく知りたい方は、

ホームページ『奈良市クリーンセンター建設計画に関する課題について』をご覧ください。本計画の問題点が的確にまとめられています。HP「般若寺」からリンクされています。Img_6199

Img_6200

 

 

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2013年7月29日 (月)

般若寺 季節の花だより 7・29

 

《いま咲いている花》

○黄花コスモス(サルフレアス種):≪咲きはじめ≫赤・黄・

        橙色、6種類。

○ヒツジ草:≪見ごろ≫ まっ白な可憐な水辺の花。日本の山地にある泉や池に自生する睡蓮の原生種。これから初秋まで咲き続けます。花は56センチの大きさ。

○秋海棠(しゅうかいどう): ≪咲きはじめ≫9月中旬まで咲く。 ハート形の緑色の大きい葉っぱに、ピンク色の小さい花が涼しげです。別名、瓔珞草(ようらくそう)とも。ベコニア属。江戸初期、中国から長崎へ園芸観賞用に伝えられたのがはじまり。全国に広まり、俳画などの画題に好まれている。

○百日紅(サルスベリ):≪五分咲き≫燃え立つような真っ赤な花が夏空に映えています。

《秋に咲く花》 

○紫苑(シオン):9月中旬

○彼岸花:9月中旬

◎秋コスモス:9月中旬~11月中旬。35種類。10万本。

いま苗を植え付けています。真夏の日照と気温のおかげでよく育 っています。

コスモスは種まきから7080日で開花しますから咲く時期を設定し、日数をさかのぼって種をまきます。種類により咲く時期が違い、背丈も様々ですから庭の設計が大事です。あとは植え付け、水やり、除草など心を込めて世話をしてやれば、秋にはきれいな花を咲かせてくれます。

 

〔短歌〕

「渚より なぞへに深き 海なれば

       小石(さざれ)うつ波 さのみはよらず」

         木下利玄・紅玉

〔俳句〕

「膝の子や 線香花火に 手をたたく」小林一茶

〔和歌〕

「河風に うはげふかせて ゐる鷺の

すずしくみゆる 柳はらかな」

         源仲正・玉葉424

「河風に上毛を軽々と吹かせている鷺が、いかにも涼しそうに見える、柳の立ち並んだ河原の景色よ」

・うはげ=上毛。水鳥や鹿などの体の表面に生えた毛。鷺の場合、首のまわりに蓑のように生えた繊細な美しい毛。簔毛。

 

*秋艸道人、会津八一先生の歌集『鹿鳴集』より、奈良愛惜の歌。

〈山中高歌 大正九年五月

 山田温泉は長野県豊野駅の東四里の谿間にあり山色浄潔にして嶺上の白雲も以て餐ふべきをおもはしむかつて憂患懐きて此所に来たり遊ぶこと五六日にして帰れり爾来潭声のなほ耳にあるを覚ゆ〉

「くもひとつ みねにたぐひて ゆのむらの

         はるるひまなき わがこころかな」

〈東京にかへるとて〉

「あをによし ならやまこへて さかるとも

         ゆめにしみえこ わかくさのやま」

〈東京にかへりて後に〉

「ならやまを さかりしひより あさにけに

         みてらみほとけ おもかげにたつ」

 「夢にまで見える若草山」「面影にたつ御寺御仏」はいつまでもたいせつに残しておきたいものです。

 

*「南朝御聖蹟を顕彰する」105

『太平記』巻第七「出羽入道道蘊(どううん)芳野を攻むる事」

・本文:〈かかるところに、金峯山へ廻りつる搦手(からめて)の兵百五十人、安全宝塔の上より下りて在々所々(ざいざいしょしょ、あちらこちら、至る所)に火を懸けて、時の声をぞあげたりける。吉野の大衆、前後の敵を防ぎかねて、あるいは自ら腹を切って、猛火の中へ走り入つて死ぬるもあり、あるいは自ら向ふ敵に引つ組んで、さし違ふるもあり。思ひ思ひに打死しければ、大手の堀一つは、死人にて埋りて、平地となる。〉

・訳:(おりから、金峯山へ迂回していた裏手の兵たち百五十人は、安全宝塔の上から下りて来てあちらこちらに火をかけて、鬨の声をあげたのである。吉野の僧徒は前後から押し寄せる敵を防ぎかねて、ある者は腹を切って猛火の中へ飛び込んで死に、またある者は相手とする敵に組みついて刺し違えた。それぞれ思い思いに討死したので、正面の堀一重は死人で埋って、まるで平地になるほどであった。)

(つづく)

 

《当尾の里 浄瑠璃寺・岩船寺を奈良市の暴挙から守るために》

 

『土門拳 古寺を訪ねて 斑鳩から奈良へ』所収のエッセイより。

「浄瑠璃寺と石仏」

〈浄瑠璃寺の仏像

浄瑠璃寺は別に九体寺(くたいじ)とも、九品寺とも呼ばれている。九体寺とは西方極楽浄土の教主阿弥陀如来を意味し、現実に九体の阿弥陀像をまつっている。浄瑠璃寺の九体阿弥陀像は中尊一体だけが特に大きく像高は二・五メートルで、左右の八体は一・四メートルとわりあいに小さな寄木造で漆箔がおかれている。中尊は上品下生(じょうぼんげしょう)の印で、他の八体はすべて膝の上に両手の指を組み合わせた定印(じょういん)である。九体阿弥陀像は阿弥陀信仰の盛んであった藤原時代につくられたものである。

 浄瑠璃寺に現存する他の仏像のうち、正月と春秋二季だけ開帳する有名な吉祥天立像(建暦二年=1212)がある。木彫極彩色で藤原的であるが、奈良時代あたりの古像を手本にしてつくったとみられ、その美しい衣裳などの彩色文様は古風である。その厚化粧をした丸ポチャの麗人といった面貌は、不気味さを感じさせるほどの美しさである。

 吉祥天像の顔はうんと小さい。その顔は掌(てのひら)でつかめるほどの大きさである。

しもぶくれの頬に刻まれた切れ長の目は一番の魅力であろう。眼目広長にして顔貌静寂(がんぼうせいじゃく)。小さな唇は見るものに忘れがたい魅力を与える。仏像のうちでは、恐らく日本一の美人であろう。われわれはこの小さな仏像の魅力を永久に忘れないであろう。〉

 

*今、若草山の北麓、、正倉院、東大寺、春日山にも近く、京都府木津川市浄瑠璃寺南隣の「中ノ川・東鳴川」の地に、奈良市のごみ焼却場を建設するという古都破壊のとんでもない計画があります。          

 建設候補地は奈良市側ではありますが、京都府の浄瑠璃寺まで数百メートルの至近距離です。ここに焼却場ができ、高い煙突(計画の高さ80m)から煙が吐き出されることになれば、奈良側からの古都の歴史景観は台無しです。まるで若草山頂上から噴火したように見えます。また風向きによっては正倉院、東大寺にも煙が流れます。

そして当尾の里・浄瑠璃寺は平安時代の神聖な浄土庭園と国宝の堂塔、仏像文化財が排煙にまみれることになります。

このような事態は考えるのもおぞましいことで、最悪無謀な文化破壊です。

奈良市の策定委員会と奈良市長は計画を即刻白紙撤回すべきです。

この地域は、いにしえの奈良山丘陵でもあります。歴史ゆたかな青垣の山々を愛し、心のふるさととして心癒されている日本人がどれだけ大勢いることか、為政者は思いを致すべきです。

「やまとは 国のまほろば たたなづく

青垣やまごもれる やまとしうるはし」

  日本武尊(やまとたけるのみこと)・古事記

悠久の大和、奈良の山々は日本人の心のふるさと、国のまほろばです。

 

*奈良市長仲川元庸殿へ。

貴殿が選挙中に出された公約、ビジョンは、「世界から尊敬される国際観光経済都市NARA」でした。もしこのビジョンを市政目標とされるのであれば、現在の「ごみ焼却場」の中の川・東鳴川への移設計画は「国際観光経済都市」にふさわしくないのではありませんか。当尾の里は京都府ではありますが奈良観光の一大拠点です。ほんとうに観光を重視するのであれば、観光地の入口にゴミ焼却工場はおかしいでしょう。京都の東山や嵐山にごみ工場が存在しますか。鎌倉の有名観光地でごみを焼いていますか。もし観光地にごみ工場があっても何ら支障ないとお考えなら、いっそのこと奈良公園か平城宮跡にでも立地されたらいかがでしょうか。交通の便はいいと思いますよ。

第二期市政発足に当り、「観光経済都市奈良」を本気で目ざされるのであれば、古都奈良の文化遺産を守り未来へ活かすこと、千数百年の歴史があり奈良の精神的支柱でありつづける宗教の尊厳に配慮することは必須条件です。その姿勢が「世界から尊敬される国際観光経済都市」へつながります。

この立派なビジョン実現のためには、ごみ工場の現計画は障碍となります。英断をもって現計画を白紙に戻し、一から候補地選定をやり直すべきです。

貴殿の後援会長は華厳宗前管長東大寺前別当の夫人、北河原孝子さんだそうですが、東大寺さんは現候補地で承諾しておられるのでしょうか。

市長さん、住民や宗教界の反対意見を無視してでも工事を強行されるのですか。そのようなことで「世界から尊敬される」ことになるのでしょうか。

 この問題を詳しく知りたい方は、

ホームページ『奈良市クリーンセンター建設計画に関する課題について』をご覧ください。本計画の問題点が的確にまとめられています。HP「般若寺」からリンクされています。

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2013年7月28日 (日)

般若寺 季節の花だより 7・28

 

《いま咲いている花》

○夏コスモス:≪本日で終了いたします≫

○ヒツジ草:≪見ごろ≫ まっ白な可憐な水辺の花。日本の山地にある泉や池に自生する睡蓮の原生種。これから初秋まで咲き続けます。花は56センチの大きさ。

○秋海棠(しゅうかいどう): ≪咲きはじめ≫9月中旬まで咲く。 ハート形の緑色の大きい葉っぱに、ピンク色の小さい花が涼しげです。別名、瓔珞草(ようらくそう)とも。ベコニア属。江戸初期、中国から長崎へ園芸観賞用に伝えられたのがはじまり。全国に広まり、俳画などの画題に好まれている。

○百日紅(サルスベリ):≪五分咲き≫燃え立つような真っ赤な花が夏空に映えています。

《秋に咲く花》

○紫苑(シオン):9月中旬

○彼岸花:9月中旬

◎秋コスモス:9月中旬~11月中旬。35種類。10万本。

いま苗を植え付けています。真夏の日照と気温のおかげでよく育 っています。

コスモスは種まきから7080日で開花しますから咲く時期を設定し、日数をさかのぼって種をまきます。種類により咲く時期が違い、背丈も様々ですから庭の設計が大事です。あとは植え付け、水やり、除草など心を込めて世話をしてやれば、秋にはきれいな花を咲かせてくれます。

 

〔短歌〕

「まさやかに 沈透(しづ)く小石(さざれ)の ゆらゆらに

         見え定まらず 上とほる波」

           木下利玄・紅玉

〔俳句〕

「白蓮や はじけのこりて 一二片」飯田蛇笏

〔和歌〕

「降りよはる 雨をのこして 風はやみ

         よそになりゆく ゆふだちの雲」

           徽安門院小宰相・風雅411

「降り方の弱まって来た雨を残したまま、速度を早める風に乗って、どんどん遠くへ流れて行く夕立の雲よ。」

・かぜはやみ=風が早いために。

 

*秋艸道人、会津八一先生の歌集『鹿鳴集』より、奈良愛惜の歌。

〈山中高歌 大正九年五月

 山田温泉は長野県豊野駅の東四里の谿間にあり山色浄潔にして嶺上の白雲も以て餐ふべきをおもはしむかつて憂患懐きて此所に来たり遊ぶこと五六日にして帰れり爾来潭声のなほ耳にあるを覚ゆ〉

「あさあけの をのへをいでし しらくもの

         いづれのそらに くれはてにけむ」

〈東京にかへるとて〉

「あをによし ならやまこへて さかるとも

         ゆめにしみえこ わかくさのやま」

〈東京にかへりて後に〉

「ならやまを さかりしひより あさにけに

         みてらみほとけ おもかげにたつ」

 「夢にまで見える若草山」「面影にたつ御寺御仏」はいつまでもたいせつに残しておきたいものです。

 

*「南朝御聖蹟を顕彰する」102

『太平記』巻第七 「出羽入道道蘊(どううん)芳野を攻むる事

・本文:〈すなはち案内者の兵百五十人を勝(すぐ)つて、その日の暮程に、金峯山へ廻って岩を伝ひ、谷を登るに、案の如く、山の嶮しきを慿(たの)みけるにや、ただここかしこの梢に旌ばかりを結ひ付けて、防ぐべき兵は一人もなし。〉

・訳:〈すぐに地理に明るい兵たち百五十人を選抜して、その日の暮れ方から金峯山へ迂回して、岩を伝い谷を登ってみると予想どおり、山の嶮しさを頼みにしたのか、ただあちこちの梢に旗だけを結びつけて、敵を防ぐべき兵は一人もいなかった。〉

・本文〈百余人の兵ども、思ひのままに忍び入り、木の下・岩の陰に弓箭を臥せて、夜の明くるをぞ待つたりける。相図の比にもなりければ、大手五百余人、三方より押し寄せて、責め上る。吉野の大衆五百余人、攻め口に下り合ひて防ぎ戦ふ。寄手も城の内も、互ひに命を惜しまず、追い上(のぼ)せ追い下し、火を散らしてぞ戦ひたる。〉

・訳:(百余人の兵たちは、思いどおりに忍び入り、木の下や岩陰に弓矢を横たえて、夜の明けるのをまった。かねて合図の時刻になったので、正面の五百余人は城の攻め口まで一緒に下りて来て防戦した。寄せ手も城中の兵も、互いに命を惜しまず、敵を追いあげ、あるいは追い下して、火花を散らして戦った。)

 (つづく)

 

《当尾の里 浄瑠璃寺・岩船寺を奈良市の暴挙から守るために》

 

『土門拳 古寺を訪ねて 斑鳩から奈良へ』所収のエッセイより。

「浄瑠璃寺と石仏」

〈浄瑠璃寺の仏像

浄瑠璃寺は別に九体寺(くたいじ)とも、九品寺とも呼ばれている。九体寺とは西方極楽浄土の教主阿弥陀如来を意味し、現実に九体の阿弥陀像をまつっている。浄瑠璃寺の九体阿弥陀像は中尊一体だけが特に大きく像高は二・五メートルで、左右の八体は一・四メートルとわりあいに小さな寄木造で漆箔がおかれている。中尊は上品下生(じょうぼんげしょう)の印で、他の八体はすべて膝の上に両手の指を組み合わせた定印(じょういん)である。九体阿弥陀像は阿弥陀信仰の盛んであった藤原時代につくられたものである。

 浄瑠璃寺に現存する他の仏像のうち、正月と春秋二季だけ開帳する有名な吉祥天立像(建暦二年=1212)がある。木彫極彩色で藤原的であるが、奈良時代あたりの古像を手本にしてつくったとみられ、その美しい衣裳などの彩色文様は古風である。その厚化粧をした丸ポチャの麗人といった面貌は、不気味さを感じさせるほどの美しさである。

 吉祥天像の顔はうんと小さい。その顔は掌(てのひら)でつかめるほどの大きさである。

しもぶくれの頬に刻まれた切れ長の目は一番の魅力であろう。眼目広長にして顔貌静寂(がんぼうせいじゃく)。小さな唇は見るものに忘れがたい魅力を与える。仏像のうちでは、恐らく日本一の美人であろう。われわれはこの小さな仏像の魅力を永久に忘れないであろう。〉

 

*今、若草山の北麓、、正倉院、東大寺、春日山にも近く、京都府木津川市浄瑠璃寺南隣の「中ノ川・東鳴川」の地に、奈良市のごみ焼却場を建設するという古都破壊のとんでもない計画があります。          

 建設候補地は奈良市側ではありますが、京都府の浄瑠璃寺まで数百メートルの至近距離です。ここに焼却場ができ、高い煙突(計画の高さ80m)から煙が吐き出されることになれば、奈良側からの古都の歴史景観は台無しです。まるで若草山頂上から噴火したように見えます。また風向きによっては正倉院、東大寺にも煙が流れます。

そして当尾の里・浄瑠璃寺は平安時代の神聖な浄土庭園と国宝の堂塔、仏像文化財が排煙にまみれることになります。

このような事態は考えるのもおぞましいことで、最悪無謀な文化破壊です。

奈良市の策定委員会と奈良市長は計画を即刻白紙撤回すべきです。

この地域は、いにしえの奈良山丘陵でもあります。歴史ゆたかな青垣の山々を愛し、心のふるさととして心癒されている日本人がどれだけ大勢いることか、為政者は思いを致すべきです。

「やまとは 国のまほろば たたなづく

青垣やまごもれる やまとしうるはし」

  日本武尊(やまとたけるのみこと)・古事記

悠久の大和、奈良の山々は日本人の心のふるさと、国のまほろばです。

 

*仲川元庸奈良市長殿へ。

貴殿が選挙中に出された公約、ビジョンは、「世界から尊敬される国際観光経済都市NARA」でした。もしこのビジョンを市政目標とされるのであれば、現在の「ごみ焼却場」の中の川・東鳴川への移設計画は「国際観光経済都市」にふさわしくないのではありませんか。当尾の里は京都府ではありますが奈良観光の一大拠点です。ほんとうに観光を重視するのであれば、観光地の入口にゴミ焼却工場はおかしいでしょう。京都の東山や嵐山にごみ工場が存在しますか。鎌倉の有名観光地でごみを焼いていますか。もし観光地にごみ工場があっても何ら支障ないとお考えなら、いっそのこと奈良公園か平城宮跡にでも立地されたらいかがでしょうか。交通の便はいいと思いますよ。

第二期市政発足に当り、「観光経済都市奈良」を本気で目ざされるのであれば、古都奈良の文化遺産を守り未来へ活かすこと、千数百年の歴史があり奈良の精神的支柱でありつづける宗教の尊厳に配慮することは必須条件です。その姿勢が「世界から尊敬される国際観光経済都市」へつながります。

この立派なビジョン実現のためには、ごみ工場の現計画は障碍となります。英断をもって現計画を白紙に戻し、一から候補地選定をやり直すべきです。

貴殿の後援会長は華厳宗前管長東大寺前別当の夫人、北河原孝子さんだそうですが、東大寺さんは現候補地で承諾しておられるのでしょうか。

市長さん、住民や宗教界の反対意見を無視してでも工事を強行されるのですか。そのようなことで「世界から尊敬される」ことになるのでしょうか。

 この問題を詳しく知りたい方は、

ホームページ『奈良市クリーンセンター建設計画に関する課題について』をご覧ください。本計画の問題点が的確にまとめられています。HP「般若寺」からリンクされています。Img_6128

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2013年7月27日 (土)

般若寺 季節の花だより 7・27

 

《いま咲いている花》

○夏コスモス:≪終わり近し≫

○ヒツジ草:≪見ごろ≫ まっ白な水辺の花。日本の山地にある泉や池に自生する睡蓮の原生種。これから初秋まで咲き続けます。花は56センチの大きさ。

○秋海棠(しゅうかいどう): ≪咲きはじめ≫9月中旬まで咲く。 ハート形の緑色の大きい葉っぱに、ピンク色の小さい花が涼しげです。別名、瓔珞草(ようらくそう)とも。ベコニア属。江戸初期、中国から長崎へ園芸観賞用に伝えられたのがはじまり。全国に広まり、俳画などの画題に好まれている。

○百日紅(サルスベリ):≪咲きはじめ≫

《秋に咲く花》

○紫苑(シオン):9月中旬

○彼岸花:9月中旬

◎秋コスモス:9月中旬~11月中旬。35種類。10万本。

いま苗を植え付けています。真夏の日照と気温のおかげでよく育 っています。

コスモスは種まきから7080日で開花しますから咲く時期を設定し、日数をさかのぼって種をまきます。種類により咲く時期が違い、背丈も様々ですから庭の設計が大事です。あとは植え付け、水やり、除草など心を込めて世話をしてやれば、秋にはきれいな花を咲かせてくれます。

 

*「南朝御聖蹟を顕彰する」102

『太平記』巻第七 「出羽入道道蘊(どううん)芳野を攻むる事

・本文:〈いはんや、矢に当り石に打たれ、死生を知らざる物、幾千万といふ数を知らず。血は草芥を染めて漣々(れんれん、涙の流れるさま)たれば、尸(かばね)は山谷を埋(うづ)みて畳々(でふでふ、積み重なっているさま)たり。無慚といふも愚かなり。されども、城の体(てい)少しも弱らねば、寄手の兵多くは退屈してぞ見えたりける。〉

・訳:(まして、矢に当り石に打たれ、瀕死の重傷を負っている者は、幾千万とも知れなかった。血は草葉を染めて涙のように流れ、屍は重なり合って山や谷を埋めた。残酷という言葉では表現できない光景である。けれども、城中の様子は少しも弱ったふうがないので、寄せ手の兵たちも多くは嫌気がさしているように見えるのだった。)

・本文:〈 ここにこの山の案内者とて、一方へ向はれたりける吉野の執行(しゆぎやう、寺務を統括する僧職)岩玉丸が、手の物どもを呼び寄せて申しけるは、「東条大将金沢右馬助殿は、すでに赤坂の城を責め落して、金剛山へ向はれたりと聞ゆ。当山の事、我等案内者たるによつて、一方を奉(うけたまは)つて向ひたる甲斐もなく、責め落さで数日を送る事、返す返すも遺恨なり。つらつら事の様を案ずるに、この城を大手より責めば、人のみ多く打たれて、落すことはありがたし。推量するに、城の後の山、金峯山には、嶮しきを慿(たの)んで、敵さまで、勢を置きたる事はあらじとぞ覚ゆ。足軽の兵百五十人勝(すぐ)つて徒立ち(かちだち、馬に乗らず徒歩の兵士)になして、夜に交(まぎ)れて、金峯山より忍び入り、安善宝塔の上にて、夜のほのぼのと明け終(は)てん時、時の声を揚げんに、城の者ども時の声に驚きて、度を失はん時、大手三方より攻め上つて城を落し、宮を生け取り奉るべし」とぞ下知しける。〉

・訳:( ここで、この吉野山の地理に明るい者として、一方面の攻撃に当っていた吉野金峯山寺の執行岩玉丸は、部下たちを呼び寄せて言うことには「東条方面の大将金沢右馬助殿は、すでに赤坂の城を攻め落として、金剛山へ向かわれたという風評だ。この山のことは、我らが地理に明るい者なので、一方面をお引き受けして攻撃したその甲斐もなく、攻め落とせずに数日が過ぎたのは、かえすがえすも残念である。よくよく事態を考えてみると、この城を正面から攻めても、兵ばかり討たれて、城を落とすことは難しい。思うに、城の後の山である金峯山には、山の嶮しさを頼みにして、敵はそれほど多くの軍勢を置いていることはあるまいと考えられる。足軽の兵を百五十人選抜して徒歩の兵士とし、夜陰に紛れて金峯山から忍んで山に入り、安善宝塔の上で夜がほのぼのと明けきるころ、鬨の声をあげよう。そうすれば城中の者どもは鬨の声に目を覚ましてあわてふためくであろうから、そのときに、正面の三方から攻めのぼって城を落し、大塔宮を生け捕り申しあげよう」と命令した。)

 (つづく)

 

〔短歌〕

「築岸の 下すぐ深き 朝の潮

       揺れ寄る毎に 石間鳴らすも」

         木下利玄・紅玉

〔俳句〕

「念力の ゆるめば死ぬる 大暑かな」村上鬼城

〔和歌〕

「夕されば 波こす池の 蓮葉に

        玉ゆりすふる 風のすずしさ」

          三条入道左大臣・玉葉423

「夕方になると、波が立ってかかる、池の蓮の葉をゆすって、かかった池水で美しい露の玉を葉の上にいくつもこしらえる、風の涼しいことよ。」

・ゆりすふる=揺り据ふる。葉にかかった水をゆすぶって玉にし、安定させる。

 

*秋艸道人、会津八一先生の歌集『鹿鳴集』より、奈良愛惜の歌。

〈山中高歌 大正九年五月

 山田温泉は長野県豊野駅の東四里の谿間にあり山色浄潔にして嶺上の白雲も以て餐ふべきをおもはしむかつて憂患懐きて此所に来たり遊ぶこと五六日にして帰れり爾来潭声のなほ耳にあるを覚ゆ〉

「おしなべて さぎりこめたる おほぞらに 

         なほたちのぼる あかつきのくも」

〈東京にかへるとて〉

「あをによし ならやまこへて さかるとも

         ゆめにしみえこ わかくさのやま」

〈東京にかへりて後に〉

「ならやまを さかりしひより あさにけに

         みてらみほとけ おもかげにたつ」

 「夢にまで見える若草山」「面影にたつ御寺御仏」はいつまでもたいせつに残しておきたいものです。

 

《当尾の里 浄瑠璃寺・岩船寺を奈良市の暴挙から守るために》

 

『土門拳 古寺を訪ねて 斑鳩から奈良へ』所収のエッセイより。

「浄瑠璃寺と石仏」

〈浄瑠璃寺の仏像

浄瑠璃寺は別に九体寺(くたいじ)とも、九品寺とも呼ばれている。九体寺とは西方極楽浄土の教主阿弥陀如来を意味し、現実に九体の阿弥陀像をまつっている。浄瑠璃寺の九体阿弥陀像は中尊一体だけが特に大きく像高は二・五メートルで、左右の八体は一・四メートルとわりあいに小さな寄木造で漆箔がおかれている。中尊は上品下生(じょうぼんげしょう)の印で、他の八体はすべて膝の上に両手の指を組み合わせた定印(じょういん)である。九体阿弥陀像は阿弥陀信仰の盛んであった藤原時代につくられたものである。

 浄瑠璃寺に現存する他の仏像のうち、正月と春秋二季だけ開帳する有名な吉祥天立像(建暦二年=1212)がある。木彫極彩色で藤原的であるが、奈良時代あたりの古像を手本にしてつくったとみられ、その美しい衣裳などの彩色文様は古風である。その厚化粧をした丸ポチャの麗人といった面貌は、不気味さを感じさせるほどの美しさである。

 吉祥天像の顔はうんと小さい。その顔は掌(てのひら)でつかめるほどの大きさである。

しもぶくれの頬に刻まれた切れ長の目は一番の魅力であろう。眼目広長にして顔貌静寂(がんぼうせいじゃく)。小さな唇は見るものに忘れがたい魅力を与える。仏像のうちでは、恐らく日本一の美人であろう。われわれはこの小さな仏像の魅力を永久に忘れないであろう。〉

 

*今、若草山の北麓、、正倉院、東大寺、春日山にも近く、京都府木津川市浄瑠璃寺南隣の「中ノ川・東鳴川」の地に、奈良市のごみ焼却場を建設するという古都破壊のとんでもない計画があります。          

 建設候補地は奈良市側ではありますが、京都府の浄瑠璃寺まで数百メートルの至近距離です。ここに焼却場ができ、高い煙突(計画の高さ80m)から煙が吐き出されることになれば、奈良側からの古都の歴史景観は台無しです。まるで若草山頂上から噴火したように見えます。また風向きによっては正倉院、東大寺にも煙が流れます。

そして当尾の里・浄瑠璃寺は平安時代の神聖な浄土庭園と国宝の堂塔、仏像文化財が排煙にまみれることになります。

このような事態は考えるのもおぞましいことで、最悪無謀な文化破壊です。

奈良市の策定委員会と奈良市長は計画を即刻白紙撤回すべきです。

この地域は、いにしえの奈良山丘陵でもあります。歴史ゆたかな青垣の山々を愛し、心のふるさととして心癒されている日本人がどれだけ大勢いることか、為政者は思いを致すべきです。

「やまとは 国のまほろば たたなづく

青垣やまごもれる やまとしうるはし」

  日本武尊(やまとたけるのみこと)・古事記

悠久の大和、奈良の山々は日本人の心のふるさと、国のまほろばです。

 

*仲川新市長どのに古都奈良の未来を要望します。

市長が選挙中に出された公約、ビジョンの柱にされていたのは、「世界から尊敬される国際観光経済都市NARA」でした。もしもこのビジョンを目ざすのであれば、現「ごみ焼却場」移設計画は「国際観光経済都市」にふさわしくないのではありませんか。当尾の里は奈良観光の一大拠点です。観光を重視するのであれば、観光地の入口にゴミ焼却工場はおかしいでしょう。京都の東山や嵐山にごみ工場が存在しますか。もし支障がないとお考えなら、いっそのこと奈良公園か平城宮跡にでも立地できますね。

第二期市政発足に当り、古都奈良の文化遺産を守り未来へ活かす観点を大切にし、そして千数百年の伝統をもち奈良の精神的支柱である宗教の尊厳に配慮するのであれば、現計画を白紙に戻し候補地選択をやり直すべきです。

仲川市長の後援会長は華厳宗前管長東大寺前別当の夫人、北河原孝子さんだそうですが、東大寺さんは現候補地で承諾しておられるのでしょうか。

私たち真言律宗の寺院は宗派を挙げて反対しています。また東大寺周辺の鼓阪(つざか)校区の全自治会も反対意見を市に申し入れられましたね。

市長さん、住民や宗教界の反対意見を無視して、ブルドーザーになりきって工事を強行するのですか。そんなことをして「世界から尊敬される」ことになると思われますか。

 この問題を詳しく知りたい方は、

ホームページ『奈良市クリーンセンター建設計画に関する課題について』をご覧ください。本計画の問題点が的確にまとめられています。HP「般若寺」からリンクされています。Img_6118

 

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2013年7月26日 (金)

般若寺 季節の花だより 7・26

 

《いま咲いている花》

○夏コスモス:≪終わり近し≫

○ヒツジ草:≪見ごろ≫ まっ白な水辺の花。日本の山地にある泉や池に自生する睡蓮の原生種。これから初秋まで咲き続けます。花は56センチの大きさ。

○秋海棠(しゅうかいどう): ≪咲きはじめ≫9月中旬まで咲く。 ハート形の緑色の大きい葉っぱに、ピンク色の小さい花が涼しげです。別名、瓔珞草(ようらくそう)とも。ベコニア属。江戸初期、中国から長崎へ園芸観賞用に伝えられたのがはじまり。全国に広まり、俳画などの画題に好まれている。

○百日紅(サルスベリ):≪咲きはじめ≫

《秋に咲く花》

○紫苑(シオン):9月中旬

○彼岸花:9月中旬

◎秋コスモス:9月中旬~11月中旬。35種類。10万本。

いま苗を植え付けています。真夏の日照と気温のおかげでよく育 っています。

コスモスは種まきから7080日で開花しますから咲く時期を設定し、日数をさかのぼって種をまきます。種類により咲く時期が違い、背丈も様々ですから庭の設計が大事です。あとは植え付け、水やり、除草など心を込めて世話をしてやれば、秋にはきれいな花を咲かせてくれます。

 

*「南朝御聖蹟を顕彰する」102

『太平記』巻第七 「出羽入道道蘊(どううん)芳野を攻むる事」

・本文:〈 同じき十八日卯の尅(こく)より互ひに矢合はせして、入れ替へ入れ替へ責めたたかふ。官軍は物馴れたる案内者なれば、ここかしこの逼(せま)り、難処に走り散つて、攻め合はせ開き合はせ、散々に射る。寄手は死生不知の坂東武士なれば、親は子の討たるれども顧みず、乗り越え乗り越え責め近づく。昼夜七日の間、息も継がず相戦ふに、城の中の勢三百余人誅(う)たれければ、寄手も八百余人打たれけり。〉

・訳:(同じ月の十八日、午後六時から、両軍互いに開戦の矢合せをして、新手を繰り出し繰り出しして激しく戦った。官軍は土地に慣れ、地理に明るい者たちなので、こちらの行き止まりやあちらの難所に走り散って、攻撃を集中したり散開したりして、散々に矢を射かけた。寄せ手は命知らずの関東武士なので、親は子が討たれても、屍を乗り越え乗り越えして、城へ攻め寄せつつ近づくのであった。昼夜七日の間、息もつがずに合戦したので、城中の軍勢は三百余人が討たれ、寄せ手も八百余人が討死した。)

 (つづく)

 

〔短歌〕

「くだけたる 波の白泡(しらあわ) いつさんに

         ひろがりつめん ときほひ寄せ来(く)も」

           木下利玄・紅玉

〔俳句〕

「その中の 噂の人と ゐて涼し」星野立子

〔和歌〕

「枝にもる 朝日のかげの すくなさに

        すずしさふかき 竹のおくかな」

         前大納言為兼・玉葉419

「枝々をすかしてさし入る朝日の光の少ないために、かえって涼しさが深い奥行きをもって感じられる、竹林の奥よ。」

・この歌は京極為兼の秀歌中随一の名作といわれる。

 

*秋艸道人、会津八一先生の歌集『鹿鳴集』より、奈良愛惜の歌。

〈山中高歌 大正九年五月

 山田温泉は長野県豊野駅の東四里の谿間にあり山色浄潔にして嶺上の白雲も以て餐ふべきをおもはしむかつて憂患懐きて此所に来たり遊ぶこと五六日にして帰れり爾来潭声のなほ耳にあるを覚ゆ〉

「かぎりなき みそらのはてを ゆくくもの

         いかにかなしき こころなるらむ」

〈東京にかへるとて〉

「あをによし ならやまこへて さかるとも

         ゆめにしみえこ わかくさのやま」

〈東京にかへりて後に〉

「ならやまを さかりしひより あさにけに

         みてらみほとけ おもかげにたつ」

 「夢にまで見える若草山」「面影にたつ御寺御仏」はいつまでもたいせつに残しておきたいものです。

 

《当尾の里 浄瑠璃寺・岩船寺を奈良市の暴挙から守るために》

 

『土門拳 古寺を訪ねて 斑鳩から奈良へ』所収のエッセイより。

「浄瑠璃寺と石仏」

〈浄瑠璃寺の仏像

浄瑠璃寺は別に九体寺(くたいじ)とも、九品寺とも呼ばれている。九体寺とは西方極楽浄土の教主阿弥陀如来を意味し、現実に九体の阿弥陀像をまつっている。浄瑠璃寺の九体阿弥陀像は中尊一体だけが特に大きく像高は二・五メートルで、左右の八体は一・四メートルとわりあいに小さな寄木造で漆箔がおかれている。中尊は上品下生(じょうぼんげしょう)の印で、他の八体はすべて膝の上に両手の指を組み合わせた定印(じょういん)である。九体阿弥陀像は阿弥陀信仰の盛んであった藤原時代につくられたものである。

 浄瑠璃寺に現存する他の仏像のうち、正月と春秋二季だけ開帳する有名な吉祥天立像(建暦二年=1212)がある。木彫極彩色で藤原的であるが、奈良時代あたりの古像を手本にしてつくったとみられ、その美しい衣裳などの彩色文様は古風である。その厚化粧をした丸ポチャの麗人といった面貌は、不気味さを感じさせるほどの美しさである。

 吉祥天像の顔はうんと小さい。その顔は掌(てのひら)でつかめるほどの大きさである。

しもぶくれの頬に刻まれた切れ長の目は一番の魅力であろう。眼目広長にして顔貌静寂(がんぼうせいじゃく)。小さな唇は見るものに忘れがたい魅力を与える。仏像のうちでは、恐らく日本一の美人であろう。われわれはこの小さな仏像の魅力を永久に忘れないであろう。〉

 

*今、若草山の北麓、、正倉院、東大寺、春日山にも近く、京都府木津川市浄瑠璃寺南隣の「中ノ川・東鳴川」の地に、奈良市のごみ焼却場を建設するという古都破壊のとんでもない計画があります。          

 建設候補地は奈良市側ではありますが、京都府の浄瑠璃寺まで数百メートルの至近距離です。ここに焼却場ができ、高い煙突(計画の高さ80m)から煙が吐き出されることになれば、奈良側からの古都の歴史景観は台無しです。まるで若草山頂上から噴火したように見えます。また風向きによっては正倉院、東大寺にも煙が流れます。

そして当尾の里・浄瑠璃寺は平安時代の神聖な浄土庭園と国宝の堂塔、仏像文化財が排煙にまみれることになります。

このような事態は考えるのもおぞましいことで、最悪無謀な文化破壊です。

奈良市の策定委員会と奈良市長は計画を即刻白紙撤回すべきです。

この地域は、いにしえの奈良山丘陵でもあります。歴史ゆたかな青垣の山々を愛し、心のふるさととして心癒されている日本人がどれだけ大勢いることか、為政者は思いを致すべきです。

「やまとは 国のまほろば たたなづく

青垣やまごもれる やまとしうるはし」

  日本武尊(やまとたけるのみこと)・古事記

悠久の大和、奈良の山々は日本人の心のふるさと、国のまほろばです。

 

*仲川新市長に要望します。

市長が選挙中に出された公約、ビジョンの柱にされていたのは、「世界から尊敬される国際観光経済都市NARA」でした。もしもこのビジョンを目ざすのであれば、現「ごみ焼却場」移設計画は「国際観光経済都市」にふさわしくないのではありませんか。当尾の里は奈良観光の一大拠点です。観光を重視するのであれば、観光地の入口にゴミ焼却工場はおかしいでしょう。京都の東山や嵐山にごみ工場が存在しますか。もし支障がないとお考えなら、いっそのこと奈良公園か平城宮跡にでも立地されたらどうですか。

第二期市政発足に当り、古都奈良の文化遺産を守り未来へ活かす観点を大切にし、そして千数百年の伝統をもち奈良の精神的支柱である宗教の尊厳に配慮するのであれば、現計画を白紙に戻し候補地選択をやり直すべきです。

仲川市長の後援会長は華厳宗前管長東大寺前別当の夫人、北河原孝子さんだそうですが、東大寺さんは現候補地で承諾しておられるのでしょうか。

私たち真言律宗の寺院は宗派を挙げて反対しています。また東大寺周辺の鼓阪(つざか)校区の全自治会も反対意見を市に申し入れられましたね。

市長さん、住民や宗教界の反対意見を無視して、ブルドーザーになりきって工事を強行するのですか。そんなことをして「世界から尊敬される」ことになると思われますか。

東大寺さんも他人事のように黙っていないで、そろそろ声を上げられてはいかがでしょうか。浄瑠璃寺の佐伯快勝師は真言律宗の宗務長です、皆さんご存知のお方ですね。

これは古都奈良に関わる人間にとって、良識の有無を問われる問題となります。

 この問題を詳しく知りたい方は、

ホームページ『奈良市クリーンセンター建設計画に関する課題について』をご覧ください。本計画の問題点が的確にまとめられています。HP「般若寺」からリンクされています。

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2013年7月25日 (木)

般若寺 季節の花だより 7・25

 

今日は御本尊文殊師利菩薩の月例御縁日です。午後一時半より法要を厳修します。

《いま咲いている花》

○夏コスモス:≪終わり近し≫

○ヒツジ草:≪見ごろ≫ 水辺の花。日本の山地にある泉や池に自生する睡蓮の原生種。これから初秋まで咲き続けます。花は56センチの大きさ。

○秋海棠(しゅうかいどう): ≪咲きはじめ≫ ハート形の緑の大きい葉っぱに、ピンク色の小さい花が涼しげです。別名、瓔珞草(ようらくそう)とも。ベコニア属。江戸初期、中国から長崎へ園芸観賞用に伝えられたのがはじまり。全国に広まり、俳画などの画題に好まれている。

《秋に咲く花》

◎秋コスモス:9月中旬~11月中旬。35種類。10万本。

いま苗を植え付けています。真夏の日照と気温のおかげでよく育 ちます。

コスモスは種まきから7080日で開花します。咲かせたい時期を設定し、日数をさかのぼって種をまきます。種類により咲く時期が違い、背丈も様々ですから庭の設計が大事です。あとは植え付け、水やり、除草など心を込めて世話をしてやれば、秋にはきれいな花を咲かせます。

 

〔短歌〕

「波の丈 遂にくつがへり 弾みあがり

       ひしめき寄する 荒き潮騒」

         木下利玄・紅玉

〔俳句〕

「般若坂 いくさがたりに 夏の塔」沙波

〔和歌〕

「虹のたつ ふもとの杉は 雲にきえて

        峯よりはるる 夕だちの雨」

          前太宰大弐俊兼

「虹の立つ山の、麓の杉は低い雲の中に消えて、高い峯から晴れて来る、夕立の雨よ。」

 

*秋艸道人、会津八一先生の歌集『鹿鳴集』より、奈良愛惜の歌。

ここからの十首は信州山田温泉へ行かれた折の歌です。

〈山中高歌 大正九年五月

 山田温泉は長野県豊野駅の東四里の谿間にあり山色浄潔にして嶺上の白雲も以て餐ふべきをおもはしむかつて憂患懐きて此所に来たり遊ぶこと五六日にして帰れり爾来潭声のなほ耳にあるを覚ゆ〉

「みすずかる しなののはての むらやまの

         みねふきわたる みなつきのかぜ」

〈東京にかへるとて〉

「あをによし ならやまこへて さかるとも

         ゆめにしみえこ わかくさのやま」

〈東京にかへりて後に〉

「ならやまを さかりしひより あさにけに

         みてらみほとけ おもかげにたつ」

 「夢にまで見える若草山」「面影にたつ御寺御仏」はいつまでもたいせつに残しておきたいものです。

 

*「南朝御聖蹟を顕彰する」101

『太平記』巻第七 「出羽入道道蘊(どううん)芳野を攻むる事」

・本文

〈正慶(しやうきやう)二年正月二十八日、二階堂出羽入道道蘊、六万余騎にて、大塔宮の籠り給ひたる吉野の城へ押し寄す。夏見河(なつみがは、菜摘川、大和国吉野郡菜摘)の川淀より城の方を見挙げたれば、峰には白旌・赤旌・錦の旌、太山下(みやまおろ)しに吹き乱し、雲か花かと怪しまる。麓には数千の官兵、甲の星を輝かし、鎧の袖を連ねて、錦繍(きんしう、錦や刺繍のある布)を布(し)ける地の如し。岸高くして路細く、山険しくして苔滑らかなれば、何十万騎の勢にて責むるとも、たやすく落つべしとは見えざりけり。〉

・訳

(正慶二年(1333)正月二十八日、二階堂出羽入道道蘊は六万余騎を率いて、大塔宮が立て籠もられていた吉野の城へ押し寄せた。

 菜摘川の淀んだ所から城の方を見上げると、峰には白旗・赤旗そして錦の旗が吉野の深山から吹いてくる風に乱されて、まるで雲か花かと見紛うほどだった。麓では数千の官軍が兜の鋲を輝かし、鎧の袖を連ねて並び、その様子は、まるで大地に美しい織物を敷いたようだった。峯は高くて、そこへ至る道は細く、山は険しくて、道に生えている苔は滑りやすいので、何十万騎という軍勢で攻めるとしても、簡単に落城するだろうとは見えなかった。)

 (つづく)

 

《当尾の里 浄瑠璃寺・岩船寺を奈良市の暴挙から守るために》

 

『土門拳 古寺を訪ねて 斑鳩から奈良へ』所収のエッセイより。

「浄瑠璃寺と石仏」

〈浄瑠璃寺の仏像

浄瑠璃寺は別に九体寺(くたいじ)とも、九品寺とも呼ばれている。九体寺とは西方極楽浄土の教主阿弥陀如来を意味し、現実に九体の阿弥陀像をまつっている。浄瑠璃寺の九体阿弥陀像は中尊一体だけが特に大きく像高は二・五メートルで、左右の八体は一・四メートルとわりあいに小さな寄木造で漆箔がおかれている。中尊は上品下生(じょうぼんげしょう)の印で、他の八体はすべて膝の上に両手の指を組み合わせた定印(じょういん)である。九体阿弥陀像は阿弥陀信仰の盛んであった藤原時代につくられたものである。

 浄瑠璃寺に現存する他の仏像のうち、正月と春秋二季だけ開帳する有名な吉祥天立像(建暦二年=1212)がある。木彫極彩色で藤原的であるが、奈良時代あたりの古像を手本にしてつくったとみられ、その美しい衣裳などの彩色文様は古風である。その厚化粧をした丸ポチャの麗人といった面貌は、不気味さを感じさせるほどの美しさである。

 吉祥天像の顔はうんと小さい。その顔は掌(てのひら)でつかめるほどの大きさである。

しもぶくれの頬に刻まれた切れ長の目は一番の魅力であろう。眼目広長にして顔貌静寂(がんぼうせいじゃく)。小さな唇は見るものに忘れがたい魅力を与える。仏像のうちでは、恐らく日本一の美人であろう。われわれはこの小さな仏像の魅力を永久に忘れないであろう。〉

 

*今、若草山の北麓、、正倉院、東大寺、春日山にも近く、京都府木津川市浄瑠璃寺南隣の「中ノ川・東鳴川」の地に、奈良市のごみ焼却場を建設するという古都破壊のとんでもない計画があります。          

 建設候補地は奈良市側ではありますが、京都府の浄瑠璃寺まで数百メートルの至近距離です。ここに焼却場ができ、高い煙突(計画の高さ80m)から煙が吐き出されることになれば、奈良側からの古都の歴史景観は台無しです。まるで若草山頂上から噴火したように見えます。また風向きによっては正倉院、東大寺にも煙が流れます。

そして当尾の里・浄瑠璃寺は平安時代の神聖な浄土庭園と国宝の堂塔、仏像文化財が排煙にまみれることになります。

このような事態は考えるのもおぞましいことで、最悪無謀な文化破壊です。

奈良市の策定委員会と奈良市長は計画を即刻白紙撤回すべきです。

この地域は、いにしえの奈良山丘陵でもあります。歴史ゆたかな青垣の山々を愛し、心のふるさととして心癒されている日本人がどれだけ大勢いることか、為政者は思いを致すべきです。

「やまとは 国のまほろば たたなづく

青垣やまごもれる やまとしうるはし」

  日本武尊(やまとたけるのみこと)・古事記

悠久の大和、奈良の山々は日本人の心のふるさと、国のまほろばです。

 

*仲川げん市長の再選おめでとうございます。

仲川市長が選挙中に出された公約、「世界から尊敬される国際観光経済都市NARA」を目ざすのであれば、現「ごみ焼却場」移設計画を白紙に戻し、古都奈良の文化遺産を守り未来へ伝える使命を果す観点から、そして千数百年の伝統をもつ宗教の尊厳に配慮する立場から候補地選択をやり直すべきです。

仲川市長の後援会長は東大寺の前管長の夫人、北河原孝子さんだそうですが、東大寺さんは現候補地で承諾しておられるのでしょうか。

私たち真言律宗の寺院は宗派を挙げて反対しています。また東大寺周辺の鼓阪(つざか)校区の全自治会も反対意見を市に申し入れられましたね。

市長さん、住民や宗教界の反対意見を無視して、ブルドーザーになって工事を強行するのですか。そんなことをして「世界から尊敬される」ことになると思われますか。

東大寺さんも黙っていないでなんとか声を上げられてはいかがでしょうか。

これは古都奈良に関わる人間にとって良識の有る無しの問題となりますからね。

 この問題を詳しく知りたい方は、

ホームページ『奈良市クリーンセンター建設計画に関する課題について』をご覧ください。本計画の問題点が的確にまとめられています。HP「般若寺」からリンクされています。


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2013年7月24日 (水)

般若寺 季節の花だより  7・24

 

今日は地蔵菩薩の御縁日、地蔵会(じぞうえ)です。昨晩は各ご町内で地蔵祭りがありました。道端でおまつりされているのでたいへん身近でなじみ深い仏さまです。本来の名は「クシティ・ガルバ」(大地・母の胎内)といって、「大地のような広大な慈悲をもった仏」で、地獄の苦しみをも救ってくださいます。子どもの命をはぐくむ仏でもあります。

《いま咲いている花》

○夏コスモス:≪終わり近し≫

○ヒツジ草:≪見ごろ≫ 水辺の花。日本の山地にある泉や池に自生する睡蓮の原生種。これから初秋まで咲き続けます。花は56センチの大きさ。

○秋海棠(しゅうかいどう): ≪咲きはじめ≫ ハート形の緑の大きい葉っぱに、ピンク色の小さい花が涼しげです。別名、瓔珞草(ようらくそう)とも。ベコニア属。江戸初期、中国から長崎へ園芸観賞用に伝えられたのがはじまり。全国に広まり、俳画などの画題に好まれている。

《秋に咲く花》

◎秋コスモス:9月中旬~11月中旬。35種類。10万本。

いま苗を植え付けています。真夏の日照と気温のおかげでよく育 ちます。

コスモスは種まきから7080日で開花します。咲かせたい時期を設定し、日数をさかのぼって種をまきます。種類により咲く時期が違い、背丈も様々ですから庭の設計が大事です。あとは植え付け、水やり、除草など心を込めて世話をしてやれば、秋にはきれいな花を咲かせます。

 

 

〔短歌〕

「ほしいままに のびあがりたる 波のおもみ

          倒れ畳まり とどろと鳴るも」

            木下利玄・紅玉

〔俳句〕

「雨ながら 朝日まばゆし 秋海棠」水原秋桜子

〔和歌〕

「行きなやみ てる日くるしき 山みちに

         ぬるともよしや 夕立の雨」

           徽安門院・風雅409

「暑さにゆきなやんで、照りつける日光が苦しい山道では、たとえ濡れてもそれが有難い、夕立の雨よ。」

 

*秋艸道人、会津八一先生の歌集『鹿鳴集』より、奈良愛惜の歌。

〈戒壇院をいでて〉

「びるばくしや まゆねよせたる まなざしを

         まなこにみつつ あきののをゆく」

〈東京にかへるとて〉

「あをによし ならやまこへて さかるとも

         ゆめにしみえこ わかくさのやま」

〈東京にかへりて後に〉

「ならやまを さかりしひより あさにけに

         みてらみほとけ おもかげにたつ」

 「夢にまで見える若草山」「面影にたつ御寺御仏」はいつまでもたいせつに残しておきたいものです。

 *「南朝御聖蹟を顕彰する」 (お休み)

《当尾の里 浄瑠璃寺・岩船寺を奈良市の暴挙から守るために》

『土門拳 古寺を訪ねて 斑鳩から奈良へ』所収のエッセイより。

「浄瑠璃寺と石仏」

〈浄瑠璃寺の仏像

浄瑠璃寺は別に九体寺(くたいじ)とも、九品寺とも呼ばれている。九体寺とは西方極楽浄土の教主阿弥陀如来を意味し、現実に九体の阿弥陀像をまつっている。浄瑠璃寺の九体阿弥陀像は中尊一体だけが特に大きく像高は二・五メートルで、左右の八体は一・四メートルとわりあいに小さな寄木造で漆箔がおかれている。中尊は上品下生(じょうぼんげしょう)の印で、他の八体はすべて膝の上に両手の指を組み合わせた定印(じょういん)である。九体阿弥陀像は阿弥陀信仰の盛んであった藤原時代につくられたものである。

 浄瑠璃寺に現存する他の仏像のうち、正月と春秋二季だけ開帳する有名な吉祥天立像(建暦二年=1212)がある。木彫極彩色で藤原的であるが、奈良時代あたりの古像を手本にしてつくったとみられ、その美しい衣裳などの彩色文様は古風である。その厚化粧をした丸ポチャの麗人といった面貌は、不気味さを感じさせるほどの美しさである。

 吉祥天像の顔はうんと小さい。その顔は掌(てのひら)でつかめるほどの大きさである。

しもぶくれの頬に刻まれた切れ長の目は一番の魅力であろう。眼目広長にして顔貌静寂(がんぼうせいじゃく)。小さな唇は見るものに忘れがたい魅力を与える。仏像のうちでは、恐らく日本一の美人であろう。われわれはこの小さな仏像の魅力を永久に忘れないであろう。〉

 

*今、若草山の北麓、、正倉院、東大寺、春日山にも近く、京都府木津川市浄瑠璃寺南隣の「中ノ川・東鳴川」の地に、奈良市のごみ焼却場を建設するという古都破壊のとんでもない計画があります。          

 建設候補地は奈良市側ではありますが、京都府の浄瑠璃寺まで数百メートルの至近距離です。ここに焼却場ができ、高い煙突(計画の高さ80m)から煙が吐き出されることになれば、奈良側からの古都の歴史景観は台無しです。まるで若草山頂上から噴火したように見えます。また風向きによっては正倉院、東大寺にも煙が流れます。

そして当尾の里・浄瑠璃寺は平安時代の神聖な浄土庭園と国宝の堂塔、仏像文化財が排煙にまみれることになります。

このような事態は考えるのもおぞましいことで、最悪無謀な文化破壊です。

奈良市の策定委員会と奈良市長は計画を即刻白紙撤回すべきです。

この地域は、いにしえの奈良山丘陵でもあります。歴史ゆたかな青垣の山々を愛し、心のふるさととして心癒されている日本人がどれだけ大勢いることか、為政者は思いを致すべきです。

「やまとは 国のまほろば たたなづく

青垣やまごもれる やまとしうるはし」

  日本武尊(やまとたけるのみこと)・古事記

悠久の大和、奈良の山々は日本人の心のふるさと、国のまほろばです。

 

*仲川げん市長は選挙公報に出した公約、「世界から尊敬される国際観光経済都市NARA」をめざすためにも、現「ごみ焼却場」移設計画を白紙に戻し、古都奈良の文化遺産を守る使命と、千数百年の伝統をもつ宗教の尊厳を考慮して一から見直すべきです。

仲川さん、ここはあなたの後援者である東大寺さんのお近くですよ。東大寺さんは承認しておられますか。

 この問題を詳しく知りたい方は、

ホームページ『奈良市クリーンセンター建設計画に関する課題について』をご覧ください。本計画の問題点が的確にまとめられています。HP「般若寺」からリンクされています。

 

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2013年7月23日 (火)

般若寺 季節の花だより  7・23

 

《いま咲いている花》

○夏コスモス:≪終わり近し≫

○ヒツジ草:≪見ごろ≫ 水辺の花。日本の山地にある泉や池に自生する睡蓮の原生種。これから初秋まで咲き続けます。花は56センチの大きさ。

○秋海棠(しゅうかいどう): ≪咲きはじめ≫ ハート形の緑の大きい葉っぱに、ピンク色の小さい花が涼しげです。別名、瓔珞草(ようらくそう)とも。ベコニア属。江戸初期、中国から長崎へ園芸観賞用に伝えられたのがはじまり。全国に広まり、俳画などの画題に好まれている。

《秋に咲く花》

◎秋コスモス:9月中旬~11月中旬。35種類。10万本。

いま苗を植え付けています。真夏の日照と気温のおかげでよく育 ちます。

コスモスは種まきから7080日で開花します。咲かせたい時期を設定し、日数をさかのぼって種をまきます。種類により咲く時期が違い、背丈も様々ですから庭の設計が大事です。あとは植え付け、水やり、除草など心を込めて世話をしてやれば、秋にはきれいな花を咲かせます。

 

短歌〕

「海の波 磯を間近み 覆(くつが)へり

       はやりたちさわぎ ましぐらに寄す」

         木下利玄・紅玉

〔俳句〕

「大塔宮 在(いま)せし寺や 百日紅」子牛

〔和歌〕

「たちのぼり みなみのはてに 雲はあれど

         てる日くまなき ころの大空」

           前中納言定家・玉葉417

「高く立ちのぼって、はるか南方の果てにはくもがあるのだけれど、照りつける日光にはかげりもない、全くの酷暑の頃の大空よ。」

 

*秋艸道人、会津八一先生の歌集『鹿鳴集』より、奈良愛惜の歌。

〈阿修羅の像に〉

「けふもまた いくたりたちて なげきけむ

         あじゆらがまゆの あさきひかげに」

〈東京にかへるとて〉

「あをによし ならやまこへて さかるとも

         ゆめにしみえこ わかくさのやま」

〈東京にかへりて後に〉

「ならやまを さかりしひより あさにけに

         みてらみほとけ おもかげにたつ」

 「夢にまで見える若草山」「面影にたつ御寺御仏」はいつまでもたいせつに残しておきたいものです。

 

*「南朝御聖蹟を顕彰する」

 

《当尾の里 浄瑠璃寺・岩船寺を奈良市の暴挙から守るために》

『土門拳 古寺を訪ねて 斑鳩から奈良へ』所収のエッセイより。

「浄瑠璃寺と石仏」

〈浄瑠璃寺の仏像

浄瑠璃寺は別に九体寺(くたいじ)とも、九品寺とも呼ばれている。九体寺とは西方極楽浄土の教主阿弥陀如来を意味し、現実に九体の阿弥陀像をまつっている。浄瑠璃寺の九体阿弥陀像は中尊一体だけが特に大きく像高は二・五メートルで、左右の八体は一・四メートルとわりあいに小さな寄木造で漆箔がおかれている。中尊は上品下生(じょうぼんげしょう)の印で、他の八体はすべて膝の上に両手の指を組み合わせた定印(じょういん)である。九体阿弥陀像は阿弥陀信仰の盛んであった藤原時代につくられたものである。

 浄瑠璃寺に現存する他の仏像のうち、正月と春秋二季だけ開帳する有名な吉祥天立像(建暦二年=1212)がある。木彫極彩色で藤原的であるが、奈良時代あたりの古像を手本にしてつくったとみられ、その美しい衣裳などの彩色文様は古風である。その厚化粧をした丸ポチャの麗人といった面貌は、不気味さを感じさせるほどの美しさである。

 吉祥天像の顔はうんと小さい。その顔は掌(てのひら)でつかめるほどの大きさである。

しもぶくれの頬に刻まれた切れ長の目は一番の魅力であろう。眼目広長にして顔貌静寂(がんぼうせいじゃく)。小さな唇は見るものに忘れがたい魅力を与える。仏像のうちでは、恐らく日本一の美人であろう。われわれはこの小さな仏像の魅力を永久に忘れないであろう。〉

 

*今、若草山の北麓、、正倉院、東大寺、春日山にも近く、京都府木津川市浄瑠璃寺南隣の「中ノ川・東鳴川」の地に、奈良市のごみ焼却場を建設するという古都破壊のとんでもない計画があります。          

 建設候補地は奈良市側ではありますが、京都府の浄瑠璃寺まで数百メートルの至近距離です。ここに焼却場ができ、高い煙突(計画の高さ80m)から煙が吐き出されることになれば、奈良側からの古都の歴史景観は台無しです。まるで若草山頂上から噴火したように見えます。また風向きによっては正倉院、東大寺にも煙が流れます。

そして当尾の里・浄瑠璃寺は平安時代の神聖な浄土庭園と国宝の堂塔、仏像文化財が排煙にまみれることになります。

このような事態は考えるのもおぞましいことで、最悪無謀な文化破壊です。

奈良市の策定委員会と奈良市長は計画を即刻白紙撤回すべきです。

この地域は、いにしえの奈良山丘陵でもあります。歴史ゆたかな青垣の山々を愛し、心のふるさととして心癒されている日本人がどれだけ大勢いることか、為政者は思いを致すべきです。

「やまとは 国のまほろば たたなづく

青垣やまごもれる やまとしうるはし」

  日本武尊(やまとたけるのみこと)・古事記

悠久の大和、奈良の山々は日本人の心のふるさと、国のまほろばです。

 

*このたびの選挙で新奈良市長が決まり、現職の仲川げん氏再選。新市長は自らの公約である「世界から尊敬される国際観光経済都市NARA」を実現するために、現「ごみ焼却場」移設計画を白紙に戻し、古都奈良の文化遺産を守る使命と、千数百年の伝統をもつ宗教の尊厳を考慮して一から見直すべきです。

仲川さん、ここは東大寺さんも近いですよ。

 この問題を詳しく知りたい方は、

ホームページ『奈良市クリーンセンター建設計画に関する課題について』をご覧ください。本計画の問題点が的確にまとめられています。HP「般若寺」からリンクされています。

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2013年7月22日 (月)

般若寺 季節の花だより  7・22

 

《いま咲いている花》

○夏コスモス:≪終わり近し≫

○ヒツジ草:≪見ごろ≫ 水辺の花。日本の山地にある泉や池に自生する睡蓮の原生種。これから初秋まで咲き続けます。花は56センチの大きさ。

○秋海棠(しゅうかいどう): ≪咲きはじめ≫ ハート形の緑の大きい葉っぱに、ピンク色の小さい花が涼しげです。別名、瓔珞草(ようらくそう)とも。ベコニア属。江戸初期、中国から長崎へ園芸観賞用に伝えられたのがはじまり。全国に広まり、俳画などの画題に好まれている。

《秋に咲く花》

◎秋コスモス:9月中旬~11月中旬。35種類。10万本。

いま苗を植え付けています。真夏の日照と気温のおかげでよく育 ちます。

コスモスは種まきから7080日で開花します。咲かせたい時期を設定し、日数をさかのぼって種をまきます。種類により咲く時期が違い、背丈も様々ですから庭の設計が大事です。あとは植え付け、水やり、除草など心を込めて世話をしてやれば、秋にはきれいな花を咲かせます。

 

〔短歌〕

「海(わた)の波 めがけたる磯に 遂により

       力かたむけ 倒れとよめり」

         木下利玄・紅玉

〔俳句〕

「湯上がりの 項(うなじ)匂ふよ 地蔵盆」三村純也

〔和歌〕

「松をはらふ かぜはすそのの 草におちて

         夕だつ雲に 雨きをふ也」

           前大納言為兼・風雅408

「松を吹き払う風は、裾野の草に荒々しく吹きつけ、夕立の気を含んで立ち満ちる雲と競って、雨が落ちてくる気配だ。」

 

*秋艸道人、会津八一先生の歌集『鹿鳴集』『山光集』より、奈良愛惜の歌。

〈阿修羅の像に〉

「ゆくりなき もののおもひに かかげたる

         うでさへそらに わすれたつらし」

〈東京にかへるとて〉

「あをによし ならやまこへて さかるとも

         ゆめにしみえこ わかくさのやま」

〈東京にかへりて後に〉

「ならやまを さかりしひより あさにけに

         みてらみほとけ おもかげにたつ」

 「夢にまで見える若草山」「面影にたつ御寺御仏」はいつまでもたいせつに残しておきたいものです。

 

*「南朝御聖蹟を顕彰する」100

大塔宮:

『太平記』巻第五 「大塔宮南都御隠居後(のち)十津川御栖(おんすま)ひの事」(別写本では「大塔宮熊野落事(をほたうのみやくまのをちのこと)」

・本文

〈 宮この事をつくづくと御思案あるに、ただ事とも覚えずと、大いに怪しませ給ひて、年来(としごろ)御身を放されずかけさせ給ひたる膚の御守り御覧ずれば、北野天神の御神体を金銅にて鋳進(いまゐ)らせられて懸けさせ給ひたりけるが、その御眷属老松の御体、身に汗を流させ給ひて、御足に土の付きたりけるこそ不思議なれ。〉

・訳

(大塔宮はこのことをつくづくとご思案なさり、ただごととは思われないと、大いに不審がり、長年肌身離さずおかけになっていらっしゃるお守りをご覧になると、北野天神のご神体を金銅で鋳造しておかけになっていたが、天神のご眷属である老松明神の御体が全身に汗をかいて、御足に土がついていたのは不思議であった。)

・本文

〈「つらつらこの奇瑞を思し食(め)せば、佳運(かうん)神慮に相叶へり。逆徒の退治、何の疑ひかあるべき」とて、宮はこれより野長瀬兄弟を食(め)し具せられ、槙野上野実胤(まきのかうづけさねたね)が城へ入らせ給ひしが、分内(ぶんない、境界の中)狭くして計略の及びがたきを憚り思し食(め)して、吉野の大衆を語らひありしかば、衆徒子細なく入れ奉りにけり。すなはち、安善宝塔(あんぜんほうたう、吉野山の愛染越えにあった安禅寺蔵王堂)を城郭に構へ、岩切り通し行く水の、芳野の川を前に当て、三千余騎にて立て籠らせ給ひたりとぞ聞えし。この宮、かかる用害に籠らせ給へば、世間静かにはあらじと、恐れぬ物もなかりけり。〉

・訳

(「よくよくこの奇瑞を考えると、運がよいのは神の思し召しにかなったのだ。逆賊の退治は何の疑いがあろう」と、宮はここから野長瀬兄弟をお連れになり、槙野上野実胤の城へお入りになられたが、場内が狭く、策略が十分に実行できないのを支障ありとお考えになり、吉野の僧徒をお味方にしたので、僧徒たちは宮を問題なく吉野へお入れ申しあげた。そこで、愛善宝塔を城に造りかえ、岩をも切り通して流れる吉野川を前面に当てて、三千余騎の軍勢で立て籠もられたということだった。宮がこのような要害の地に籠られたということだった。宮がこのような要害の地に籠られたので、世の中は静かにはなるまいと、恐れない者はなかった。)  (この段終わり)

 

《当尾の里 浄瑠璃寺・岩船寺を奈良市の暴挙から守るために》

『土門拳 古寺を訪ねて 斑鳩から奈良へ』所収のエッセイより。

「浄瑠璃寺と石仏」

〈浄瑠璃寺の仏像

浄瑠璃寺は別に九体寺(くたいじ)とも、九品寺とも呼ばれている。九体寺とは西方極楽浄土の教主阿弥陀如来を意味し、現実に九体の阿弥陀像をまつっている。浄瑠璃寺の九体阿弥陀像は中尊一体だけが特に大きく像高は二・五メートルで、左右の八体は一・四メートルとわりあいに小さな寄木造で漆箔がおかれている。中尊は上品下生(じょうぼんげしょう)の印で、他の八体はすべて膝の上に両手の指を組み合わせた定印(じょういん)である。九体阿弥陀像は阿弥陀信仰の盛んであった藤原時代につくられたものである。

 浄瑠璃寺に現存する他の仏像のうち、正月と春秋二季だけ開帳する有名な吉祥天立像(建暦二年=1212)がある。木彫極彩色で藤原的であるが、奈良時代あたりの古像を手本にしてつくったとみられ、その美しい衣裳などの彩色文様は古風である。その厚化粧をした丸ポチャの麗人といった面貌は、不気味さを感じさせるほどの美しさである。

 吉祥天像の顔はうんと小さい。その顔は掌(てのひら)でつかめるほどの大きさである。

しもぶくれの頬に刻まれた切れ長の目は一番の魅力であろう。眼目広長にして顔貌静寂(がんぼうせいじゃく)。小さな唇は見るものに忘れがたい魅力を与える。仏像のうちでは、恐らく日本一の美人であろう。われわれはこの小さな仏像の魅力を永久に忘れないであろう。〉

 

*今、若草山の北麓、、正倉院、東大寺、春日山にも近く、京都府木津川市浄瑠璃寺南隣の「中ノ川・東鳴川」の地に、奈良市のごみ焼却場を建設するという古都破壊のとんでもない計画があります。          

 建設候補地は奈良市側ではありますが、京都府の浄瑠璃寺まで数百メートルの至近距離です。ここに焼却場ができ、高い煙突(計画の高さ80m)から煙が吐き出されることになれば、奈良側からの古都の歴史景観は台無しです。まるで若草山頂上から噴火したように見えます。また風向きによっては正倉院、東大寺にも煙が流れます。

そして当尾の里・浄瑠璃寺は平安時代の神聖な浄土庭園と国宝の堂塔、仏像文化財が排煙にまみれることになります。

このような事態は考えるのもおぞましいことで、最悪無謀な文化破壊です。

奈良市の策定委員会と奈良市長は計画を即刻白紙撤回すべきです。

この地域は、いにしえの奈良山丘陵でもあります。歴史ゆたかな青垣の山々を愛し、心のふるさととして心癒されている日本人がどれだけ大勢いることか、為政者は思いを致すべきです。

「やまとは 国のまほろば たたなづく

青垣やまごもれる やまとしうるはし」

  日本武尊(やまとたけるのみこと)・古事記

悠久の大和、奈良の山々は日本人の心のふるさと、国のまほろばです。

 

*作日の選挙で新奈良市長が決まりました。現職の仲川げん氏再選。新市長は公約とした「世界から尊敬される国際観光経済都市NARA」をまもるためにも、「ごみ焼却場」移設計画を白紙に戻し、古都奈良の文化遺産を守る使命と、千数百年の伝統をもつ宗教の尊厳を考慮して一から見直すべきです。

 この問題を詳しく知りたい方は、

ホームページ『奈良市クリーンセンター建設計画に関する課題について』をご覧ください。本計画の問題点が的確にまとめられています。HP「般若寺」からリンクされています。Img_6099

Img_6104

 

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2013年7月21日 (日)

般若寺 季節の花だより  7・21

 

《いま咲いている花》

○夏コスモス:≪終わり近し≫

○ヒツジ草:≪見ごろ≫ 水辺の花。日本の山地にある泉や池に自生する睡蓮の原生種。これから初秋まで咲き続けます。花は56センチの大きさ。

○秋海棠(しゅうかいどう): ≪咲きはじめ≫ ハート形の緑の大きい葉っぱに、ピンク色の小さい花が涼しげです。別名、瓔珞草(ようらくそう)とも。ベコニア属。江戸初期、中国から長崎へ園芸観賞用に伝えられたのがはじまり。全国に広まり、俳画などの画題に好まれている。

《秋に咲く花》

◎秋コスモス:9月中旬~11月中旬。35種類。10万本。

いま苗を植え付けています。真夏の日照と気温のおかげでよく育 ちます。

コスモスは種まきから7080日で開花します。咲かせたい時期を設定し、日数をさかのぼって種をまきます。種類により咲く時期が違い、背丈も様々ですから庭の設計が大事です。あとは植え付け、水やり、除草など心を込めて世話をしてやれば、秋にはきれいな花を咲かせます。

 

〔短歌〕

「朝の潮 ゆたかにみてり 築岸(つきぎし)に

       上(うは)揺れ波の 上り下りすも」

         木下利玄・紅玉

〔俳句〕

「睡蓮や 鬢に手あてて 水鏡」杉田久女

〔和歌〕

「山たかみ 梢にあらき 風たちて

        谷よりのぼる ゆふだちの雲」

    常磐井入道前太政大臣(西園寺実氏)・玉葉412

「今私のいる山は大変高くて、木々の梢に荒々しい風が吹き立ったと思う間もなく、谷底から湧きのぼって来る夕立の雲よ。」

 

*秋艸道人、会津八一先生の歌集『鹿鳴集』より、奈良愛惜の歌。

〈十四日奈良帝室博物館にいたり富楼那の像を見て〉

「ならやまの かぜさむからし みんなみの

         べんしやがかたに うすきころもで」

〈東京にかへるとて〉

「あをによし ならやまこへて さかるとも

         ゆめにしみえこ わかくさのやま」

〈東京にかへりて後に〉

「ならやまを さかりしひより あさにけに

         みてらみほとけ おもかげにたつ」

 「夢にまで見える若草山」「面影にたつ御寺御仏」はいつまでもたいせつに残しておきたいものです。

 

*「南朝御聖蹟を顕彰する」99

大塔宮:

『太平記』巻第五 「大塔宮南都御隠居後(のち)十津川御栖(おんすま)ひの事」(別写本では「大塔宮熊野落事(をほたうのみやくまのをちのこと)」

・本文

〈野長瀬畏(かしこ)まつて、「昨日の昼程に、年十四、五ばかりなる童子一人、宮の御使と名乗つて、[明日十津河を御出であつて、小原へ御通りあるべきに、一定(いちぢやう)道にて難に遇はせ給ひぬと覚ゆるぞ。御志を存ぜば、急ぎ御迎へに参れ]と、仰せ下さるる間、名を尋ね候ひしかば、[老松(おいまつ)と申すなり]と云ひ捨てて、罷り帰られ候ひし。忠義を存ずる故に、これまで御迎へに参りたり」とぞ申しける。〉

・訳

(野長瀬はかしこまって、「昨日の昼ごろ、年のほど十四、五歳くらいの少年が一人、宮様のお使いと名乗って、[明日十津川をご出発なさって、小原へお向かいになるが、きっと道中で災難にお遭いになると思われる。宮のお志を理解する者は、急ぎお迎えに参れ]と仰せなされたので、名前をお尋ねしたところ、[老松と言います]とだけ言い、帰っておしまいになりました。忠義の志がありましたので、ここまでお迎えに参りました」と申した。)

 (つづく)

 

《当尾の里 浄瑠璃寺・岩船寺を奈良市の暴挙から守るために》

『土門拳 古寺を訪ねて 斑鳩から奈良へ』所収のエッセイより。

「浄瑠璃寺と石仏」

〈浄瑠璃寺の仏像

浄瑠璃寺は別に九体寺(くたいじ)とも、九品寺とも呼ばれている。九体寺とは西方極楽浄土の教主阿弥陀如来を意味し、現実に九体の阿弥陀像をまつっている。浄瑠璃寺の九体阿弥陀像は中尊一体だけが特に大きく像高は二・五メートルで、左右の八体は一・四メートルとわりあいに小さな寄木造で漆箔がおかれている。中尊は上品下生(じょうぼんげしょう)の印で、他の八体はすべて膝の上に両手の指を組み合わせた定印(じょういん)である。九体阿弥陀像は阿弥陀信仰の盛んであった藤原時代につくられたものである。

 浄瑠璃寺に現存する他の仏像のうち、正月と春秋二季だけ開帳する有名な吉祥天立像(建暦二年=1212)がある。木彫極彩色で藤原的であるが、奈良時代あたりの古像を手本にしてつくったとみられ、その美しい衣裳などの彩色文様は古風である。その厚化粧をした丸ポチャの麗人といった面貌は、不気味さを感じさせるほどの美しさである。

 吉祥天像の顔はうんと小さい。その顔は掌(てのひら)でつかめるほどの大きさである。

しもぶくれの頬に刻まれた切れ長の目は一番の魅力であろう。眼目広長にして顔貌静寂(がんぼうせいじゃく)。小さな唇は見るものに忘れがたい魅力を与える。仏像のうちでは、恐らく日本一の美人であろう。われわれはこの小さな仏像の魅力を永久に忘れないであろう。〉

 

*今、若草山の北麓、、正倉院、東大寺、春日山にも近く、京都府木津川市浄瑠璃寺南隣の「中ノ川・東鳴川」の地に、奈良市のごみ焼却場を建設するという古都破壊のとんでもない計画があります。          

 建設候補地は奈良市側ではありますが、京都府の浄瑠璃寺まで数百メートルの至近距離です。ここに焼却場ができ、高い煙突(計画の高さ80m)から煙が吐き出されることになれば、奈良側からの古都の歴史景観は台無しです。まるで若草山頂上から噴火したように見えます。また風向きによっては正倉院、東大寺にも煙が流れます。

そして当尾の里・浄瑠璃寺は平安時代の神聖な浄土庭園と国宝の堂塔、仏像文化財が排煙にまみれることになります。

このような事態は考えるのもおぞましいことで、最悪無謀な文化破壊です。

奈良市の策定委員会と奈良市長は計画を即刻白紙撤回すべきです。

この地域は、いにしえの奈良山丘陵でもあります。歴史ゆたかな青垣の山々を愛し、心のふるさととして心癒されている日本人がどれだけ大勢いることか、為政者は思いを致すべきです。

「やまとは 国のまほろば たたなづく

青垣やまごもれる やまとしうるはし」

  日本武尊(やまとたけるのみこと)・古事記

悠久の大和、奈良の山々は日本人の心のふるさと、国のまほろばです。

 

*本日の選挙で新たに奈良市長が選出されます。どなたであれ、古都奈良の未来を決定する「ごみ焼却場」建設は、百年の大計に立った都市計画と、世界の文化遺産を守る使命と、千三百年の伝統をもつ宗教の尊厳を考慮して一から見直すべきです。

 この問題を詳しく知りたい方は、

ホームページ『奈良市クリーンセンター建設計画に関する課題について』をご覧ください。本計画の問題点が的確にまとめられています。HP「般若寺」からリンクされています。Img_6106_2


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2013年7月20日 (土)

般若寺 季節の花だより  7・20

 

《いま咲いている花》

○夏コスモス:≪終わり近し≫

○ヒツジ草:≪見ごろ≫ 水辺の花。日本の山地にある泉や池に自生する睡蓮の原生種。これから初秋まで咲き続けます。花は56センチの大きさ。

○秋海棠(しゅうかいどう): ≪咲きはじめ≫ ハート形の緑の大きい葉っぱに、ピンク色の小さい花が涼しげです。別名、瓔珞草(ようらくそう)とも。ベコニア属。江戸初期、中国から長崎へ園芸観賞用に伝えられたのがはじまり。全国に広まり、俳画などの画題に好まれている。

《秋に咲く花》

◎秋コスモス:9月中旬~11月中旬。35種類。10万本。

いま苗を植え付けています。真夏の日照と気温のおかげでよく育ちます。

コスモスは種まきから7080日で開花します。咲かせたい時期を設定し、日数をさかのぼって種をまきます。種類により咲く時期が違い、背丈も様々ですから庭の設計が大事です。あとは植え付け、水やり、除草など心を込めて世話をしてやれば、秋にはきれいな花を咲かせます。

 

〔短歌〕

「風邪の後 始めて入れる 湯上りの

        つかれに抱かれ 物音をきく」

          木下利玄・銀

〔俳句〕

「筆洗ふ 水を切りたり 秋海棠」中西舗土

〔和歌〕

「外山には ゆふだちすらし たちのぼる

        くもよりあまる いなづまのかげ」

          前大納言経顕・玉葉407

「近い山には夕立が降るらしい。その方向では、立ちのぼる雲からこぼれ落ちるように、時々稲妻の光が走る。」

 

*秋艸道人、会津八一先生の歌集『鹿鳴集』より、奈良愛惜の歌。

〈十四日奈良帝室博物館にいたり富楼那の像を見て〉

「あらはなり そのふところに ものありて

わくがごとくに かたりいづらし」

〈東京にかへるとて〉

「あをによし ならやまこへて さかるとも

         ゆめにしみえこ わかくさのやま」

〈東京にかへりて後に〉

「ならやまを さかりしひより あさにけに

         みてらみほとけ おもかげにたつ」

 「夢にまで見える若草山」「面影にたつ御寺御仏」はいつまでもたいせつに残しておきたいものです。

 

*「南朝御聖蹟を顕彰する」98

大塔宮:

『太平記』巻第五 「大塔宮南都御隠居後(のち)十津川御栖(おんすま)ひの事」(別写本では「大塔宮熊野落事(をほたうのみやくまのをちのこと)」

・本文〈これを見て玉置庄司が勢、叶はじとや思ひけん、楯を棄て旌を巻いて、四方へぞ逃げ散りける。

 その後、野長瀬兄弟、甲を脱いで、遥かの外に畏まる。宮、御前近く食されて、「山中の体(てい)たらく、大儀の計略叶ひがたかるべき間、大和・河内の方へ進発せしむるところに、玉置庄司がただ今の行跡(ふるまひ)当千の兵、万死の中に一生をだにも得がたしと覚えつるに、不慮の扶けに逢ふ事、天運なほ慿みあるに似たり。そもそもこの事何として存知したりければ、今此の線上に馳せ向かひて、逆徒の大事をば靡けぬるぞ」とお尋ねありければ、〉

・訳(これを見て、玉置庄司の軍勢はかなわぬとおもったのであろうか、楯を捨て旗を巻いて、四方八方へ逃げ散ってしまった。

 戦いの後で、野長瀬兄弟は、兜を脱いで、遠くの下座にかしこまった。宮は二人を御前近くに召され、「山中の様子では討幕の計略ができにくそうなので、大和・河内方面に進出しようとしたところ、玉置庄司の先の行動に遭い、我が手の兵たちは九死に一生も危うく思われたときに、思いもかけぬ助けに会った。これはまだ天運が頼りになるように思われる。それにしてもどうして知って、今この戦場に駈けつけ、逆賊の大軍を破ったのか」とお尋ねがあったので、)

 

《当尾の里 浄瑠璃寺・岩船寺を奈良市の暴挙から守るために》

『土門拳 古寺を訪ねて 斑鳩から奈良へ』所収のエッセイより。

「浄瑠璃寺と石仏」

〈三重塔

藤原時代に流行した九体阿弥陀堂の唯一の遺構とされる本堂は、奥州平泉では藤原清衡がそろそろ中尊寺の造営に着手しようとしていた嘉承二年(1107)の再建になる。その九体阿弥陀堂と池をへだてて相対する三重塔は、治承二年(1178)九月二十日、京都の一条大宮にあった三重塔を解体しては混んで来たものと伝えられるが、何という寺にあったものかはわからない。

藤原末期の塔であるから、豪快荘重なおもむきは失われているが、檜皮葺の屋根、勾配のゆるい垂木、軽快な真反りの軒、全体に繊細な木割など、いかにも女性的な塔である。そして石段下に見える石燈籠も、南北朝時代の貞治五年(1366)の銘を有するが、塔のやさしさに合わせたように小じんまりとかたちのととのった燈籠である。

彼岸ざくらが咲き、もみじの若芽が萠える丘の上にひっそりと立つ三重塔を振り仰いでいると、わたしたちは、背後の阿弥陀堂から浄土信徒の唱える和讃が朗々と聞えていた千年の昔に立ち返っているような気分になってしまう。〉

 

*今、若草山の北麓、、正倉院、東大寺、春日山にも近く、京都府木津川市浄瑠璃寺南隣の「中ノ川・東鳴川」の地に、奈良市のごみ焼却場を建設するという古都破壊のとんでもない計画があります。          

 建設候補地は奈良市側ではありますが、京都府の浄瑠璃寺まで数百メートルの至近距離です。ここに焼却場ができ、高い煙突(計画の高さ80m)から煙が吐き出されることになれば、奈良側からの古都の歴史景観は台無しです。まるで若草山頂上から噴火したように見えます。また風向きによっては正倉院、東大寺にも煙が流れます。

そして当尾の里・浄瑠璃寺は平安時代の神聖な浄土庭園と国宝の堂塔、仏像文化財が排煙にまみれることになります。

このような事態は考えるのもおぞましいことで、最悪無謀な文化破壊です。

奈良市の策定委員会と奈良市長は計画を即刻白紙撤回すべきです。

この地域は、いにしえの奈良山丘陵でもあります。歴史ゆたかな青垣の山々を愛し、心のふるさととして心癒されている日本人がどれだけ大勢いることか、為政者は思いを致すべきです。

「やまとは 国のまほろば たたなづく

青垣やまごもれる やまとしうるはし」

  日本武尊(やまとたけるのみこと)・古事記

悠久の大和、奈良の山々は日本人の心のふるさと、国のまほろばです。

 

*先月620日、木津川市加茂町当尾地区の五ヵ寺の寺院住職方と総代方が奈良市長と策定委員会に対し、クリーンセンター計画現候補地の撤回を申し入れされました。この計画は余りにも当尾地区に近接した場所であります。特に浄瑠璃寺にとってはすぐ隣です。あの美しい平安時代の浄土式庭園を拝観しようとすると、真上の空にゴミ焼きの煙が立ちのぼることになります。あるいは煙突が見えるかもしれません。奈良市長と策定委員会の委員たちは浄瑠璃寺へ行ったことがないのでしょうか。和辻哲郎の『古寺巡礼』を読んだことがないような低水準の人たちなのでしょうか。浄瑠璃寺の価値を理解できない文化程度の人に古都奈良の命運が握られているとは情けないことです。

もしもこの計画が実行されれば、全国の熱烈な浄瑠璃寺ファンの人たちは奈良市の暴挙に怒りを覚え、そしてこの計画を立案し実行する人達を許さないでしょう。

 

 この問題を詳しく知りたい方は、

ホームページ『奈良市クリーンセンター建設計画に関する課題について』をご覧ください。本計画の問題点が的確にまとめられています。HP「般若寺」からリンクされています。Img_6094

Img_6067

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2013年7月19日 (金)

般若寺 季節の花だより  7・19

 

《いま咲いている花》

○夏コスモス:≪終わり近し≫

○ヒツジ草:≪見ごろ≫ 水辺の花。日本の山地にある泉や池に自生する睡蓮の原生種。これから初秋まで咲き続けます。花は56センチの大きさ。

○秋海棠(しゅうかいどう): ≪咲きはじめ≫ ハート形の緑の大きい葉っぱに、ピンク色の小さい花が涼しげです。別名、瓔珞草(ようらくそう)とも。ベコニア属。江戸初期、中国から長崎へ園芸観賞用に伝えられたのがはじまり。全国に広まり、俳画などの画題に好まれている。

《秋に咲く花》

◎秋コスモス:9月中旬~11月中旬。35種類。10万本。

いま苗を植え付けています。真夏の日照と気温のおかげでよく育ちます。

コスモスは種まきから7080日で開花します。咲かせたい時期を設定し、日数をさかのぼって種をまきます。種類により咲く時期が違い、背丈も様々ですから庭の設計が大事です。あとは植え付け、水やり、除草など心を込めて世話をしてやれば、秋にはきれいな花を咲かせます。

 

〔短歌〕

「おそろしき 夏の闇夜に 飛びかひし

         蛍の燐の 記憶かなしも」

           木下利玄・銀

〔俳句〕

「花伏して 柄に朝日さす 秋海棠」渡辺水巴

〔和歌〕

「夕立の なごりばかりの 庭たづみ 

       日ごろもきかぬ かはづ鳴くなり」

         順徳院御製・玉葉409

「夕立の名残をとどめて、今も庭にたまり流れる雨水よ。どこかで、この日頃聞いたこともなかった蛙が鳴いているようだよ。」

 

*秋艸道人、会津八一先生の歌集『鹿鳴集』より、奈良愛惜の歌。

同じ日唐招提寺にいたり長老に謁して斎をうく〉

「せうだいの けふのときこそ うれしけれ

         そうのつくれる いものあつもの」

〈東京にかへるとて〉

「あをによし ならやまこへて さかるとも

         ゆめにしみえこ わかくさのやま」

〈東京にかへりて後に〉

「ならやまを さかりしひより あさにけに

         みてらみほとけ おもかげにたつ」

 「夢にまで見える若草山」「面影にたつ御寺御仏」はいつまでもたいせつに残しておきたいものです。

 

*「南朝御聖蹟を顕彰する」

大塔宮:

『太平記』巻第五 「大塔宮南都御隠居後(のち)十津川御栖(おんすま)ひの事」(別写本では「大塔宮熊野落事(をほたうのみやくまのをちのこと)」

(休みます)

 

《当尾の里 浄瑠璃寺・岩船寺を奈良市の暴挙から守るために》

『土門拳 古寺を訪ねて 斑鳩から奈良へ』所収のエッセイより。

「浄瑠璃寺と石仏」

〈三重塔

藤原時代に流行した九体阿弥陀堂の唯一の遺構とされる本堂は、奥州平泉では藤原清衡がそろそろ中尊寺の造営に着手しようとしていた嘉承二年(1107)の再建になる。その九体阿弥陀堂と池をへだてて相対する三重塔は、治承二年(1178)九月二十日、京都の一条大宮にあった三重塔を解体しては混んで来たものと伝えられるが、何という寺にあったものかはわからない。

藤原末期の塔であるから、豪快荘重なおもむきは失われているが、檜皮葺の屋根、勾配のゆるい垂木、軽快な真反りの軒、全体に繊細な木割など、いかにも女性的な塔である。そして石段下に見える石燈籠も、南北朝時代の貞治五年(1366)の銘を有するが、塔のやさしさに合わせたように小じんまりとかたちのととのった燈籠である。

彼岸ざくらが咲き、もみじの若芽が萠える丘の上にひっそりと立つ三重塔を振り仰いでいると、わたしたちは、背後の阿弥陀堂から浄土信徒の唱える和讃が朗々と聞えていた千年の昔に立ち返っているような気分になってしまう。〉

 

*今、若草山の北麓、、正倉院、東大寺、春日山にも近く、京都府木津川市浄瑠璃寺南隣の「中ノ川・東鳴川」の地に、奈良市のごみ焼却場を建設するという古都破壊のとんでもない計画があります。          

 建設候補地は奈良市側ではありますが、京都府の浄瑠璃寺まで数百メートルの至近距離です。ここに焼却場ができ、高い煙突(計画の高さ80m)から煙が吐き出されることになれば、奈良側からの古都の歴史景観は台無しです。まるで若草山頂上から噴火したように見えます。また風向きによっては正倉院、東大寺にも煙が流れます。

そして当尾の里・浄瑠璃寺は平安時代の神聖な浄土庭園と国宝の堂塔、仏像文化財が排煙にまみれることになります。

このような事態は考えるのもおぞましいことで、最悪無謀な文化破壊です。

奈良市の策定委員会と奈良市長は計画を即刻白紙撤回すべきです。

この地域は、いにしえの奈良山丘陵でもあります。歴史ゆたかな青垣の山々を愛し、心のふるさととして心癒されている日本人がどれだけ大勢いることか、為政者は思いを致すべきです。

「やまとは 国のまほろば たたなづく

青垣やまごもれる やまとしうるはし」

  日本武尊(やまとたけるのみこと)・古事記

悠久の大和、奈良の山々は日本人の心のふるさと、国のまほろばです。

 

*先月620日、木津川市加茂町当尾地区の五ヵ寺の寺院住職方と総代方が奈良市長と策定委員会に対し、クリーンセンター計画現候補地の撤回を申し入れされました。この計画は余りにも当尾地区に近接した場所であります。特に浄瑠璃寺にとってはすぐ隣です。あの美しい平安時代の浄土式庭園を拝観しようとすると、真上の空にゴミ焼きの煙が立ちのぼることになります。あるいは煙突が見えるかもしれません。奈良市長と策定委員会の委員たちは浄瑠璃寺へ行ったことがないのでしょうか。和辻哲郎の『古寺巡礼』を読んだことがないような低水準の人たちなのでしょうか。浄瑠璃寺の価値を理解できない文化程度の人に古都奈良の命運が握られているとは情けないことです。

もしもこの計画が実行されれば、全国の熱烈な浄瑠璃寺ファンの人たちは奈良市の暴挙に怒りを覚え、そしてこの計画を立案し実行する人達を許さないでしょう。

 

 この問題を詳しく知りたい方は、

ホームページ『奈良市クリーンセンター建設計画に関する課題について』をご覧ください。本計画の問題点が的確にまとめられています。HP「般若寺」からリンクされています。Img_5992_2

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2013年7月18日 (木)

般若寺 季節の花だより  7・18

 

《いま咲いている花》

○夏コスモス:≪終わり近し≫

○ヒツジ草:≪見ごろ≫ 水辺の花。日本の山地にある泉や池に自生する睡蓮の原生種。これから初秋まで咲き続けます。花は56センチの大きさ。

○秋海棠(しゅうかいどう): ≪咲きはじめ≫ ハート形の緑の大きい葉っぱに、ピンク色の小さい花が涼しげです。別名、瓔珞草(ようらくそう)とも。ベコニア属。江戸初期、中国から長崎へ園芸観賞用に伝えられたのがはじまり。全国に広まり、俳画などの画題に好まれている。

《秋に咲く花》

◎秋コスモス:9月中旬~11月中旬。35種類。10万本。

いま苗を植え付けています。真夏の日照と気温のおかげでよく育ちます。

コスモスは種まきから7080日で開花します。咲かせたい時期を設定し、日数をさかのぼって種をまきます。種類により咲く時期が違い、背丈も様々ですから庭の設計が大事です。あとは植え付け、水やり、除草など心を込めて世話をしてやれば、秋にはきれいな花を咲かせます。

 

短歌〕

「泣き止みて 頭のいたき たよりなさ

       幼心地(をさなごこち)の ふとよみがえる」

         木下利玄・銀

〔俳句〕

「虫干や 明王足を はねたまふ」阿波野青畝

〔和歌〕

「山もとの をちの日影は さだかにて

        かたへすずしき ゆふだちの雲」

          前大納言為家・風雅406

「山の麓を照らす、はるか遠方の日光ははっきりと見えるのに、一方から涼しくかげって来る、夕立の雲よ」

 

*秋艸道人、会津八一先生の歌集『鹿鳴集』より、奈良愛惜の歌。

〈同じ日唐招提寺にいたり長老に謁して斎をうく〉

「りつゐんの そうさへいでて このごろは

         はたつくるとふ そのにはのへに」

〈東京にかへるとて〉

「あをによし ならやまこへて さかるとも

         ゆめにしみえこ わかくさのやま」

〈東京にかへりて後に〉

「ならやまを さかりしひより あさにけに

         みてらみほとけ おもかげにたつ」

 「夢にまで見える若草山」「面影にたつ御寺御仏」はいつまでもたいせつに残しておきたいものです。

 

*「南朝御聖蹟を顕彰する」97

大塔宮:

『太平記』巻第五 「大塔宮南都御隠居後(のち)十津川御栖(おんすま)ひの事」(別写本では「大塔宮熊野落事(をほたうのみやくまのをちのこと)」

・本文〈かかりけるところに、北の峯より赤旌三流、松の嵐に翻(ひるがへ)つて、その勢四、五百人が程懸け出でて、時をどつとぞ揚げたりける。玉置庄司かと驚き見るところに、真つ先に進んだる武者大音を揚げて名乗りけるは、「紀伊國の住人、野長瀬六郎、同じき七郎、大勢をたな引き、大塔宮の御迎へに参るところ、ただ今亡ぶべき武家の逆命に随つて、即時に運を開かせ給ふべき親王に敵し申しては、一天下いづれのところにか身を措くべき。天罰遠からず、これを行はん事、我らが一戦の内にあり。余すな、漏らすな」とぞ喚ばはりける。〉

・訳(こうしたところに、北の峯から赤旗が三本、松吹く風にひるがえって、四、五百人ほどの軍勢が駆け現れて、鬨の声をどっとあげたのである。宮の一行が、玉置庄司の軍勢かと、驚いて見ていると、まっ先に進んだ武士が大音声に名のりをあげた。「紀伊國の住人、野長瀬六郎、同じく七郎、大勢を引き連れ、大塔宮の御迎えに参る途中、今にも滅びようとしている幕府の暴虐な命令に従って、すぐにも運を開かれようとしている親王に敵対申すとは、日本国中どこの地に身を置こうとしているのか。天罰は遠い先のことではない。お前たちに天罰を下すのは、我らの一戦のうちにある。敵をあますな、逃がすな」と、わめき叫んだ。)

(つづく)

 

《当尾の里 浄瑠璃寺・岩船寺を奈良市の暴挙から守るために》

『土門拳 古寺を訪ねて 斑鳩から奈良へ』所収のエッセイより。

「浄瑠璃寺と石仏」

〈こんな山の中に美しい大伽藍をつくったのは、

どういう考えだったのであろうか。

そして京から奈良から、

野越え山越え浄土信者たちは詣でたのであろうか。

その道のりの遠さは、

彼岸への遠さと似ていたのであろうか。

浄瑠璃寺境内に雨におもたくぬれるさくらは、

ものうく、あまく、人の世のさびしさ、

あわれさをいまさらのように考えさせている。〉

 

*いちどこの本の写真をご覧ください。傑作です。浄瑠璃寺の庭と伽藍そして仏像群はこの世のものとは思えないほどの荘厳さに満ちています。

私は五十年以上も昔から浄瑠璃寺に通っていて、変ることない境内の風景を見守って来ました。私が高校生のころ、御住職の快勝師は本山西大寺で勉強会を主宰しておられ、私も参加させていただいてました。法類にも当たるので兄弟子のように尊敬してきました。快勝さんは現在の浄瑠璃寺の有りようを作られたので、この寺にこの師ありといえるお方です。

師は先代快龍師のあとをついで仏法興隆、国宝護持に専念され、参詣の方々には仏法の基本思想をやさしく解説してこられました。お話上手で人気があります。その生きざまは愛山護法という言葉にふさわしいお方です。それゆえ宗派内でも徳行を慕われ、真言律宗の宗務長という大役を務めておられます。

浄瑠璃寺は真言律宗の宝です。それゆえ宗派をあげて護持していきます。どのような法難、天魔が襲いかかろうとも護持します。

 

*今、若草山の北麓、、正倉院、東大寺、春日山にも近く、京都府木津川市浄瑠璃寺南隣の「中ノ川・東鳴川」の地に、奈良市のごみ焼却場を建設するという古都破壊のとんでもない計画があります。          

 建設候補地は奈良市側ではありますが、京都府の浄瑠璃寺まで数百メートルの至近距離です。ここに焼却場ができ、高い煙突(計画の高さ80m)から煙が吐き出されることになれば、奈良側からの古都の歴史景観は台無しです。まるで若草山頂上から噴火したように見えます。また風向きによっては正倉院、東大寺にも煙が流れます。

そして当尾の里・浄瑠璃寺は平安時代の神聖な浄土庭園と国宝の堂塔、仏像文化財が排煙にまみれることになります。

このような事態は考えるのもおぞましいことで、最悪無謀な文化破壊です。

奈良市の策定委員会と奈良市長は計画を即刻白紙撤回すべきです。

この地域は、いにしえの奈良山丘陵でもあります。歴史ゆたかな青垣の山々を愛し、心のふるさととして心癒されている日本人がどれだけ大勢いることか、為政者は思いを致すべきです。

「やまとは 国のまほろば たたなづく

青垣やまごもれる やまとしうるはし」

  日本武尊(やまとたけるのみこと)・古事記

悠久の大和、奈良の山々は日本人の心のふるさと、国のまほろばです。

 

*先月620日、木津川市加茂町当尾地区の五ヵ寺の寺院住職方と総代方が奈良市長と策定委員会に対し、クリーンセンター計画現候補地の撤回を申し入れされました。この計画は余りにも当尾地区に近接した場所であります。特に浄瑠璃寺にとってはすぐ隣です。あの美しい平安時代の浄土式庭園を拝観しようとすると、真上の空にゴミ焼きの煙が立ちのぼることになります。あるいは煙突が見えるかもしれません。奈良市長と策定委員会の委員たちは浄瑠璃寺へ行ったことがないのでしょうか。和辻哲郎の『古寺巡礼』を読んだことがないような低水準の人たちなのでしょうか。浄瑠璃寺の価値を理解できない文化程度の人に古都奈良の命運が握られているとは情けないことです。

もしもこの計画が実行されれば、全国の熱烈な浄瑠璃寺ファンの人たちは奈良市の暴挙に怒りを覚え、そしてこの計画を立案し実行する人達を許さないでしょう。

 

 この問題を詳しく知りたい方は、

ホームページ『奈良市クリーンセンター建設計画に関する課題について』をご覧ください。本計画の問題点が的確にまとめられています。HP「般若寺」からリンクされています。Img_59611

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2013年7月17日 (水)

般若寺 季節の花だより  7・17

 

《いま咲いている花》

○夏コスモス:≪終わり近し≫

・睡蓮、ヒツジ草:≪見ごろ≫ 水辺の花。日本在来の睡蓮の原生種。これから初秋まで咲き続けます。

・秋海棠: ≪咲きはじめ≫ ハート形の緑の大きい葉っぱに、ピンク色の小さい花が涼しげです。

 

《秋コスモス》9月中旬~11月中旬。35種類。10万本。

苗が育っています。真夏の日照と気温のおかげで育ちは早く、種まきから7080日ていどで開花します。咲かせる時期を設定し、日数をさかのぼって種をまきます。水やり、植え付け、除草など心を込めて世話をしてやれば、秋にはきれいな花を咲かせます。

 

〔短歌〕

「はした女が 厨(くりや)の隅に 泣いてゐる

         白き前かけ しみじみかなし」

           木下利玄・銀

〔俳句〕

「祇園会や 二階に顔の うづたかき」正岡子規

〔和歌〕

「ゆきなやむ うしのあゆみに たつちりの

         風さへあつき 夏のをぐるま」

           前中納言定家・玉葉407

「あまりの暑さに行き悩む牛の、のろのろとした足の運びに、塵を舞い上げて立つ風さえも暑苦しくてやりきれぬ、夏の牛車よ。」

 

*秋艸道人、会津八一先生の歌集『鹿鳴集』より、奈良愛惜の歌。

〈西の京 仏足堂にて〉

「いにしへの うたのいしぶみ おしなでて

         かなしきまでに もののこほしき」

〈東京にかへるとて〉

「あをによし ならやまこへて さかるとも

         ゆめにしみえこ わかくさのやま」

〈東京にかへりて後に〉

「ならやまを さかりしひより あさにけに

         みてらみほとけ おもかげにたつ」

 「夢にまで見える若草山」「面影にたつ御寺御仏」はいつまでもたいせつに残しておきたいものです。

 

*「南朝御聖蹟を顕彰する」96

大塔宮:

『太平記』巻第五 「大塔宮南都御隠居後(のち)十津川御栖(おんすま)ひの事」(別写本では「大塔宮熊野落事(をほたうのみやくまのをちのこと)」

・本文〈「御定とも覚え候はぬ物かな。これまで御伴仕る志、ただ敵のために死を同じうして、君のため忠節を尽さんと思ひなして候へば、ここにて同じ枕に打死に仕るべし」と、一同に御返事申して、御前はらはらと打ち立つて、敵の大勢にて責め上る坂中までぞ、下り向ひける。その勢以上三十余人、一人当千とも申しつべし。されども、敵四、五百人に立ち合はせて、戦ふべき様はなかりけり。〉

・訳(「宮のお言葉とも思われません。これまでお供申しあげた私どもの志は、ただ敵のためには、一緒に死に、宮のためには忠節を尽そうと思い込んでおりましたので、ここで同じ枕に討死しましょう」と、一同にご返事申しあげ、御前をばらばらと出立して、敵が大勢で攻めのぼって来る坂の途中まで迎え撃って行った。その数三十余人、いずれも一騎当千の勇士と言えるだろう。しかし、敵四、五百人に立ち向かっては、戦になりようもなかった。)

・本文〈 寄手これを見て楯を雌羽(めんどりば、雌鳥は右の翼を左の翼でおおいたたむとされ、そのように左を上に、右を下にして物を重ねること)に突きしとうて(突き立てて防御のための覆いとすること)、かづき襄(のぼ)りければ、防ぐ兵相懸りに近付き、合ひ戦ふに、筌(うけ、魚を捕る籠)の魚、網の魚は逭(のが)るとも、漏るべき様ぞなかりけり。〉

・訳(寄せ手の軍勢はこれを見て、楯を雌鶏の羽のように重ねて突き並べ、また頭上にかざして攻め上り、防ぐ兵たちも同時に攻め合うために敵軍に近づき、相戦うときに、魚籠(びく)や網の中の魚は逃れることがあっても、この合戦では逃れる手段もないのだった。) (つづく)

 

《当尾の里 浄瑠璃寺・岩船寺を奈良市の暴挙から守るために》

*「浄瑠璃寺の春」(堀辰雄著『大和路・信濃路』より)

⑩「ほんまになあ、しょむないとこでおまっせ。あてら、魚食うたことなんぞ、とんとおまへんな。蕨みてえなものばっかり食ってんのや。・・・

筍はお好きだっか。そうだっか。このへんの筍はなあ、ほんまによろしゅうおまっせ。それは柔(やお)うて、やおうて・・・」

 そんなことをまた寺の娘が妻を相手にしゃべりつづけているのが下の方から聞えてくる。――彼女たちはそうやって石段の下で立ち話をしたまま、いつまでたってもこちらに上がって来ようともしない。二人のうえには何んとなく春めいた日ざしが一ぱいあたっている。僕だけひとり塔の陰にはいっているものだから、すこし寒い。どうも二人ともいい気もちそうに、話に夢中になって僕のことなんぞ忘れてしまっているかのようだ。が、こうして廃塔といっしょに、さっきからいくぶん瞑想的になりがちな僕もしばらく世間のすべてのものから忘れ去られている。これもこれで、いい気もちではないか。――ああ、またどこかで七面鳥のやつが啼いているな。なんだか僕はこのまますこし気が遠くなってゆきそうだ。・・・  (つづく)

⑪ その夕がたのことである。その日、浄瑠璃寺から奈良坂を越えて帰ってきた僕たちは、そのまま東大寺の裏手に出て、三月堂をおとずれたのち、さんざん歩き疲れた足をひきずりながら、それでもせっかく此処まで来ているのだからと、春日の森のなかを馬酔木の咲いているほうへほうへと歩いて往ってみた。夕じめりのした森のなかには、その花のかすかな香りがどことなく漂って、ふいにそれを嗅いだりすると、なんだか身のしまるような気のするほどだった。だが、もうすっかりつかれきっていた僕たちはそれにもだんだん刺激が感ぜられないようになりだしていた。そうして、こんな夕がた、その白い花のさいた間をなんということもなしにこうして歩いてみるのをこんどの旅の愉しみにして来たことさえ、すこしももう考えようともしなくなっているほど、――少くとも、僕の心はつかれた身体(からだ)とともにぼおっとしてしまっていた。

 突然、妻がいった。

「なんだか、ここの馬酔木と、浄瑠璃寺にあったのとは、すこしちがうんじゃない?ここのは、こんなに真っ白だけれど、あそこのはもっと房が大きくて、うっすらと紅味(あかみ)を帯びていたわ。・・・」

「そうかなあ。僕にはおんなじにしかみえないが・・・」僕はすこし面倒くさそうに、妻が手ぐりよせているその一枝へ目をやっていたが、「そういえば、すこうし・・・」

 そう言いかけながら、僕はそのときふいと、ひどく疲れて何もかもが妙にぼおっとしている心のうちに、きょうの昼つかた、浄瑠璃寺の小さな門のそばでしばらく妻と二人でその白い小さな花を手にとりあって見ていた自分たちの旅すがたを、何んだかそれがずっと昔の日の自分たちのことででもあるかのような、妙ななつかしさでもって、鮮やかに蘇らせ出していた。 (おわり)

 

*今、若草山の北麓、、正倉院、東大寺、春日山にも近く、京都府木津川市浄瑠璃寺南隣の「中ノ川・東鳴川」の地に、奈良市のごみ焼却場を建設するという古都破壊のとんでもない計画があります。          

 建設候補地は奈良市側ではありますが、京都府の浄瑠璃寺まで数百メートルの至近距離です。ここに焼却場ができ、高い煙突(計画の高さ80m)から煙が吐き出されることになれば、奈良側からの古都の歴史景観は台無しです。まるで若草山頂上から噴火したように見えます。また風向きによっては正倉院、東大寺にも煙が流れます。

そして当尾の里・浄瑠璃寺は平安時代の神聖な浄土庭園と国宝の堂塔、仏像文化財が排煙にまみれることになります。

このような事態は考えるのもおぞましいことで、最悪無謀な文化破壊です。

奈良市の策定委員会と奈良市長は計画を即刻白紙撤回すべきです。

この地域は、いにしえの奈良山丘陵でもあります。歴史ゆたかな青垣の山々を愛し、心のふるさととして心癒されている日本人がどれだけ大勢いることか、為政者は思いを致すべきです。

「やまとは 国のまほろば たたなづく

青垣やまごもれる やまとしうるはし」

  日本武尊(やまとたけるのみこと)・古事記

悠久の大和、奈良の山々は日本人の心のふるさと、国のまほろばです。

 

*先月620日、木津川市加茂町当尾地区の五ヵ寺の寺院住職方と総代方が奈良市長と策定委員会に対し、クリーンセンター計画現候補地の撤回を申し入れされました。この計画は余りにも当尾地区に近接した場所であります。特に浄瑠璃寺にとってはすぐ隣です。あの美しい平安時代の浄土式庭園を拝観しようとすると、真上の空にゴミ焼きの煙が立ちのぼることになります。あるいは煙突が見えるかもしれません。奈良市長と策定委員会の委員たちは浄瑠璃寺へ行ったことがないのでしょうか。和辻哲郎の『古寺巡礼』を読んだことがないような低水準の人たちなのでしょうか。浄瑠璃寺の価値を理解できない文化程度の人に古都奈良の命運が握られているとは情けないことです。

もしもこの計画が実行されれば、全国の熱烈な浄瑠璃寺ファンの人たちは奈良市の暴挙に怒りを覚え、そしてこの計画を立案し実行する人達を許さないでしょう。

 

 この問題を詳しく知りたい方は、

ホームページ『奈良市クリーンセンター建設計画に関する課題について』をご覧ください。本計画の問題点が的確にまとめられています。HP「般若寺」からリンクされています。Img_5920

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2013年7月16日 (火)

般若寺 季節の花だより  7・16

 

《いま咲いている花》

○夏コスモス:≪終わり近し≫

・睡蓮、ヒツジ草:≪見ごろ≫ 水辺の花。日本在来の睡蓮の原生種。これから初秋まで咲き続けます。

・秋海棠: ≪咲きはじめ≫ ハート形の緑の大きい葉っぱに、ピンク色の小さい花が涼しげです。

 

《秋コスモス》9月中旬~11月中旬。35種類。10万本。

苗が育っています。真夏の日照と気温のおかげで育ちは早く、種まきから7080日ていどで開花します。咲かせる時期を設定し、日数をさかのぼって種をまきます。水やり、植え付け、除草など心を込めて世話をしてやれば、秋にはきれいな花を咲かせます。

 

*「南朝御聖蹟を顕彰する」95

大塔宮:

『太平記』巻第五 「大塔宮南都御隠居後(のち)十津川御栖(おんすま)ひの事」(別写本では「大塔宮熊野落事(をほたうのみやくまのをちのこと)」

・本文〈「これ程の浮沈を見ながら、かねての一路に違はず、我に随ふ事、忠義の程かんげきするに余りあり。聖運・天命ここに窮まれり。されば、一足も引くべきにあらず。心閑(しづ)かに自害して、名を万代に遺すべし。

ただし、構へて、我より先に切る事あるべからず。我すでに自害せば、面(つら)の皮を剝ぎ、耳鼻を切って、誰(た)が頸とも見えざる様になして棄つべし。その故は、我が頸もし獄門に懸けられば、天下に味方を存ずる物、皆力を失ひ、武家は恐るるにところなかるべし。『死せる孔明は生ける仲達を走らしむ』といふ事ありき。されば、人々相構へて、きたなびるな」と、御泪の内に仰せ下されければ、御伴の物ども、これを奉(うけたまは)り、〉

・訳(「これほどの浮き沈みを体験しながら、かねてからの討幕の一路を変えることなく、私に従ってくれたこと、忠義のほどはいくら感激しても足りるものではない。帝の運命も天命もここにきわまった。だから諸君は、一足もひいてはいけない。心静かに自害して、名を後世まで残すことにしよう。ただし、諸君は、決して私より先に腹を切ってはならぬ。私が自害したら、顔の皮をはぎ、耳鼻を切り落として、誰の首とも分からぬようにして捨てよ。そのわけは、私の首が獄門にかけられたら、国じゅうの味方は皆力を失い、武家は恐れるものがなくなるだろう。『死せる孔明は生ける仲達を敗走させた』という故事がある。だから諸君は、決して見苦しいふるまいをするな」と、御涙ながらにおっしゃったので、お供の者たちはこれを聞き、)  (つづく)

 

〔短歌〕

「大風の 吹き過ぎ行きし 遠き音

       ききつつ居れば 夜のおそろしさ」

         木下利玄・銀

〔俳句〕

「鉾にのる 人のきほひも 都かな」宝井其角

〔和歌〕

「衣手に すずしき風を さきだてて 

くもりはじむる 夕立の空」

         後鳥羽院宮内卿・風雅405

「袖の所に、涼しい風を先立って運んで来て、忽ち曇りはじめる、夕立を催す空よ。」

 

*秋艸道人、会津八一先生の歌集『鹿鳴集』より、奈良愛惜の歌。

〈西ノ京 東院堂の聖観音を拝す〉

「みほとけの ひかりすがしき むねのへに

         かげつぶらなる たまのみすまる」

〈東京にかへるとて〉

「あをによし ならやまこへて さかるとも

         ゆめにしみえこ わかくさのやま」

〈東京にかへりて後に〉

「ならやまを さかりしひより あさにけに

         みてらみほとけ おもかげにたつ」

 「夢にまで見える若草山」「面影にたつ御寺御仏」はいつまでもたいせつに残しておきたいものです。

 

《当尾の里 浄瑠璃寺・岩船寺を奈良市の暴挙から守るために》

*「浄瑠璃寺の春」(堀辰雄著『大和路・信濃路』より)

⑨自然を超えんとして人間の意志したすべてのものが、長い歳月の間にほとんど廃亡に帰して、いまはそのわずかに残っているものも、そのもとの自然のうちに、そのものの一部に過ぎないかのように、融け込んでしまうようになる。そうして其処にその二つのものが一つになって――いわば、第二の自然が発生する。そういうところにすべての廃墟の云いしれぬ魅力があるのではないか?――そういうパセティックな考えすらも(それはたぶんジムメルあたりのかんがえであったろう)、いまの自分にはなんとなく快い、なごやかな感じでどういせられる。・・・

 僕はそんな考えに耽りながら歩き歩き、ひとりだけ先きに石段をあがり、小さな三重塔の下にたどりついて、そこの松林のなかから蓮池をへだてて、さっきの阿弥陀堂のほうをぼんやりと見かえしていた。 (つづく)

⑩「ほんまになあ、しょむないとこでおまっせ。あてら、魚食うたことなんぞ、とんとおまへんな。蕨みてえなものばっかり食ってんのや。・・・

筍はお好きだっか。そうだっか。このへんの筍はなあ、ほんまによろしゅうおまっせ。それは柔(やお)うて、やおうて・・・」

 そんなことをまた寺の娘が妻を相手にしゃべりつづけているのが下の方から聞えてくる。――彼女たちはそうやって石段の下で立ち話をしたまま、いつまでたってもこちらに上がって来ようともしない。二人のうえには何んとなく春めいた日ざしが一ぱいあたっている。僕だけひとり塔の陰にはいっているものだから、すこし寒い。どうも二人ともいい気もちそうに、話に夢中になって僕のことなんぞ忘れてしまっているかのようだ。が、こうして廃塔といっしょに、さっきからいくぶん瞑想的になりがちな僕もしばらく世間のすべてのものから忘れ去られている。これもこれで、いい気もちではないか。――ああ、またどこかで七面鳥のやつが啼いているな。なんだか僕はこのまますこし気が遠くなってゆきそうだ。・・・  (つづく)

 

*今、若草山の北麓、、正倉院、東大寺、春日山にも近く、京都府木津川市浄瑠璃寺南隣の「中ノ川・東鳴川」の地に、奈良市のごみ焼却場を建設するという古都破壊のとんでもない計画があります。          

 建設候補地は奈良市側ではありますが、京都府の浄瑠璃寺まで数百メートルの至近距離です。ここに焼却場ができ、高い煙突(計画の高さ80m)から煙が吐き出されることになれば、奈良側からの古都の歴史景観は台無しです。まるで若草山頂上から噴火したように見えます。また風向きによっては正倉院、東大寺にも煙が流れます。

そして当尾の里・浄瑠璃寺は平安時代の神聖な浄土庭園と国宝の堂塔、仏像文化財が排煙にまみれることになります。

このような事態は考えるのもおぞましいことで、最悪無謀な文化破壊です。

奈良市の策定委員会と奈良市長は計画を即刻撤回すべきです。

この地域は、いにしえの奈良山丘陵でもあります。歴史ゆたかな青垣の山々を愛し、心のふるさととして心癒されている日本人がどれだけ大勢いることか、為政者は思いを致すべきです。

「やまとは 国のまほろば たたなづく

青垣やまごもれる やまとしうるはし」

  日本武尊(やまとたけるのみこと)・古事記

悠久の大和、奈良の山々は日本人の心のふるさと、国のまほろばです。

 

*先月620日、木津川市加茂町当尾地区の五ヵ寺の寺院住職方と総代方が奈良市長と策定委員会に対し、クリーンセンター計画現候補地の撤回を申し入れされました。この計画は余りにも当尾地区に近接した場所であります。特に浄瑠璃寺にとってはすぐ隣です。あの美しい平安時代の浄土式庭園を拝観しようとすると、真上の空にゴミ焼きの煙が立ちのぼることになります。あるいは煙突が見えるかもしれません。奈良市長と策定委員会の委員たちは浄瑠璃寺へ行ったことがないのでしょうか。和辻哲郎の『古寺巡礼』を読んだことがないような低水準の人たちなのでしょうか。浄瑠璃寺の価値を理解できない文化程度の人に古都奈良の命運が握られているとは情けないことです。

もしもこの計画が実行されれば、全国の熱烈な浄瑠璃寺ファンの人たちは奈良市の暴挙に怒りを覚え、そしてこの計画を立案し実行する人達を許さないでしょう。

 

 この問題を詳しく知りたい方は、

ホームページ『奈良市クリーンセンター建設計画に関する課題について』をご覧ください。本計画の問題点が的確にまとめられています。HP「般若寺」からリンクされています。Img_5923

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2013年7月15日 (月)

般若寺 季節の花だより  7・15

 

《いま咲いている花》

○夏コスモス:≪半分になっています≫

・睡蓮、ヒツジ草:≪咲きはじめ≫ 水辺の花。日本在来の睡蓮の原生種。これから初秋まで咲きます。

・秋海棠: ≪咲きはじめ≫ ハート形の緑の大きい葉っぱに、ピンク色の小さい花が咲いて涼しげです。

 

《秋コスモス》9月中旬~11月中旬。35種類。10万本。

苗が育っています。真夏の日照と気温のおかげで育ちは早く、種まきから7080日ていどで開花します。咲かせる時期を設定し、日数をさかのぼって種をまきます。水やり、植え付け、除草など心を込めて世話をしてやれば、秋にはきれいな花を咲かせます。

 

*「南朝御聖蹟を顕彰する」94

大塔宮:

『太平記』巻第五 「大塔宮南都御隠居後(のち)十津川御栖(おんすま)ひの事」(別写本では「大塔宮熊野落事(をほたうのみやくまのをちのこと)」

・本文〈 ここにて一息継いで、山の南の方をきつと見遣りたれば、玉置庄司が宮を囲み進(まうぃ)らする勢と覚えて、二、三百人程、混甲(ひたかぶと、鎧姿の一同が、そろって兜をつけ完全武装になること)よろうて、楯をぞ一面に進めて、射手をば左右の山へ襄(のぼ)せ、真中に敵を取籠めて、時をどうとぞ揚げたりける。宮これを御覧じて、玉顔ことに儼(おごそ)かに打ち笑ませ給ひて、官軍に向かつて仰せられけるは、〉

・訳(ここで一休みして、山の南をちょっと見たところ、玉置庄司の、宮一行を包囲している軍勢かと思われる二、三百人ほどが、一人残らず甲冑を身につけて、楯を前面に押し出し、射手を左右の山に登らせて、まん中に敵を取り囲む陣形を作って、鬨の声をどっとあげた。大塔宮はこれをご覧になって、お顔つきもことのほかおごそかにほほえまれ、官軍に向かって仰せられた。)

(つづく)

 

〔短歌〕

「むし暑く 寝ぐるしき夜も 青白う

        やや冷えそめて 鳩なく声す」

          木下利玄・銀

〔俳句〕

「たもとして 払ふ夏書の 机かな」与謝蕪村

〔和歌〕

「山かげや くらきいはまの わすれ水

        たえだえみえて とぶほたるかな」

          藤原為理朝臣・玉葉405

「山陰の暗い岩の間に、人知れず絶え間がちに流れている水に、これもまた絶え絶えにわずかな光を映して飛ぶ蛍よ。」

・わすれ水=人に知られず淀み、または流れている水。

 

秋艸道人、会津八一先生の歌集『鹿鳴集』より、奈良愛惜の歌。

〈西ノ京〉

「うかびたつ たふのもこしの しろかべに

         あさのひさして あきはれにけり」

〈東京にかへるとて〉

「あをによし ならやまこへて さかるとも

         ゆめにしみえこ わかくさのやま」

〈東京にかへりて後に〉

「ならやまを さかりしひより あさにけに

         みてらみほとけ おもかげにたつ」

 「夢にまで見える若草山」「面影にたつ御寺御仏」はいつまでもたいせつに残しておきたいものです。

 

《当尾の里 浄瑠璃寺・岩船寺を奈良市の暴挙から守るために》

*「浄瑠璃寺の春」(堀辰雄著『大和路・信濃路』より)

⑧ そこで僕が先に立って、その岸べには菖蒲のすこし生い茂っている、古びた蓮池のへりを伝って、塔のほうへ歩き出したが、その間もまた絶えず少女は妻に向って、このへんの山のなかで採れる筍だの、松茸だのの話をことこまかに聞かせているらしかった。

 僕はそういう彼女たちから少し離れて歩いていたが、実によくしゃべるやつだなあとおもいながら、それにしてもまあなんという平和な気分がこの小さな廃寺をとりまいているのだろうと、いまさらのようにそのあたりの風景を見まわしてみたりしていた。

 傍らに花さいている馬酔木よりも低いくらいの門、誰のしわざか仏たちのまえに供えてあった椿の花、堂裏の七本の大きな柿の木、秋になってその柿をハイキングの人々に売るのをいかにも愉しいことのようにしている寺の娘、どこからかときどき啼きごえの聞こえてくる七面鳥、――そういうこのあたりすべてのものが、かつての寺だったそのおおかたが既に廃滅してわずかにのこっているきりの二三の古い堂塔をとりかこみながら――というよりも、それらの古代のモニュメントをもその生活の一片であるかのようにさりげなく取り入れながら、――其処にいかにも平和な、いかにも山間の春らしい、しかもその何処かにすこしく悲愴な懐古的気分を漂わせている。 

⑨自然を超えんとして人間の意志したすべてのものが、長い歳月の間にほとんど廃亡に帰して、いまはそのわずかに残っているものも、そのもとの自然のうちに、そのものの一部に過ぎないかのように、融け込んでしまうようになる。そうして其処にその二つのものが一つになって――いわば、第二の自然が発生する。そういうところにすべての廃墟の云いしれぬ魅力があるのではないか?――そういうパセティックな考えすらも(それはたぶんジムメルあたりのかんがえであったろう)、いまの自分にはなんとなく快い、なごやかな感じでどういせられる。・・・

 僕はそんな考えに耽りながら歩き歩き、ひとりだけ先きに石段をあがり、小さな三重塔の下にたどりついて、そこの松林のなかから蓮池をへだてて、さっきの阿弥陀堂のほうをぼんやりと見かえしていた。 (つづく)

 

*今、若草山の北麓、、正倉院、東大寺、春日山にも近く、京都府木津川市浄瑠璃寺南隣の「中ノ川・東鳴川」の地に、奈良市のごみ焼却場を建設するという古都破壊のとんでもない計画があります。          

 建設候補地は奈良市側ではありますが、京都府の浄瑠璃寺まで数百メートルの至近距離です。ここに焼却場ができ、高い煙突(計画の高さ80m)から煙が吐き出されることになれば、奈良側からの古都の歴史景観は台無しです。まるで若草山頂上から噴火したように見えます。また風向きによっては正倉院、東大寺にも煙が流れます。

そして当尾の里・浄瑠璃寺は平安時代の神聖な浄土庭園と国宝の堂塔、仏像文化財が排煙にまみれることになります。

このような事態は考えるのもおぞましいことで、最悪無謀な文化破壊です。

奈良市の策定委員会と奈良市長は計画を即刻撤回すべきです。

この地域は、いにしえの奈良山丘陵でもあります。歴史ゆたかな青垣の山々を愛し、心のふるさととして心癒されている日本人がどれだけ大勢いることか、為政者は思いを致すべきです。

「やまとは 国のまほろば たたなづく

青垣やまごもれる やまとしうるはし」

  日本武尊(やまとたけるのみこと)・古事記

悠久の大和、奈良の山々は日本人の心のふるさと、国のまほろばです。

 

*先月620日、木津川市加茂町当尾地区の五ヵ寺の寺院住職方と総代方が奈良市長と策定委員会に対し、クリーンセンター計画現候補地の撤回を申し入れされました。この計画は余りにも当尾地区に近接した場所であります。特に浄瑠璃寺にとってはすぐ隣です。あの美しい平安時代の浄土式庭園を拝観しようとすると、真上の空にゴミ焼きの煙が立ちのぼることになります。あるいは煙突が見えるかもしれません。奈良市長と策定委員会の委員たちは浄瑠璃寺へ行ったことがないのでしょうか。和辻哲郎の『古寺巡礼』を読んだことがないような低水準の人たちなのでしょうか。浄瑠璃寺の価値を理解できない文化程度の人に古都奈良の命運が握られているとは情けないことです。

もしもこの計画が実行されれば、全国の熱烈な浄瑠璃寺ファンの人たちは奈良市の暴挙に怒りを覚え、そしてこの計画を立案し実行する人達を許さないでしょう。

 

 この問題を詳しく知りたい方は、

ホームページ『奈良市クリーンセンター建設計画に関する課題について』をご覧ください。本計画の問題点が的確にまとめられています。HP「般若寺」からリンクされています。

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2013年7月14日 (日)

般若寺 季節の花だより  7・14

 

《いま咲いている花》

○夏コスモス:≪半分になっています≫夏花は抜き取っていますので花ご希望の方にはさしあげます。

・睡蓮、ヒツジ草:≪咲きはじめ≫ 水辺の花。日本在来の睡蓮の原生種。これから初秋まで咲きます。

・秋海棠: ≪咲きはじめ≫ ハート形の緑の大きい葉っぱに、ピンク色の小さい花が咲いて涼しげです。

 

《秋コスモス》9月中旬~11月中旬。35種類。10万本。

苗が育っています。真夏の日照と気温のおかげで育ちは早く、種まきから7080日ていどで開花します。咲かせる時期を設定し、日数をさかのぼって種をまきます。水やり、植え付け、除草など心を込めて世話をしてやれば、秋にはきれいな花を咲かせます。

 

*「南朝御聖蹟を顕彰する」93

大塔宮:

『太平記』巻第五 「大塔宮南都御隠居後(のち)十津川御栖(おんすま)ひの事」(別写本では「大塔宮熊野落事(をほたうのみやくまのをちのこと)」

・本文〈武田彦七、遥かに行き伸びて跡を帰り見ければ、片岡早(はや)打たれぬと覚しくて、血の付きたる頭(かしら)を太刀に貫いて持つたる物ありけり。〉

・訳(武田彦七は遠くまで逃げのびて、後を振り返ると、片岡はもう討ち取られたと見えて、血のついた首を太刀の切っ先に刺して持っている者がいた。)

・本文〈 武田走り帰って、宮にこの由をもうしければ、宮にこの由を申しければ、宮これを聞こし食(め)し、「さては遁れぬ道に行き迫りて、運命ここに窮まりぬ。還って歎くに詞もなし」とて、御伴の人々に至るまで、なかなか爽やかなる気色にぞ見えたりける。さればとて、ここに留まるべきにあらずとて、上下三十余人、宮を先立て進(まい)らせて、敵今や近付くと、行末の路を問ひ問ひ中津川の嵩(たうげ)をぞこえさせ給ひける。〉

・訳(武田は走り帰って、宮にこの旨申しあげると、宮はこれをお聞きになって、「それでは、逃れることのできない道に行きづまり、我らの運命はここにきわまったな。嘆いてもかえって言葉も出ないものだ」と言って、お供の人々に至るまで、逆にさわやかな様子に見えた。だからといって、ここに留まっているべきではないと、総勢三十余人、大塔宮を先頭にし申しあげて、敵が今にも近づくかと、行く先の道を尋ね尋ね、中津川の峠を越えたのであった。)   (つづく)

 

〔短歌〕

「パラソルに 通り雲より 雨落ち

         甲走りたる 声を立てつつ

           木下利玄・銀

〔俳句〕

「読物の 何にもなくて 旅涼し」中村汀女

〔和歌〕

「山ふかみ 雪きえなばと おもひしに

        また道たゆる やどの夏草」

          如願法師・風雅403

「山深い所の住まいだから、せめて雪が消えたら人が訪れてくれるかと期待していたのに(一向誰も来ず)、再び人の通れる道さえも絶えはてる程に一面に茂ってしまった、私の家の夏草よ。」

 

秋艸道人、会津八一先生の歌集『鹿鳴集』より、奈良愛惜の歌。

〈海上 昭和十八年十一月

  十一月十日学生を伴ひ奈良に向かふ〉

「ひのもとは かみのもるくに みほとけの

         しきますくにと やくもたつらし」

〈東京にかへるとて〉

「あをによし ならやまこへて さかるとも

         ゆめにしみえこ わかくさのやま」

〈東京にかへりて後に〉

「ならやまを さかりしひより あさにけに

         みてらみほとけ おもかげにたつ」

 「夢にまで見える若草山」「面影にたつ御寺御仏」はいつまでもたいせつに残しておきたいものです。

 

《当尾の里 浄瑠璃寺・岩船寺を奈良市の暴挙から守るために》

*「浄瑠璃寺の春」(堀辰雄著『大和路・信濃路』より)

⑦僕はそういう二人の話を耳にはさみながら、九体仏をすっかり見終わると、堂のそとに出て、そこの縁さきから蓮池のほうをいっしょに眺めている二人の方へ近づいていった。

僕は堂の扉を締めにいった少女と入れかわりに、妻のそばになんということもなしに立った。

「もう、およろしいの?」

「ああ。」そう言いながら、僕はしばらくぼんやりと観仏に憑かれた目を蓮池のほうへやっていた。

 少女が堂の扉を締めおわって、大きな鍵を手にしながら、戻ってきたので、

「どうもありがとう。」と言って、さあ、もう少女を自由にさせてやろうと妻に目くばせをした。

「あこの塔も見なはんなら、御案内しまっせ。」少女は池の向うの、松林のなかに、いかにもさわやかに立っている三重塔のほうへ僕たちを促した。

「そうだな、ついでだから見せて貰おうか。」僕は答えた。「でも、君は用があるんなら、さきにその用をすましてきたらどうだい?」

「あとでもええことだす。」少女はもうその事はけろりとしているようだった。

⑧ そこで僕が先に立って、その岸べには菖蒲のすこし生い茂っている、古びた蓮池のへりを伝って、塔のほうへ歩き出したが、その間もまた絶えず少女は妻に向って、このへんの山のなかで採れる筍だの、松茸だのの話をことこまかに聞かせているらしかった。

 僕はそういう彼女たちから少し離れて歩いていたが、実によくしゃべるやつだなあとおもいながら、それにしてもまあなんという平和な気分がこの小さな廃寺をとりまいているのだろうと、いまさらのようにそのあたりの風景を見まわしてみたりしていた。

 傍らに花さいている馬酔木よりも低いくらいの門、誰のしわざか仏たちのまえに供えてあった椿の花、堂裏の七本の大きな柿の木、秋になってその柿をハイキングの人々に売るのをいかにも愉しいことのようにしている寺の娘、どこからかときどき啼きごえの聞こえてくる七面鳥、――そういうこのあたりすべてのものが、かつての寺だったそのおおかたが既に廃滅してわずかにのこっているきりの二三の古い堂塔をとりかこみながら――というよりも、それらの古代のモニュメントをもその生活の一片であるかのようにさりげなく取り入れながら、――其処にいかにも平和な、いかにも山間の春らしい、しかもその何処かにすこしく悲愴な懐古的気分を漂わせている。 (つづく)

 

*今、若草山の北麓、、正倉院、東大寺、春日山にも近く、京都府木津川市浄瑠璃寺南隣の「中ノ川・東鳴川」の地に、奈良市のごみ焼却場を建設するという古都破壊のとんでもない計画があります。          

 建設候補地は奈良市側ではありますが、京都府の浄瑠璃寺まで数百メートルの至近距離です。ここに焼却場ができ、高い煙突(計画の高さ80m)から煙が吐き出されることになれば、奈良側からの古都の歴史景観は台無しです。まるで若草山頂上から噴火したように見えます。また風向きによっては正倉院、東大寺にも煙が流れます。

そして当尾の里・浄瑠璃寺は平安時代の神聖な浄土庭園と国宝の堂塔、仏像文化財が排煙にまみれることになります。

このような事態は考えるのもおぞましいことで、最悪無謀な文化破壊です。

奈良市の策定委員会と奈良市長は計画を即刻撤回すべきです。

この地域は、いにしえの奈良山丘陵でもあります。歴史ゆたかな青垣の山々を愛し、心のふるさととして心癒されている日本人がどれだけ大勢いることか、為政者は思いを致すべきです。

「やまとは 国のまほろば たたなづく

青垣やまごもれる やまとしうるはし」

  日本武尊(やまとたけるのみこと)・古事記

悠久の大和、奈良の山々は日本人の心のふるさと、国のまほろばです。

 

*先月620日、木津川市加茂町当尾地区の五ヵ寺の寺院住職方と総代方が奈良市長と策定委員会に対し、クリーンセンター計画現候補地の撤回を申し入れされました。この計画は余りにも当尾地区に近接した場所であります。特に浄瑠璃寺にとってはすぐ隣です。あの美しい平安時代の浄土式庭園を拝観しようとすると、真上の空にゴミ焼きの煙が立ちのぼることになります。あるいは煙突が見えるかもしれません。奈良市長と策定委員会の委員たちは浄瑠璃寺へ行ったことがないのでしょうか。堀辰雄の「浄瑠璃寺の春」を読んだことがないような低水準の人たちなのでしょうか。浄瑠璃寺の価値を理解できない文化程度の人に古都奈良の命運が握られているとは情けないことです。

もしもこの計画が実行されれば、全国の熱烈な浄瑠璃寺ファンの人たちは奈良市の暴挙に怒りを覚え、そしてこの計画を立案し実行する人達を許さないでしょう。

 

*和辻哲郎の『古寺巡礼』にも浄瑠璃寺は出ています。「浄瑠璃寺への道」です。

「 寺の小さい門や白い壁やその上からのぞいている松の木などの野趣に充ちた風情をながめた時に、わたくしはそれを前にも見たというような気持ちに襲われた。門をはいって最初に目についたのは、本堂と塔との間にある寂しい池の、水の色と葦の若芽の色とであったが、その奇妙に澄んだ、濃い、冷たい色の調子も、(それが今初めて気づいた珍しいものであったにもかかわらず)初めてだという気はしなかった。背後に山を負うていかにもしっくりとこの庭にハマっている優美な形の本堂も、――また庭の隅の小高いところに朽ちかかったような色をして立っている小さい三重の塔も、わたくしには初めてではなかった。わたくしは堂の前の白い砂の上を歩きながら、この漠然たる心持ちから脱することができなかったのである。

 この心持は一体何であろうか。浅い山ではあるが、とにかく山の上に、下界と切り離されたようになって、一つの長閑な村がある。そこに自然と抱き合って、優しい小さな塔とお堂とがある。心を潤すような愛らしさが、すべての者の上に一面に漂っている。それは近代人の心にはあまりに淡きに過ぎ平凡に過ぎる光景ではあるが、しかしわれわれの心が和らぎと休息とを求めている時には、秘めやかな魅力をもってわれわれの心の底にある物を動かすのである。古人の抱いた桃源の夢想―それが浄土の幻想と結びついて、この山上の地を択ばせ、この池のほとりのお堂を建てさせたのかも知れないと思われるが、―

 それをわれわれは自分たちと全然縁のない昔の逸民の空想だと思っていた。しかるにその夢想を表現した山村の寺に面接して見ると、われわれはなおその夢想に共鳴するある物を持っていたのである。それはわたくしにはおどろきであった。しかし考えてみると、われわれはみなかつては桃源に住んでいたのである。すなわちわれわれはかつて子供であった! これがあの心持ちの秘密なのではなかろうか。 」

 

 『古寺巡礼』は大正8年(1919)、岩波書店から出された。昭和21年(1946)に改訂版が出てからも現在まで岩波文庫の長期ベストセラーです。皆さん一度は読まれたことはあるでしょう。ここに紹介した文は1979年の文庫版からの引用です。

太平洋戦争の末期昭和18年ごろ、学徒動員でペンを銃に持ち替え戦地へ向かう学生たちは、祖国防衛のため死を覚悟し今生の思い出にと大和路を巡礼されました。その時、この『古寺巡礼』は一種の聖典であり学徒兵の必携書籍でした。本が手に入らなければ手書きの古寺巡礼を作ったそうです。

戦場に散華された学徒は、いまも草葉の陰で祖国日本の文化の精粋を見守って

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2013年7月13日 (土)

般若寺 季節の花だより  7・13

 

《いま咲いている花》

○夏コスモス:≪半分になっています≫7月いっぱいまで。15種類、3万本。

猛暑の中、毎日秋コスモスの苗を植え付けています。全部植え終わるのは八月上旬ごろ。

・夏花は抜き取ってしまいますので花ご希望の方にはさしあげます。

・睡蓮、ヒツジ草:≪咲きはじめ≫ 水辺の花。日本在来の睡蓮の原生種。これから初秋まで咲きます。

・秋海棠: ≪咲きはじめ≫ ハート形の緑の大きい葉っぱに、ピンク色の小さい花が咲いて涼しげです。

 

《秋コスモス》9月中旬~11月中旬。35種類。10万本。

苗が育っています。真夏の日照と気温のおかげで育ちは早く、種まきから7080日ていどで開花します。咲かせる時期を設定し、日数をさかのぼって種をまきます。水やり、植え付け、除草など心を込めて世話をしてやれば、秋にはきれいな花を咲かせます。

 

*「南朝御聖蹟を顕彰する」92

大塔宮:

『太平記』巻第五 「大塔宮南都御隠居後(のち)十津川御栖(おんすま)ひの事」(別写本では「大塔宮熊野落事(をほたうのみやくまのをちのこと)」

・本文〈跡に連(つづ)いて進みける物ども、これを見て、近づく物はなくて、ただ遠矢にぞ射すくめたりける。片岡八郎、矢二筋射著(つ)けられて、今は助かりがたしと思ひければ、武田彦七に申しけるは、「我はとても痛手を負ひたれば、ここにて打死せんずるぞ。御辺は急ぎ宮の御方へこの由を申して、一間途も落し進らせよ」と強(あなが)ちに申しければ、「死を一所に定むるは勇士の堅き約なれば、諸共にこそ打ち死せめ」と申しけるを、再三(ふたたびみたび)これを教訓して、「ただ急ぎ帰って、宮に申したらんぞ、真の忠貞なるべけん」と、泪を流しける間、誠にもこの由申さずんば不忠なるべしとて、力なく、ただ今打死する傍輩を見捨てて帰りける心中、推量せられて哀れなり。〉

・訳(後に続いて追って来た者たち、この様子を見て近づく者はいず、ただ遠くから矢を放ち、二人を釘づけにした。片岡八郎は矢を二本射当てられて、もう助かるまいと思ったので、武田に言うことには、「私はこのように深手を負ったので、ここで討死するつもりだ。貴殿は急いで宮様にこの旨を報告して、ひとまず申しあげてくれ」と熱心に言うので、「同じ所で死ぬのが勇士の堅い約束だから、一緒に討死しよう」と武田が言ったのを、八郎は再三諭して、「ただ急いで帰って、宮にご報告するのが、真の貞節ある忠義であろう」と、涙をながして言うので武田はなるほどこの旨を宮にご報告しなければ不忠になると考え、力なく、ただ今にも討死する友を見捨てて帰った武田の心中が察せられて、気の毒であった。) (つづく)

 

〔短歌〕

「夏来れば 築地の朝の 好もしさ

        海の風吹く のうぜんかづら」

          木下利玄・銀

〔俳句〕

「会釈したき 夜明けの人よ 夏柳」渡辺水巴

〔和歌〕

「夕まぐれ 風につれなき 白露は

        しのぶにすがる ほたるなりけり」

          惟明親王・玉葉402

「薄暗い夕暮、風が吹いていてもこぼれずに平気でいる白露を何かと見れば、それは軒の忍草に取りすがっている蛍だったよ。」

 

*秋艸道人、会津八一先生の歌集『鹿鳴集』より、奈良愛惜の歌。

〈海上 昭和十八年十一月

  十一月十日学生を伴ひ奈良に向かふ〉

「ひさかたの みそらはるけく あもりきて

         うまししくにを まもらざらめや」

〈東京にかへるとて〉

「あをによし ならやまこへて さかるとも

         ゆめにしみえこ わかくさのやま」

〈東京にかへりて後に〉

「ならやまを さかりしひより あさにけに

         みてらみほとけ おもかげにたつ」

 「夢にまで見える若草山」「面影にたつ御寺御仏」はいつまでもたいせつに残しておきたいものです。

 

《当尾の里 浄瑠璃寺・岩船寺を奈良市の暴挙から守るために》

*「浄瑠璃寺の春」(堀辰雄著『大和路・信濃路』より)

⑥ 阿弥陀堂へ僕たちを案内してくれたのは、寺僧ではなく、その娘らしい、十六七の、ジャケット姿の少女だった。

 うすぐらい堂のなかにずらりと並んでいる金色の九体仏を一わたり見てしまうと、こんどは一つ一つ丹念にそれを見はじめている僕をそこに残して、妻はその寺の娘とおもに堂のそとに出て、陽あたりのいい縁さきで、裏庭の方かなんぞを眺めながら、こんな会話をしあっている。

「ずいぶん大きな柿の木ね。」妻の声がする。

「ほんまにええ柿の木やろ。」少女の返事はいかにも得意そうだ。

「何本あるのかしら? 一本、二本、三本・・・」

「みんなで七本だす。七本だすが、沢山に成りまっせ。九体寺の柿やいうてな、それを目あてに、人はんが大ぜいハイキングに来やはります。あてが一人で捥(も)いで上げるのだすがなあ、そのときのせわしい事やったらおまへんなあ。」

「そうお。その時分、柿を食べにきたいわね。」

「ほんまに、秋にまたお出でなはれ。この頃は一番あきまへん。なあも無うて・・・」

「でも、いろんな花がさいていて。綺麗ね・・・」

「そうだす。いまはほんまに綺麗やろ。そやけれど、あこの菖蒲の咲くころもよろしいおまっせ。それからまた、夏になるとなあ、あこの睡蓮が、それはそれは綺麗な花をさかせまっせ。・・・」そう言いながら、急に少女は何かを思い出したようにひとりごちた。「ああ、そやそや、葱とりに往かにゃならんかった。」

「そうだったの、それは悪かったわね。はやく往ってらっしゃいよ。」

「まあ、あとでもええわ。」

それから二人は急に黙ってしまっていた。 

⑦僕はそういう二人の話を耳にはさみながら、九体仏をすっかり見終わると、堂のそとに出て、そこの縁さきから蓮池のほうをいっしょに眺めている二人の方へ近づいていった。

僕は堂の扉を締めにいった少女と入れかわりに、妻のそばになんということもなしに立った。

「もう、およろしいの?」

「ああ。」そう言いながら、僕はしばらくぼんやりと観仏に憑かれた目を蓮池のほうへやっていた。

 少女が堂の扉を締めおわって、大きな鍵を手にしながら、戻ってきたので、

「どうもありがとう。」と言って、さあ、もう少女を自由にさせてやろうと妻に目くばせをした。

「あこの塔も見なはんなら、御案内しまっせ。」少女は池の向うの、松林のなかに、いかにもさわやかに立っている三重塔のほうへ僕たちを促した。

「そうだな、ついでだから見せて貰おうか。」僕は答えた。「でも、君は用があるんなら、さきにその用をすましてきたらどうだい?」

「あとでもええことだす。」少女はもうその事はけろりとしているようだった。

 (つづく)

 

*今、若草山の北麓、、正倉院、東大寺、春日山にも近く、京都府木津川市浄瑠璃寺南隣の「中ノ川・東鳴川」の地に、奈良市のごみ焼却場を建設するという古都破壊のとんでもない計画があります。          

 建設候補地は奈良市側ではありますが、京都府の浄瑠璃寺まで数百メートルの至近距離です。ここに焼却場ができ、高い煙突(計画の高さ80m)から煙が吐き出されることになれば、奈良側からの古都の歴史景観は台無しです。まるで若草山頂上から噴火したように見えます。また風向きによっては正倉院、東大寺にも煙が流れます。

そして当尾の里・浄瑠璃寺は平安時代の神聖な浄土庭園と国宝の堂塔、仏像文化財が排煙にまみれることになります。

このような事態は考えるのもおぞましいことで、最悪無謀な文化破壊です。

奈良市の策定委員会と奈良市長は計画を即刻撤回すべきです。

この地域は、いにしえの奈良山丘陵でもあります。歴史ゆたかな青垣の山々を愛し、心のふるさととして心癒されている日本人がどれだけ大勢いることか、為政者は思いを致すべきです。

「やまとは 国のまほろば たたなづく

青垣やまごもれる やまとしうるはし」

  日本武尊(やまとたけるのみこと)・古事記

悠久の大和、奈良の山々は日本人の心のふるさと、国のまほろばです。

 

*先月620日、木津川市加茂町当尾地区の五ヵ寺の寺院住職方と総代方が奈良市長と策定委員会に対し、クリーンセンター計画現候補地の撤回を申し入れされました。この計画は余りにも当尾地区に近接した場所であります。特に浄瑠璃寺にとってはすぐ隣です。あの美しい平安時代の浄土式庭園を拝観しようとすると、真上の空にゴミ焼きの煙が立ちのぼることになります。あるいは煙突が見えるかもしれません。奈良市長と策定委員会の委員たちは浄瑠璃寺へ行ったことがないのでしょうか。堀辰雄の「浄瑠璃寺の春」を読んだことがないような低水準の人たちなのでしょうか。浄瑠璃寺の価値を理解できない文化程度の人に古都奈良の命運が握られているとは情けないことです。

もしもこの計画が実行されれば、全国の熱烈な浄瑠璃寺ファンの人たちは奈良市の暴挙に怒りを覚え、そしてこの計画を立案し実行する人達を許さないでしょう。

 

*和辻哲郎の『古寺巡礼』にも浄瑠璃寺は出ています。「浄瑠璃寺への道」です。

「 寺の小さい門や白い壁やその上からのぞいている松の木などの野趣に充ちた風情をながめた時に、わたくしはそれを前にも見たというような気持ちに襲われた。門をはいって最初に目についたのは、本堂と塔との間にある寂しい池の、水の色と葦の若芽の色とであったが、その奇妙に澄んだ、濃い、冷たい色の調子も、(それが今初めて気づいた珍しいものであったにもかかわらず)初めてだという気はしなかった。背後に山を負うていかにもしっくりとこの庭にハマっている優美な形の本堂も、――また庭の隅の小高いところに朽ちかかったような色をして立っている小さい三重の塔も、わたくしには初めてではなかった。わたくしは堂の前の白い砂の上を歩きながら、この漠然たる心持ちから脱することができなかったのである。

 この心持は一体何であろうか。浅い山ではあるが、とにかく山の上に、下界と切り離されたようになって、一つの長閑な村がある。そこに自然と抱き合って、優しい小さな塔とお堂とがある。心を潤すような愛らしさが、すべての者の上に一面に漂っている。それは近代人の心にはあまりに淡きに過ぎ平凡に過ぎる光景ではあるが、しかしわれわれの心が和らぎと休息とを求めている時には、秘めやかな魅力をもってわれわれの心の底にある物を動かすのである。古人の抱いた桃源の夢想―それが浄土の幻想と結びついて、この山上の地を択ばせ、この池のほとりのお堂を建てさせたのかも知れないと思われるが、―

 それをわれわれは自分たちと全然縁のない昔の逸民の空想だと思っていた。しかるにその夢想を表現した山村の寺に面接して見ると、われわれはなおその夢想に共鳴するある物を持っていたのである。それはわたくしにはおどろきであった。しかし考えてみると、われわれはみなかつては桃源に住んでいたのである。すなわちわれわれはかつて子供であった! これがあの心持ちの秘密なのではなかろうか。 」

 

 『古寺巡礼』は大正8年(1919)、岩波書店から出された。昭和21年(1946)に改訂版が出てからも現在まで岩波文庫の長期ベストセラーです。皆さん一度は読まれたことはあるでしょう。ここに紹介した文は1979年の文庫版からの引用です。

太平洋戦争の末期昭和18年ごろ、学徒動員でペンを銃に持ち替え戦地へ向かう学生たちは、祖国防衛のため死を覚悟し今生の思い出にと大和路を巡礼されました。その時、この『古寺巡礼』は一種の聖典であり学徒兵の必携書籍でした。本が手に入らなければ手書きの古寺巡礼を作ったそうです。

戦場に散華された学徒は、いまも草葉の陰で祖国日本の文化の精粋を見守っています。そして魂魄は古寺の聖域破壊をする輩を許さないでしょう。

 この問題を詳しく知りたい方は、

ホームページ『奈良市クリーンセンター建設計画に関する課題について』をご覧ください。本計画の問題点が的確にまとめられています。HP「般若寺」からリンクされています。

 

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2013年7月12日 (金)

般若寺 季節の花だより  7・12

 

《いま咲いている花》

○夏コスモス:≪半分になっています≫7月いっぱいまで。15種類、3万本。

猛暑の中、毎日秋コスモスの苗を植え付けています。全部植え終わるのは八月上旬ごろ。

・夏花は抜き取ってしまいますので花ご希望の方にはさしあげます。

・睡蓮、ヒツジ草:≪咲きはじめ≫ 水辺の花。日本在来の睡蓮の原生種。これから初秋まで咲きます。

・秋海棠: ≪咲きはじめ≫ ハート形の緑の大きい葉っぱに、ピンク色の小さい花が咲いて涼しげです。

 

《秋コスモス》9月中旬~11月中旬。35種類。10万本。

苗が育っています。真夏の日照と気温のおかげで育ちは早く、種まきから7080日ていどで開花します。咲かせる時期を設定し、日数をさかのぼって種をまきます。水やり、植え付け、除草など心を込めて世話をしてやれば、秋にはきれいな花を咲かせます。

 

*「南朝御聖蹟を顕彰する」91

大塔宮:

『太平記』巻第五 「大塔宮南都御隠居後(のち)十津川御栖(おんすま)ひの事」(別写本では「大塔宮熊野落事(をほたうのみやくまのをちのこと)」

・本文〈 宮つくづくと聞こし召して、「蒭蕘(すうぜう、草刈りと木こり)言(ことば)までも捨てざるはこれなり。さらばこの庄司を語らひてみばや」とぞ仰せられて、片岡八郎・武田彦七二人を庄司が許へ遣はされて、「この道を御通りあるべし。警固をのけ、木戸開いて通し進(まゐ)らせよ」とぞ仰せ下されける。〉

・訳(宮はじっとお聞きになって、「木こり・草刈りの言葉までも聞き捨てにしないとはこのことだ。ならば、この庄司を味方につけたいものだ」とおっしゃり、片岡八郎・武田彦七の二人を庄司のもとへお遣わしになって、「大塔宮がこの道をお通りになる。道の警固を解き。木戸口を開き、一行をお通しせよ」と仰せになった。)

・本文〈玉置庄司、御使に出で合ふて、事の由を聞いて、無返事にて内へ入りけるが、やがて若党・中間ども物具して馬に鞍置かせ、ひしめきける間、二人の御使ども、「いやいやこの事叶ふまじげなり。さらば急ぎ走り帰って、この由を申さん」とて、足早に帰れば、玉置が若党五、六十人、取太刀ばかりにて追ひ懸けたり。二人の物ども立ち止つて、小松のニ、三本滋(しげ)りたる陰より跳び出でて、真つ先に進みたる武者の双膝苅(もろひざな)いで頭打ち落し、のりたる(曲がること)太刀を推しなほしてぞ、立つたりける。〉

・訳(玉置庄司は使者に会い、事情を聞いて、返事もせずに邸中にへ入ったが、すぐに若侍や中間たちが武装して馬に鞍を置き、大勢で騒ぎ始めたので、二人の使者は、「どうやらこのことは無理なようだ。では急いで走り帰り、この旨を報告しよう」と、足早に帰ると、玉置の若侍たち五、六十人がおっとり刀で追いかけて来た。二人の使者は立ち止って、小松が二、三本茂った木陰から躍り出て、先頭の武士の両膝を横に払って首を打ち落し、そり返った太刀を押し直して、道に立ちふさがった。) (つづく)

 

〔短歌〕

「すかされて 泣く目をやりし 夕空に

         遠くやさしき 月照り居たり」

           木下利玄・銀

〔俳句〕

「光り合ふ 二つの山の 茂りかな」向井去来

〔和歌〕

「すずしやと 風の便りを たづぬれば

         しげみになびく 野べのさゆりば」

           式子内親王・風雅402

「涼しいのはどこかしらと、風の生れそうな所を尋ねて行ってみたらば、茂みの中でひっそりとなびく、野の百合の葉に行き当たったよ。」

・風の便り=風のよりどころ。

・さゆりば=百合の葉。また小百合花の約。

 

*秋艸道人、会津八一先生の歌集『鹿鳴集』より、奈良愛惜の歌。

〈海上 昭和十八年十一月

  十一月十日学生を伴ひ奈良に向かふ〉

「かきたらす かみのぬぼこの ねもさやに

         なりいでにけむ あきつしまやま」

〈東京にかへるとて〉

「あをによし ならやまこへて さかるとも

         ゆめにしみえこ わかくさのやま」

〈東京にかへりて後に〉

「ならやまを さかりしひより あさにけに

         みてらみほとけ おもかげにたつ」

 「夢にまで見える若草山」「面影にたつ御寺御仏」はいつまでもたいせつに残しておきたいものです。

 

《当尾の里 浄瑠璃寺・岩船寺を奈良市の暴挙から守るために》

*「浄瑠璃寺の春」(堀辰雄著『大和路・信濃路』より)

⑤「まあ、これがあなたの大好きな馬酔木の花?」妻もその灌木のそばに寄ってきながら、その細かな白い花を仔細に見ていたが、しまいには、なんということもなしに、そのふっさりと垂れた一と塊りを掌のうえに載せたりしてみていた。

 どこか犯しがたい気品がある、それでいて、どうにでもしてそれを手折って、ちょっと人に見せたいような、いじらしい風情をした花だ。云わば、この花のそんなところが、花というものが今よりかずっと意味ぶかかった万葉びとたちに、ただ綺麗なだけならもっと他にもあるのに、それらのどの花にも増して、いたく愛せられていたのだ。――そんなことを自分の傍でもってさっきからいかにも無心そうに妻のしだしている手まさぐりから僕はふいと、思い出していた。

「何をいつまでもそうしているのだ。」僕はとうとうそう言いながら、妻を促した。

僕は再び言った。「おい、こっちにいい池があるから、来てごらん。」

「まあ、ずいぶん古そうな池ね。」妻はすぐついて来た。「あれはみんな睡蓮ですか?」

「そうらしいな。」そう僕はいい加減な返事をしながら、その池の向うに見えている阿弥陀堂を熱心に眺めだしていた。 

⑥ 阿弥陀堂へ僕たちを案内してくれたのは、寺僧ではなく、その娘らしい、十六七の、ジャケット姿の少女だった。

 うすぐらい堂のなかにずらりと並んでいる金色の九体仏を一わたり見てしまうと、こんどは一つ一つ丹念にそれを見はじめている僕をそこに残して、妻はその寺の娘とおもに堂のそとに出て、陽あたりのいい縁さきで、裏庭の方かなんぞを眺めながら、こんな会話をしあっている。

「ずいぶん大きな柿の木ね。」妻の声がする。

「ほんまにええ柿の木やろ。」少女の返事はいかにも得意そうだ。

「何本あるのかしら? 一本、二本、三本・・・」

「みんなで七本だす。七本だすが、沢山に成りまっせ。九体寺の柿やいうてな、それを目あてに、人はんが大ぜいハイキングに来やはります。あてが一人で捥(も)いで上げるのだすがなあ、そのときのせわしい事やったらおまへんなあ。」

「そうお。その時分、柿を食べにきたいわね。」

「ほんまに、秋にまたお出でなはれ。この頃は一番あきまへん。なあも無うて・・・」

「でも、いろんな花がさいていて。綺麗ね・・・」

「そうだす。いまはほんまに綺麗やろ。そやけれど、あこの菖蒲の咲くころもよろしいおまっせ。それからまた、夏になるとなあ、あこの睡蓮が、それはそれは綺麗な花をさかせまっせ。・・・」そう言いながら、急に少女は何かを思い出したようにひとりごちた。「ああ、そやそや、葱とりに往かにゃならんかった。」

「そうだったの、それは悪かったわね。はやく往ってらっしゃいよ。」

「まあ、あとでもええわ。」

それから二人は急に黙ってしまっていた。 (つづく)

 

*今、若草山の北麓、、正倉院、東大寺、春日山にも近く、京都府木津川市浄瑠璃寺南隣の「中ノ川・東鳴川」の地に、奈良市のごみ焼却場を建設するという古都破壊のとんでもない計画があります。          

 建設候補地は奈良市側ではありますが、京都府の浄瑠璃寺まで数百メートルの至近距離です。ここに焼却場ができ、高い煙突(計画の高さ80m)から煙が吐き出されることになれば、奈良側からの古都の歴史景観は台無しです。まるで若草山頂上から噴火したように見えます。また風向きによっては正倉院、東大寺にも煙が流れます。

そして当尾の里・浄瑠璃寺は平安時代の神聖な浄土庭園と国宝の堂塔、仏像文化財が排煙にまみれることになります。

このような事態は考えるのもおぞましいことで、最悪無謀な文化破壊です。

奈良市の策定委員会と奈良市長は計画を即刻撤回すべきです。

この地域は、いにしえの奈良山丘陵でもあります。歴史ゆたかな青垣の山々を愛し、心のふるさととして心癒されている日本人がどれだけ大勢いることか、為政者は思いを致すべきです。

「やまとは 国のまほろば たたなづく

青垣やまごもれる やまとしうるはし」

  日本武尊(やまとたけるのみこと)・古事記

悠久の大和、奈良の山々は日本人の心のふるさと、国のまほろばです。

 

*先月620日、木津川市加茂町当尾地区の五ヵ寺の寺院住職方と総代方が奈良市長と策定委員会に対し、クリーンセンター計画現候補地の撤回を申し入れされました。この計画は余りにも当尾地区に近接した場所であります。特に浄瑠璃寺にとってはすぐ隣です。あの美しい平安時代の浄土式庭園を拝観しようとすると、真上の空にゴミ焼きの煙が立ちのぼることになります。あるいは煙突が見えるかもしれません。奈良市長と策定委員会の委員たちは浄瑠璃寺へ行ったことがないのでしょうか。堀辰雄の「浄瑠璃寺の春」を読んだことがないような低水準の人たちなのでしょうか。浄瑠璃寺の価値を理解できない文化程度の人に古都奈良の命運が握られているとは情けないことです。

もしもこの計画が実行されれば、全国の熱烈な浄瑠璃寺ファンの人たちは奈良市の暴挙に怒りを覚え、そしてこの計画を立案し実行する人達を許さないでしょう。

 

*和辻哲郎の『古寺巡礼』にも浄瑠璃寺は出ています。「浄瑠璃寺への道」です。

「 寺の小さい門や白い壁やその上からのぞいている松の木などの野趣に充ちた風情をながめた時に、わたくしはそれを前にも見たというような気持ちに襲われた。門をはいって最初に目についたのは、本堂と塔との間にある寂しい池の、水の色と葦の若芽の色とであったが、その奇妙に澄んだ、濃い、冷たい色の調子も、(それが今初めて気づいた珍しいものであったにもかかわらず)初めてだという気はしなかった。背後に山を負うていかにもしっくりとこの庭にハマっている優美な形の本堂も、――また庭の隅の小高いところに朽ちかかったような色をして立っている小さい三重の塔も、わたくしには初めてではなかった。わたくしは堂の前の白い砂の上を歩きながら、この漠然たる心持ちから脱することができなかったのである。

 この心持は一体何であろうか。浅い山ではあるが、とにかく山の上に、下界と切り離されたようになって、一つの長閑な村がある。そこに自然と抱き合って、優しい小さな塔とお堂とがある。心を潤すような愛らしさが、すべての者の上に一面に漂っている。それは近代人の心にはあまりに淡きに過ぎ平凡に過ぎる光景ではあるが、しかしわれわれの心が和らぎと休息とを求めている時には、秘めやかな魅力をもってわれわれの心の底にある物を動かすのである。古人の抱いた桃源の夢想―それが浄土の幻想と結びついて、この山上の地を択ばせ、この池のほとりのお堂を建てさせたのかも知れないと思われるが、―

 それをわれわれは自分たちと全然縁のない昔の逸民の空想だと思っていた。しかるにその夢想を表現した山村の寺に面接して見ると、われわれはなおその夢想に共鳴するある物を持っていたのである。それはわたくしにはおどろきであった。しかし考えてみると、われわれはみなかつては桃源に住んでいたのである。すなわちわれわれはかつて子供であった! これがあの心持ちの秘密なのではなかろうか。 」

 

 『古寺巡礼』は大正8年(1919)、岩波書店から出された。昭和21年(1946)に改訂版が出てからも現在まで岩波文庫の長期ベストセラーです。皆さん一度は読まれたことはあるでしょう。ここに紹介した文は1979年の文庫版からの引用です。

太平洋戦争の末期昭和18年ごろ、学徒動員でペンを銃に持ち替え戦地へ向かう学生たちは、祖国防衛のため死を覚悟し今生の思い出にと大和路を巡礼されました。その時、この『古寺巡礼』は一種の聖典であり学徒兵の必携書籍でした。本が手に入らなければ手書きの古寺巡礼を作ったそうです。

戦場に散華された学徒は、いまも草葉の陰で祖国日本の文化の精粋を見守っています。そして魂魄は古寺の聖域破壊をする輩を許さないでしょう。

 この問題を詳しく知りたい方は、

ホームページ『奈良市クリーンセンター建設計画に関する課題について』をご覧ください。本計画の問題点が的確にまとめられています。HP「般若寺」からリンクされています。Dsc03439_2

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2013年7月11日 (木)

般若寺 季節の花だより  7・11

 

《いま咲いている花》

○夏コスモス:≪五分咲き≫7月中旬まで。15種類、3万本。

連日の猛暑の中、秋コスモスの苗を植え付けています。全部植え終わるには八月までかかります。

・夏花は抜き取ってしまいますのでご希望の方はさしあげています。

・睡蓮、ヒツジ草:≪咲きはじめ≫ 水辺の花。日本在来の睡蓮の原生種。これから初秋まで咲きます。

・秋海棠: ≪咲きはじめ≫ ハート形の緑の大きい葉っぱに、ピンク色の小さい花が咲いて涼しげです。

 

《秋コスモス》9月中旬~11月中旬。35種類。10万本。

苗が育っています。真夏の日照と気温のおかげで育ちは早く、種まきから7080日ていどで開花します。咲かせる時期を設定し、日数をさかのぼって種をまきます。水やり、植え付け、除草など心を込めて世話をしてやれば、秋にはきれいな花を咲かせます。

 

*「南朝御聖蹟を顕彰する」90

大塔宮:

『太平記』巻第五 「大塔宮南都御隠居後(のち)十津川御栖(おんすま)ひの事」(別写本では「大塔宮熊野落事(をほたうのみやくまのをちのこと)」

・本文〈 その夜は、椎柴垣(しひしばがき)の間(ひま)あらはなる山奴(やまがつ)の菴(いほ)に、御枕を傾けさせ給ひて、明くれば小原(をばら、十津川村小原)へと志すを、薪負へる山人(さんじん)の道に行き合ひ奉りたるに事の様を御尋ねありければ、心なき樵父(きこり)までもさすが見知り進(まゐ)らせてやありけん、薪をおろし地に跪(ひざまづ)いて、〉

・訳(その夜は、椎の木立が垣を作る、すき間だらけの木こりの小屋にお休みになられ、明けると小原を目ざし、薪を背負った木こりと途中で出会い、様子をお尋ねになったところ、教養のない木こりでも、宮をさすがに見知り申しあげていたのか、薪を背からおろして地にひざまずき、)

・本文〈「小原へこれより御通り候はんずる道には、玉置庄司とて、弐(ふたこころ)なき武家の方人(かたうど)候ふなり。この人を御語らひ候はでは、いかなる大勢なりとも、御通り候はじ」とぞ申しける〉

・訳(「ここから小原へお通りなされる道には、玉置庄司といって、並びない武家方の人がおります。この人を味方におつけにならなくては、どんな大勢でも、とおることはおできになれません」と申し上げた。)

(つづく)

 

〔短歌〕

「夕方に 子供の遊ぶ ころとなり

       町にも下る 蒼きうす靄」

      木下利玄・銀

〔俳句〕

「噴火せし あとのさびしさ 山開」加倉井秋を

〔和歌〕

「草ふかき 窓の蛍は かげ消えて

        あくる色ある 野べの白露」

          前参議雅有・玉葉398

「草深い庵の窓辺を飛ぶ蛍はその光を失い、代って明け方の光に生き生きと輝きはじめる、野原一面の白露よ。」

 

*秋艸道人、会津八一先生の歌集『鹿鳴集』より、奈良愛惜の歌。

〈海上 昭和十八年十一月

  十一月十日学生を伴ひ奈良に向かふ〉

「わたつみの そこついはねの しほざゐに

         かみのうましし あきつしまやま」

〈東京にかへるとて〉

「あをによし ならやまこへて さかるとも

         ゆめにしみえこ わかくさのやま」

〈東京にかへりて後に〉

「ならやまを さかりしひより あさにけに

         みてらみほとけ おもかげにたつ」

 「夢にまで見える若草山」「面影にたつ御寺御仏」はいつまでもたいせつに残しておきたいものです。

 

《当尾の里 浄瑠璃寺・岩船寺を奈良市の暴挙から守るために》

*「浄瑠璃寺の春」(堀辰雄著『大和路・信濃路』より)

⑤「まあ、これがあなたの大好きな馬酔木の花?」妻もその灌木のそばに寄ってきながら、その細かな白い花を仔細に見ていたが、しまいには、なんということもなしに、そのふっさりと垂れた一と塊りを掌のうえに載せたりしてみていた。

 どこか犯しがたい気品がある、それでいて、どうにでもしてそれを手折って、ちょっと人に見せたいような、いじらしい風情をした花だ。云わば、この花のそんなところが、花というものが今よりかずっと意味ぶかかった万葉びとたちに、ただ綺麗なだけならもっと他にもあるのに、それらのどの花にも増して、いたく愛せられていたのだ。――そんなことを自分の傍でもってさっきからいかにも無心そうに妻のしだしている手まさぐりから僕はふいと、思い出していた。

「何をいつまでもそうしているのだ。」僕はとうとうそう言いながら、妻を促した。

僕は再び言った。「おい、こっちにいい池があるから、来てごらん。」

「まあ、ずいぶん古そうな池ね。」妻はすぐついて来た。「あれはみんな睡蓮ですか?」

「そうらしいな。」そう僕はいい加減な返事をしながら、その池の向うに見えている阿弥陀堂を熱心に眺めだしていた。 (つづく)

 

*今、若草山の北麓、、正倉院、東大寺、春日山にも近く、京都府木津川市浄瑠璃寺南隣の「中ノ川・東鳴川」の地に、奈良市のごみ焼却場を建設するという古都破壊のとんでもない計画があります。          

 建設候補地は奈良市側ではありますが、京都府の浄瑠璃寺まで数百メートルの至近距離です。ここに焼却場ができ、高い煙突(計画の高さ80m)から煙が吐き出されることになれば、奈良側からの古都の歴史景観は台無しです。まるで若草山頂上から噴火したように見えます。また風向きによっては正倉院、東大寺にも煙が流れます。

そして当尾の里・浄瑠璃寺は平安時代の神聖な浄土庭園と国宝の堂塔、仏像文化財が排煙にまみれることになります。

このような事態は考えるのもおぞましいことで、最悪無謀な文化破壊です。

奈良市の策定委員会と奈良市長は計画を即刻撤回すべきです。

この地域は、いにしえの奈良山丘陵でもあります。歴史ゆたかな青垣の山々を愛し、心のふるさととして心癒されている日本人がどれだけ大勢いることか、為政者は思いを致すべきです。

「やまとは 国のまほろば たたなづく

青垣やまごもれる やまとしうるはし」

  日本武尊(やまとたけるのみこと)・古事記

悠久の大和、奈良の山々は日本人の心のふるさと、国のまほろばです。

 

*先月620日、木津川市加茂町当尾地区の五ヵ寺の寺院住職方と総代方が奈良市長と策定委員会に対し、クリーンセンター計画現候補地の撤回を申し入れされました。この計画は余りにも当尾地区に近接した場所であります。特に浄瑠璃寺にとってはすぐ隣です。あの美しい平安時代の浄土式庭園を拝観しようとすると、真上の空にゴミ焼きの煙が立ちのぼることになります。あるいは煙突が見えるかもしれません。奈良市長と策定委員会の委員たちは浄瑠璃寺へ行ったことがないのでしょうか。堀辰雄の「浄瑠璃寺の春」を読んだことがないような低水準の人たちなのでしょうか。浄瑠璃寺の価値を理解できない文化程度の人に古都奈良の命運が握られているとは情けないことです。

もしもこの計画が実行されれば、全国の熱烈な浄瑠璃寺ファンの人たちは奈良市の暴挙に怒りを覚え、そしてこの計画を立案し実行する人達を許さないでしょう。

 

*和辻哲郎の『古寺巡礼』にも浄瑠璃寺は出ています。「浄瑠璃寺への道」です。

「 寺の小さい門や白い壁やその上からのぞいている松の木などの野趣に充ちた風情をながめた時に、わたくしはそれを前にも見たというような気持ちに襲われた。門をはいって最初に目についたのは、本堂と塔との間にある寂しい池の、水の色と葦の若芽の色とであったが、その奇妙に澄んだ、濃い、冷たい色の調子も、(それが今初めて気づいた珍しいものであったにもかかわらず)初めてだという気はしなかった。背後に山を負うていかにもしっくりとこの庭にハマっている優美な形の本堂も、――また庭の隅の小高いところに朽ちかかったような色をして立っている小さい三重の塔も、わたくしには初めてではなかった。わたくしは堂の前の白い砂の上を歩きながら、この漠然たる心持ちから脱することができなかったのである。

 この心持は一体何であろうか。浅い山ではあるが、とにかく山の上に、下界と切り離されたようになって、一つの長閑な村がある。そこに自然と抱き合って、優しい小さな塔とお堂とがある。心を潤すような愛らしさが、すべての者の上に一面に漂っている。それは近代人の心にはあまりに淡きに過ぎ平凡に過ぎる光景ではあるが、しかしわれわれの心が和らぎと休息とを求めている時には、秘めやかな魅力をもってわれわれの心の底にある物を動かすのである。古人の抱いた桃源の夢想―それが浄土の幻想と結びついて、この山上の地を択ばせ、この池のほとりのお堂を建てさせたのかも知れないと思われるが、―

 それをわれわれは自分たちと全然縁のない昔の逸民の空想だと思っていた。しかるにその夢想を表現した山村の寺に面接して見ると、われわれはなおその夢想に共鳴するある物を持っていたのである。それはわたくしにはおどろきであった。しかし考えてみると、われわれはみなかつては桃源に住んでいたのである。すなわちわれわれはかつて子供であった! これがあの心持ちの秘密なのではなかろうか。 」

 

 『古寺巡礼』は大正8年(1919)、岩波書店から出された。昭和21年(1946)に改訂版が出てからも現在まで岩波文庫の長期ベストセラーです。皆さん一度は読まれたことはあるでしょう。ここに紹介した文は1979年の文庫版からの引用です。

太平洋戦争の末期昭和18年ごろ、学徒動員でペンを銃に持ち替え戦地へ向かう学生たちは、祖国防衛のため死を覚悟し今生の思い出にと大和路を巡礼されました。その時、この『古寺巡礼』は一種の聖典であり学徒兵の必携書籍でした。本が手に入らなければ手書きの古寺巡礼を作ったそうです。

戦場に散華された学徒は、いまも草葉の陰で祖国日本の文化の精粋を見守っています。そして魂魄は古寺の聖域破壊をする輩を許さないでしょう。